10月のテレビ出演 |
今月は4日(金)と18日(金)です。前回からの続きで、『街歩きノオト』第9号から備前市香登の話題を取り上げます。香登は一見地味な町ですが、実は歴史が深く、知ってから歩くと見どころいっぱいです。
香登第2回目の明日は、“古墳”と“お歯黒”について紹介する予定です。
↓ かつて特産品「お歯黒」を製造販売していたという家の一つ。
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2013年 10月 03日
RSKテレビ『イブニング5時』内「岡山まちあるきアルバム」コーナーへの出演のお知らせです。
今月は4日(金)と18日(金)です。前回からの続きで、『街歩きノオト』第9号から備前市香登の話題を取り上げます。香登は一見地味な町ですが、実は歴史が深く、知ってから歩くと見どころいっぱいです。 香登第2回目の明日は、“古墳”と“お歯黒”について紹介する予定です。 ↓ かつて特産品「お歯黒」を製造販売していたという家の一つ。 #
by machiarukinote
| 2013-10-03 11:12
| お知らせ
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2013年 10月 03日
今回の京都・奈良訪問、他にも訪ねた所、お会いした方々は色々なのですが、長くなるので(既に①②で充分長い!)省略させていただくとして、歩いていた途中で偶然見掛け、心惹かれて思わずシャッターを切った風景をいくつかご紹介します。
まずは京都。京都はさすが千年の都で、かつ空襲の被害を受けていない都市だけあって、あちこちでカッコいい伝統的和風建築や近代建築を普通に見ることができます。看板建築とか、レトロビルとか、煉瓦の建物とか。もうあり過ぎていちいち写真撮ってられないくらい。バスでさーっと通り過ぎる時に車窓から眺めるだけも、あれあれあれ!と次々に現れます。時間があったら後日あらためて見に行きたいくらいのものもあるけど、いちいち覚えてられないほどある・・・。 下の写真は、六道珍皇寺や六道の辻がある通りから1本北の道路沿いで見かけた洋風レトロの医院。いい感じの和風民家が連なる先に、ひときわ背の高い西洋お城もどきのコレが見えた時には、一瞬??でした。こんなところに、何?ラブホ? こちらは廃校になった元小学校の建物(旧春日小学校)。下御霊神社や御所の近く。凝った装飾のバルコニーや緑青のふいた雨樋がカッコいい! その他にも京都では、新島襄・八重夫妻旧邸(明治時代の洋館)も見学しましたし、平安女学院校舎、聖アグネス教会、大丸ヴィラ、京都市庁舎、島津製作所河原町別館などなども道すがら目にしましたが、有名どころなので省略。 奈良では趣向を変えて(?)、路地裏をいくつか覗いてみました。 下の写真(↓)は、近鉄奈良駅にも近いアーケード街「もちいどのセンター街」から東に入る極細の路地。単なる建物の隙間なのか、一般人も歩いていい“道”なのか、迷うくらいの狭さです。ずっと奥、鍵の手になった付き当たりの壁に、ヒンズー教神の極彩色ポスターが貼ってあるのが見えるぞ。妖しさ満点! インドカレー屋か何からしい。店があるなら通って良いんでしょう、と入り込む・・・。 伝統的な和風木造家屋ですが、2階正面の窓の桟が変わっている。波々縁取りのデザイン! こんなの初めて見ました。ここだけ新しいものかな、とも思ったのですが、よく見ると窓ガラスの表面が波打っていて(昔の製法のガラス)、確かに古い時代のものらしい。 下の写真(↓)は、ならまちの十輪院というお寺の向かい側にある路地。普通の住宅が並ぶ路地のようなので、遠慮がちにカメラを向けていたら、小さな女の子がパッと家から元気よく飛び出し、一瞬にして向こうへ消えて行きました。付き当たりの「十輪院鍼灸所」という看板もいい味出してます。 倉敷でも感じましたが、こういう路地っていいですよね。京都には、路地裏歩きのガイドブックもあるくらい。京都や奈良では、しばしばこういう路地の先に面白い店があったりする。そう言えば、私が奈良で定宿にしている「ゲストハウスたむら」も“不審ヶ辻子”という路地の奥にあるし、いつも行く奈良雑貨のお店「フルコト」もちょっと分かりにくい路地を入った所にあります。岡山では、『ノオト』の販売でお世話になっている出石町の「ギャラリー&アトリエCoco」や番町の「ネイロ堂」がいい感じの路地にあるんですよね。・・・路地大好き! 岡山や倉敷でもこういうお店がもっと増えるといいな。 #
by machiarukinote
| 2013-10-03 00:45
| 街歩きレポート
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2013年 10月 01日
ここからは奈良編です。
この秋の奈良観光の最大の売り物といえば、薬師寺の「東塔水煙降臨展」(9月16日~11月30日)でしょう。薬師寺で唯一の創建当初からの建造物である東塔(国宝)は、現在大がかりな解体修理中で見ることはできません。その代わり、塔のてっぺんにあり、普段は遠くから眺めるしかない水煙(火災除けの願いを込めた金属製の装飾)が地上に降ろされ、間近に見られる、というのが今回の特別展です。薬師寺東塔はフェノロサが「凍れる音楽」と絶賛したとも言われる名塔で、中でもその水煙は、大勢の天女が舞翔ぶ繊細な意匠が超有名。教科書等で目にした覚えのある人も多いことと思います。この水煙が地上に降りるのは、前回の修理以来61年ぶりなのだとか。まさに一生に一回のチャンスです。迷わず見に行ってきました。 水煙降臨展は、白鳳伽藍の外の敷地内に仮設された巨大な倉庫みたいな会場で開催されていました。本来は修理に使う材木の保管庫だそうです。水煙のほか、宝輪(水煙の下に付く9つの輪)、塔内に安置されている四天王像なども展示されています。間近に見る宝輪は、一つ一つがタイヤみたいに大きくてびっくり。水煙(↓)は4つの面を十文字に組み合わせたものですが、一面だけでも小さめのドアくらいある。もっとも、こちらは細工が繊細なせいか、それほどバカでかい!という印象ではありませんでしたが。 やがて会場に薬師寺のお坊さんがやって来て、展示品の解説が始まりました。連休の祭日でしたが朝一番のせいか、まだそれほどの人出ではありません。少人数でじっくり解説を聞くことができました。名物管長だった高田好胤師以来の伝統か、お坊さん、話がとっても上手。おまけに特別展のパンフレットや御朱印、グッズ類の売り込みもしっかり・・・。イヤミでない程度に、しかし思わず欲しくなるような話術はさすがでした。ちなみに、この会場とは別の所で法話(薬師寺全体の解説など)をした若手のお坊さん(薬師寺で一番下っ端の20台半ば、だそうです)もユーモアたっぷりで話し上手でした。こちらもしっかり写経勧進の宣伝をしていた。好胤師の伝統は脈々と受け継がれているようです。 水煙に話を戻しますね。間近に見ると本当に良くできているのがいっそう分かります。約1300年も風雨に耐えてきたとは思えない。収蔵庫に大切に保管されてきたわけではなく、塔のてっぺんで雨ざらしだったのですから。奇跡だな~。 美術的な面でも、繊細な技術とアルカイック(古様)な造形との絶妙なバランスが何とも言えず、圧倒されました。舞い翔ぶ天人たちの姿は優雅でありながら、素朴な愛らしさも・・・。古代ギリシアの黒絵式の壺絵を連想しました。より洗練された赤絵式に比べると古拙なんだけど、単純化されたフォルムがかえってデザイン的にカッコいい、・・・あれと同じような魅力を感じます。 時間が経つにつれてだんだん見学者が多くなってきましたが、それでも京都の観光地や東京の展覧会などに比べれば全然ゆったりしている。連休の祭日なのにね。いかにも奈良基準って感じです。充分時間をかけてじっくり見学できました。 さて、奈良でもう一か所訪ねたのは、近鉄吉野線「壺阪山」駅近くの子嶋寺。昨年秋に一度行ったのに閉まっていて見学できなかった、いわくつきのお寺です(→前ブログ)。 ↓ 子嶋寺(高市郡高取町) 子嶋寺は、備前四十八ヶ寺で知られた(←岡山では)報恩大師ゆかりのお寺。報恩大師が創建して、最晩年を過ごした所と言われています。『街歩きノオト』第11号で報恩大師を取りあげた縁もあり、ぜひ拝観したいと思っていました。詳しくは前ブログをご覧いただくとして、このお寺はまあいろいろあって、現在は週1回火曜日にしか開けていないとのこと。今回ちょうど火曜日に当たっていたので、やった~!と訪問を決めたわけですが、少々不安もあったので、念のため事前に、ここを管理している橿原市の久米寺に電話で確認しました。こちらが訪問を希望する日時を告げると、えーっと、その日なら人を遣れますので大丈夫です、と言います。必ずしも毎週火曜日に開けているわけではなさそう。あとで聞いたら、一応火・木を公開日としているが、開けてもまったく人が来ない時があるので、拝観は基本予約制、とのことでした。子嶋寺に行く人は気を付けてね! 久米寺の関係者と思われる中年の女性が、本堂を開けてくれていました。もともとこのお寺の人ではないので、子嶋寺についてはあまり詳しくないよう。ちょっと残念ですが、たった一人の拝観者のためにわざわざ車で来て待機していてくれたのですから、贅沢は言えません。 子嶋寺の最大の寺宝といえば、なんといっても国宝(!)の両界曼荼羅図。濃い紺地に金泥で細密に描かれた、2幅の巨大な曼荼羅図の名品です(約3mx3.5m)。が、これは現在、奈良国立博物館に寄託されていて、ここでは見ることができません。奈良国立博でも常時展示されているわけではないので、なかなかお目にかかれる機会はないのですが、実はつい最近、今年8月20日~9月16日に特別展「みほとけのかたち」の中で出展されていたのです。この時期にうまいこと奈良に行く機会を得られず、見逃しました(涙~!)。 もう一つの寺宝は、国重文の木造十一面観音立像。2mを超える一木造りの堂々たる名品ですが、やはりここにはなく、東京国立博物館に寄託されています。でも、こちらは常設展の常連なので、私もたびたび実物を拝見しています。寺伝では、桓武天皇の念持仏で、報恩大師が自ら彫ったとされているそうです。学術的には平安時代9世紀の作とか。 そんなわけで、すごいモノは持ち出されてしまっているため、お堂に残っているのは雑多なローカル仏ばかりですが、これが結構面白い。中腰のような珍しい立ち姿の大国天をはじめ、雨乞い用の龍の木像、二代目住職・延鎮の像、不動明王と脇侍、高取城主の念持仏だったという観音様、秘仏の聖天様(厨子に入っていて中は見えない)などなど。中でも驚いたのは、坂上田村麻呂の木像。田村麻呂が自ら彫ったとされています。 ↓ 子嶋寺所蔵の坂上田村麻呂の像(絵葉書より) 六道珍皇寺で小野篁に“会って”きたばかりだというのに、思いがけず田村麻呂にも出会うとは、まるで小説『鬼の橋』をたどるような旅になってきました! しかも、田村麻呂像の脇をよくよく見れば、何やら新聞記事の切り抜きが大事そうに置いてあるではありませんか。ざっと眼を通して、ええっ!とコーフン。全然知らなかったけど、ここ高取は田村麻呂ゆかりの地だったのですね。しかも、伝承が史実として実証されつつあるという。 その新聞記事によると、渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の一族である坂上氏は、高取町大字観覚寺(子嶋寺のある一帯)を本貫の地(本籍地)としており、ここに田村麻呂の邸宅があったとする伝承もあるが、2006年の発掘で実際に、渡来系の特徴を持つ奈良時代後半から平安時代初めにかけての建物の跡が発見された。田村麻呂の伝承と結び付く可能性もある、とのこと。 新聞記事ではさらに、普段は都に住んでいたであろう田村麻呂も、何かの折に里帰りでここを訪れたかも・・・、と歴史ロマンに思いを馳せています。奈良や京都とここはそう離れていないから、あり得るでしょうね。少なくとも、吉備真備が真備町に帰ったことがあるか論争よりかは、はるかに可能性高いかな。 しかし、田村麻呂像を目にするまでは失念していたけど、この子嶋寺が田村麻呂と縁深いのも、京都・清水寺の縁起を考えれば当然のことです。清水の舞台で有名な観光地・清水寺を開いたのは、この子嶋寺の二代目住職・延鎮(報恩大師の弟子)で、その創建には坂上田村麻呂も関わっているのです。 伝承よると、子嶋寺の延鎮は、夢のお告げに従って京都・音羽山で滝行をしていた時、不思議な老修行者(実は観音の化身)に出会い、庵と霊木を託されます。延鎮がその霊木で千手観音を刻み、庵に安置して修行を続けていると、そこへ偶然、狩猟中の坂上田村麻呂がやって来ます。病気の妻に与えようと、薬になる鹿の生き血を求めて山に入っていたのですが、延鎮に殺生をいさめられ、観音に深く帰依して、自邸を寺として寄進します。これが清水寺のはじまりで、のちに征夷大将軍として大成功を収めた田村麻呂は、延鎮と協力して本堂を本格的に造り直し、これが今につながる清水寺になったといいます。 子嶋寺の延鎮とこの地を本貫地とする田村麻呂、この二人によって開かれた清水寺は、そんなわけで、最初は子嶋寺の支坊という扱いだったとか。田村麻呂は古代の大英雄なので、彼が創建したといわれる寺社は各地にあるようですが、ほとんどが伝説に過ぎないのに対し、京都の清水寺だけは田村麻呂が関わっているのは史実であろう、と考えられているそうです。 延鎮と田村麻呂の組み合わせは、これまで何となく唐突に感じていたのですが、高取のこの地という共通点があったのですね。坂上一族の出身地なんて考えたこともなかったので、この子嶋寺を訪ねたおかげで大変勉強になりました。やっぱり来て良かった~! ↓ 子嶋寺の千寿堂(本堂横の小堂) 高取城主の念持仏や秘仏の聖天が祀られている。 霊感のある人に言わせると、すごいパワーを感じさせる所なんだとか。 ↓ 子嶋寺のすぐ南にある龍王の池。ここの祠で雨乞いをしたという。 #
by machiarukinote
| 2013-10-01 00:26
| 街歩きレポート
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2013年 09月 30日
東京に用事があってしばらく帰省していました。その行きがけに、またまた京都と奈良に寄り道。4月に1泊で奈良に行って以来の古都訪問です。古代史好きの私としてはもうちょっと頻繁に行きたいところなのですが、今年はいろいろあってなかなか行けず、やっと機会にありつけました。見たかった奈良国立博物館の「みほとけのかたち」はタッチの差で終わってしまっていた(涙~!)けど、薬師寺の水煙降臨展は折よく始まったばかりだったので、まあ良しとしよう・・・。
まずは、京都で六道珍皇寺を訪れました。たまたま京都の観光パンフレットを見ていて、今年の夏(7月~9月)は六道皇珍寺が特別拝観を開催しているのに気付いたのです。ここは小野篁(おののたかむら)ゆかりの寺で、以前から行きたいと思っていたスポットです。篁については、前回の(このすぐ前の)ブログで触れています。篁を主人公にした小説『鬼の橋』を読んだから行きたくなったというより、六道珍皇寺を訪ねることにしたので慌てて小説を読んだというのが本当のところですが(少し前に購入していたけど“積ん読”状態だったので・・・)。 オカルト的伝説を持つ古代文化人、ということで篁には以前から興味を抱いていましたが、より身近に感じるようになったのは『街歩きノオト』第16号で倉敷市酒津界隈を歩いてからです。あのあたりには小野小町伝説があり、その関連でだと思われますが、酒津の「青江神社」には思いがけなく小野篁が祀られていたのです。吉備の地で篁に出会うとは! このミスマッチに俄然“そそられる”ようになりました。岡山、特に備中には吉備真備、安倍晴明伝説のみならず、小野篁の影もちらつくのですね!妖し過ぎだわ~。 さて、京都の六道珍皇寺は、普段は境内を散策できる程度で、本堂や閻魔堂の内部、冥界通いの井戸がある庭などは公開されていません。毎年春と秋に1~2週間ほど特別拝観の期間が設けられ、これらを見せてくれるようですが、今回は約2ヶ月半に渡っての大盤振る舞い。そうそう良いタイミングで京都に行けるとは思えないので、この機会を逃す手はない、と訪問を決めました。 ↓ 六道珍皇寺の入り口。「小野篁卿旧跡」と「六道の辻」の碑が立つ。 六道珍皇寺は平安時代初期に小野篁が開いたとも弘法大師空海が開いたとも伝えられていますが、詳しい創建や変遷は不明とのこと。そもそもここから東の一帯「鳥辺野」(現在の清水寺とその南エリア)は平安京の代表的な葬送の地で、そこに至る道沿いには死者を送る役割を担う寺がいくつかあったといい、その一つが六道珍皇寺なのだそうです。「六道の辻」とはあの世とこの世の分岐点・境界を意味する名称。この辺りがまさにその六道の辻なんだとか。 また、この寺には篁が冥界に通うのに使ったという井戸があるのでも有名です。ここは入口専用のようで、出口の井戸は嵯峨野の清涼寺の近くにあった(現存せず)ともいいますが、六道珍皇寺では、近年(2011年)隣接民有地(旧境内)から新たに発見された井戸を、言い伝えにあったという出口専用の井戸、名付けて「黄泉がえりの井戸」として整備・宣伝しています。 ↓ 「小野篁 冥土通いの井戸」 本堂北東側の小さな庭にある。 傍らに立つ尖った葉の木が「高野槇」。篁はこの枝を伝って井戸を降りたという。 ↓ 新たに発見された「小野篁 黄泉がえりの井戸」 上記の井戸のさらに奥、通路状の長細い敷地の先にある。 本堂内には寺宝の地獄絵の数々がこれでもかというほど展示されていて、「メメント・モリ(死を想え)」ムードたっぷり。さらに、本堂手前にある閻魔/篁堂には閻魔大王と小野篁の堂々たる木像が・・・。普段は格子越しにしか拝めないそうですが、特別公開中はお堂の前面が開け放たれ、しっかり見えるようになっています。閻魔坐像は平安時代の作(篁自作との伝承あり)、篁立像は江戸時代初期の作だとか。どちらもなかなかの迫力。像の撮影は禁止と言われたけど、お堂などの全体像を撮るのならO.K.とのこと。以前の興福寺北円堂無著像の時の要領で、遠くからお堂を写すふりをしてズームで撮ったのがコレ(↓)です。 ↓ 閻魔/篁堂に安置されている篁立像。 袖の先が翻っているのは、井戸を下降中の姿を現しているからだそう。 閻魔像は口をカッと開けた怖い顔のよくあるタイプの坐像で、写真をクリアファイルにしたものも売られていましたが、なぜか篁像(上掲の彫像)のほうは絵葉書も写真を使ったグッズもなし(掛け軸の絵画作品をクリアファイルにしたものならあったけど)。篁を売りにしているお寺なのに、ちょっと残念。この彫像は江戸時代というはるかに下った時代の作ではありますが、不遜な表情や威圧的な体格など篁のイメージ像として良くできていると思うので、むしろこちらをグッズ化して欲しいものです。 ちなみに、篁のフィギュアが付いたストラップは販売していました。畏れ多いからグッズ化には消極的というわけではなさそう。しかし、これはオリジナルの造形なのか、彫像にはあまり似ていない・・・。どうせなら、あの像をそのままミニチュア化したものにすればよかったのに。やはり袖は翻っていなくちゃね。まあ、せっかくなので話のネタに購入しましたが。 京都にはお盆の時期に「六道まいり」という風習があるそうで、その期間(8月7日~10日)には、この六道珍皇寺は大変な人出で賑わうそうです。精霊が宿るという高野槇の枝を買い求め、水塔婆に先祖の戒名を書いてもらって納め、迎え鐘を撞いて先祖の霊を迎えるのだそうです。この時期には、今回公開されている仏像や寺宝の数々も公開されるということですが、大混雑の中拝観するのは大変そう。 その「六道まいり」の時に人々が列をなして撞くという迎え鐘が、このお堂(↓)。 ↓ 六道珍皇寺「迎え鐘」(左)。 右の小堂は「閻魔/篁堂」。 また、六道珍皇寺では、春・秋の公開期間と夏の「六道まいり」の期間にだけ、特別な御朱印を授与しています。色紙に金泥で書いたもので、色紙は春:若草色(濃い抹茶色)、夏:紺、秋:もみじ色(えんじ色)というカッコいい配色。御朱印好きには評判の隠れたヒット商品(?)らしい。今回は特別な長期公開ということで、すべての色が揃って用意されていましたが、やはり紺が基本かなと判断して、紺に「小野篁卿」の文字のバージョンをいただきました。(「閻魔大王」や本尊「薬師如来」などいくつかのバージョンがある。) もう一つこのお寺で特筆すべきは、国重文の木造薬師如来坐像(通常非公開)。旧本尊ですが、本堂ではなく防火設備の整った収蔵庫に安置されています(本堂には別の新しい薬師如来像が本尊として安置されている)。平安時代の作というだけで詳しい解説はなし。本格的な学術調査は未実施のようです。ややエキゾチックな厳かなお顔から、平安時代も初期のものではないかな、と推測しました。京都の観光情報サイトによると、頭部は古いが他は後補だとか。古そうで立派なわりには、国宝ではなく重文どまりなのはそのせいかな。なかなか私好みの仏像で、嬉しい出会いでした。 六道珍皇寺を出て、前の道(松原通り)を東へ150mほど歩くと、そこにも「六道の辻」の石碑が立っています。この碑が立つ角にあるのが「西福寺」。嵯峨天皇の后、壇林皇后ゆかりの寺です。 ↓ もう一つの「六道の辻」の碑と、西福寺 嵯峨天皇は小野篁と同時代の人。その正妃、壇林皇后(本名・橘嘉智子)はすごい美人だったと言われています。熱心な仏教徒でもあった彼女は、自分の死に際して、遺体を鳥獣に与え、また、朽ちて行く姿をさらすことで諸行無常を人々に示すため、遺体を埋葬せずに放置するよう指示した、という伝説が伝えられています(史実ではないようですが)。 西福寺に所蔵されている「壇林皇后九相観」という絵画は、その壇林皇后の遺体が朽ちていく様子を段階別に描いたもの。実物は未見ですが、写真で見るとすさまじい内容のビフォーアフターです。十二単の平安美人が、やがて青黒く膨張し、ウジがわき、膿み崩れて最後には白骨になる・・・。毎年「六道まいり」の時期(8月7日~10日)にだけ公開されるそうです。 普段の西福寺を覗いてみましたが、門をくぐったらすぐに本堂がきつきつに建っているような、本当にこじんまりしたお寺で、狭い境内には石のお不動さんやお地蔵さんやらお供え物が所狭しと並んでいて、本堂奥では信徒のおばちゃんたちが集って何やら作業している・・・。なんかとっても庶民的な、ご近所のお寺という雰囲気でした。 この西福寺の向かい側に、こんな看板(↑)を掲げたお店があります。「幽霊子育て飴」というご当地名物お土産です。その由来がスゴイ。今から400年余り前(慶長年間)のある夜、この店にいわくありげな女性客が現れ飴を買っていった。その後数日、毎晩飴を買っていくのだが、ふと見ると受け取ったお金がすべて木の葉に変わっている。不審に思った飴屋の主人がある晩、女の後をつけて行くと、鳥辺野の墓地で姿が消えた。そういえば最近妊婦が亡くなって埋葬された、という話を耳にした主人は、僧侶と共に墓地を再訪。かすかに聞こえる赤ん坊の泣き声を手掛かりに墓を掘り返すと、そこには死女の胸で飴をしゃぶる赤子がいた。死んだ母親が幽霊となって飴を買い求め、墓の中で生まれた我が子に与えて命をつないでいたのだという。赤ん坊は飴屋に引き取られて成長し、後に立派な僧侶となって天寿をまっとうしたとか。以来、この店の飴が命の飴として評判となり、この地の名物となったそうです。 心温まる人情話というか、気味の悪い怪談というか・・・なんとも言えないお話ですなぁ。名物土産の名前が「幽霊○○」だなんて、縁起良いのか悪いのか。いかにも「メメント・モリ(死を想え)」エリアらしい名物です。死と生は表裏一体。六道まいりの風習と共に、死を想いつつ、精一杯たくましく生きる都の庶民の思いが伝わってくるような・・・。 ちなみに、飴は昔ながらのべっ甲飴を一口大にかち割った状態ものでした。店頭で試食させてくれます。素朴で美味しい。店の女主人が、幽霊が買いに来た当時の飴は水飴状で、棒に巻き付けて売る形だった、と説明してくれました。お店は以前、この通りのもっと東のほうにあったそうですが、立ち退きになってここに移転したとのこと(旧地は現在、京都市の自転車置き場になっているそう)。ちょうど「六道の辻」碑まん前だし、町名も轆轤町だし、かえって良かった、と話しておられました。轆轤(ろくろ)町は髑髏(どくろ)町がなまってできた町名だそうです。かつて葬送の地だったこのあたりは、ちょっと掘り返すと人骨がゴロゴロ出てきたからだとか。 とにかく、初めから終わりまで徹底して「メメント・モリ」色いっぱい。それを敢えて売りにしているエリアなのが面白く楽しめました。 (続きの奈良編は次回ブログで・・・) ↓ 今回の戦利品。左から、六道珍皇寺の金泥御朱印、篁フィギュアストラップ、 幽霊子育て飴とその中身。 #
by machiarukinote
| 2013-09-30 00:14
| 街歩きレポート
|
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2013年 09月 13日
このところ、平安時代を舞台にした小説にプチ・マイブーム来ております。
前回紹介した『えんの松原』に引き続き、同じ作家(伊藤遊)による『鬼の橋』(福音館書店、1998年)を読みました。こちらは小野篁(おののたかむら)が主人公。小野篁とは、平安時代初期の官人であり学者・歌人としても知られた人。地獄通いなどの奇怪な伝説で彩られた人でもあります。美女歌人・小野小町の祖父とも言われています(半ば伝説ですが)。 小野篁は、遣唐副使に選ばれたのにボイコットして乗船しなかったエピソードが有名です。この時の遣唐使は出航直後に再三嵐で難破するという不運に見舞われるのですが、大使が強引に自分の破損した船と、副使・篁の無事な船を交換しようとしたため、そんなパワハラ冗談じゃない、と篁は船を降り病と称して動こうとしなかった。仕方なく大使はじめ遣唐使は篁を残して出航した、のだそうです。篁は、任務不履行および公的事業に対する批判的姿勢を咎められて2年間の流刑に処せられましたが、流刑先でも悠々と詩作活動を続けていたとか。 嵯峨天皇を相手に、機知あふれる言葉遊び対決をして、帝をギャフンと言わせた(畏れ多くも!)エピソードも有名。もっともこれ、後世のフィクションのようですが。 さらに、こちらはフィクションというより完全に伝説ですが、昼は朝廷に仕え、夜は冥界に通って、地獄の裁判官・閻魔大王の補佐官と務めていた、という逸話も面白い。昔、恩を受けた右大臣が病で急死しあの世に来た時、閻魔大王にとりなして生き返らせてあげた、とか。男女の道ならぬ恋を描きまくった罪で紫式部が地獄に落とされそうになった時も、篁が弁護して救ってやったそうです(情実裁判、いいのか・・・)。 学識豊かで文才もあり、官僚としても優秀だったけど、反骨精神の持ち主で一筋縄ではいかない人物であったため、こんな伝説が生まれたらしい。古代では、すごい学者イコール、マジカルなパワーの持ち主と考えられていた節があります。吉備真備しかり、菅原道真しかり。しかも、そのパワーはどれもちょっとダークな方面寄りなのが興味深いです。当時の感覚としては、凡人には想像もつかないレベルの学識や頭脳は、人間業を超えた、神もしくは魔の領域とみなされたのかもしれません。 またまた前フリが長くなってしまいました。小説『鬼の橋』に話を戻しますね。これは児童文学として書かれた作品なので、そんな怪人・小野篁も12歳の多感な少年として登場します。都の貴族の嫡男・篁はつい最近、大切な妹姫を失ったばかり。二人連れだって廃寺の庭で遊んでいた時、妹は誤って古井戸に転落死したのです。自分を責め、生きる意欲を失う篁少年。そんなある日、妹を偲んで訪れた古井戸から、篁はあの世へ迷い込んでしまいます。三途の川に架かる長い橋を延々と渡っている途中で、篁は地獄の鬼たちに絡まれ、食べられそうになるのですが、三途の川の守護神、故・坂上田村麻呂に救われます。田村麻呂にさとされ、篁は現世へ戻ります。 一方、篁は古井戸へと行き来する際に渡る五条橋で、橋の下に住む孤児の少女・阿子那と知り合います。やがて、阿子那と疑似親子のごとく一緒に暮らし始めるナゾの怪力大男(実は地獄から逃れてきた鬼)非天丸とも・・・。雑草のように逞しく素朴な二人の言動にとまどいながらも、次第に気持ちが近付いていく篁。非天丸を連れ戻しにやって来る地獄の鬼たち、火災で炎上崩落する五条橋・・・と、いくつかの事件を経て、また二度目、三度目の冥界訪問を経験して、篁少年は前向きに生きる気持ちと大人への第一歩を踏み出す勇気を得て行く・・・というストーリー。 『えんの松原』同様、思春期直前の少年の成長物語になっていて、時代小説の形をとりながらも普遍的なメッセージがこめられているずっしりとした作品です。オリジナルなストーリーの中に、篁伝説が巧みに散りばめられているのもうまい。若き篁と異母妹との道ならぬ恋と死別という「篁物語」(平安~鎌倉時代に書かれた悲恋小説。フィクション)の要素も、マイルドなアレンジでしっかり取り入れられています。なにより、篁の冥界通いというオカルトな話を、少年の自分探しの冒険に置き換えた発想が秀逸です。 そして、脇役の大人たちの描写にも魅せられました。特に、坂上田村麻呂。蝦夷征伐で有名な、平安初期の偉大なる征夷大将軍です。ここでは、3年前に既に死亡しているのですが、死後も地獄の魔から都を護れという帝の命令を律儀に守って、成仏することなく、三途の川の橋で睨みをきかせている、という設定。地獄の鬼をも震え上がらせる豪快闊達な老武人ですが、その実内心では、友や同僚が皆さっさと三途の川を渡っていくのを横目で見ながら、一人取り残される孤独感にさいなまれているのです。そして、英雄としての名声の陰にある暗い部分、無数の敵将兵を屠ったという血塗られた自分の過去をもしっかりと自覚している・・・。田村麻呂の力強く現実的な助言が篁少年の立ち直りと成長に大きな力となるわけですが、それ以上に大切なことをその背中から篁少年は学び取る、というふうに描かれていきます。 今年初め頃にNHK-BSでやっていた歴史ドラマ『アテルイ伝』も見てないし、坂上田村麻呂にはこれまで何の思い入れも強いイメージもありませんでしたが、これをきっかけに今後はちょっと気になる存在になりそうです。少し前に読んだ小説『王朝序曲』(永井路子・作)でも、ほんの少しの登場でしたが渋くてカッコいい老将ぶりが印象的でしたしね。 『鬼の橋』の中でも言及されているように、田村麻呂は亡くなった時、甲冑をつけ武器を携えた完全武装の姿で立ったまま葬られたといいます。死後も都を守護するよう、都の方角を睨む形で・・・。もし、都に存続の危機が迫れば、この田村麻呂の墓が鳴動して知らせるとか。この方も、かなりオカルトの匂いのする人物なのですね!(伝説の上では・・・) 余談ですが、作中で、田村麻呂がもう何人もの知人を三途の川の橋で見送った、と嘆息するシーンで、吉備泉の名前が出てきたのには驚きました。吉備真備の長男です。そんなに有名な人物ではないのですが・・・。確かに田村麻呂の少し後に亡くなっている。作者のマニアックかつ豊富な知識に思いを馳せ、思わずニンマリしてしまいました。 #
by machiarukinote
| 2013-09-13 20:30
| 読書など
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