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2024年 09月 22日
FM岡山の街歩きコーナーは7月・8月がお休みだったので、今月は久々の出演です。
FM岡山『Fresh Morning OKAYAMA』 今回の話題は、すぐ前の記事に書いた「柳橋」の謎解きです。私としてはつい最近調べたばかりのホットな話題。話したくうずうずしています。 ラジオだと画像をお見せできませんが、当ブログの画像を見ながらお聞きくださると解かりやすいかと思います。 なお、放送後一週間はアプリ「radiko」でもお聴きになれますので、こちらもどうぞ。 #
by machiarukinote
| 2024-09-22 18:22
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2024年 09月 20日
3ヶ月近く更新もせずブログを放置してしまいました。
依然、猛暑が続いていますね。あまりに暑いので遠出の取材は控えています。公共交通機関頼りだと、どうしても外にいる時間が長くなるので。バス停で待つだけでもボーッとしてきますし…。早く涼しくなって欲しい! そんなわけで、ここ1~2ヶ月は、これまで取材・撮影してきたレトロ橋の情報・写真を整理したり、文章に書き起こしたりしていました。そんな中で、最近気付いたことがあります。以前『街歩きノオト』第20号で取り上げた公園とも関連している事柄です。 ここしばらく続けているレトロ橋探索の一環で、岡山市中区下の「昭和橋」を1年ほど前に訪れました。県立城東高校の近くで、JR赤穂線の線路際、庄内川にかかる比較的小規模な橋です。高欄のデザインはそれほど目を引く凝ったものではありませんが、親柱がちょっと特徴あるのでぜひ実物を見て見たかったのです。 高欄は鉄筋コンクリート製ですが、親柱は花崗岩製。各面の上部に四角い模様が彫られていて、それらを横線で結んでいるという独特のデザイン。シンプルながら、幾何学模様が流行った当時らしいモダンな造形です。どことなく和洋折衷な雰囲気も感じさせます。 ところで、岡山シティミュージアムHPの『デジタルアーカイブ』内の1コーナーでは岡山県内のレトロ橋を多数紹介していて、ずっと以前から大変ありがたく参考にさせてもらっています。昭和橋はここでも取り上げられていて、親柱のデザインにも言及があります。県内には同じようなデザインの親柱が他にもあるということで、岡山市津高の「柳橋」(1921年)、井原市芳井町の「旧落合橋」(1928年)と「梅木橋」(架橋年不明)が挙げられており、その写真も紹介されているのです。ストリートビューでも見てみましたが、なるほど似ています。 他に自分で見付けた中では、吉備中央町加茂市場の「総社橋」(1928年)親柱も同タイプ(未訪問、ストビューで確認)。井原市岩倉町の「塚橋」(1932年)はちょっと似ているかな(こちらは狛犬探索のついでに昨年訪問)。 この時代の流行りというか、定番スタイルの一つだったのでしょうか。 さて、橋ごとに写真を整理していく中で、以前「東古松南町第2公園」(岡山市北区東古松)で見た親柱を思い出しました。『街歩きノオト』第20号(2016年発行)ではレトロ公園を取り上げましたが、その中で「大元公園」との関連で訪問した公園です(同誌26~27ページ)。「東古松南町第2公園」は知る人ぞ知る岡山空襲の戦災遺物が保存されている公園なのです。といっても、何の説明看板もなくただ置かれているだけで、もったいない感じですが…。 その戦災遺物とは被災した橋の石造親柱で、ひどく破損した2基一組のものと、比較的きれいな状態の1本です。この1本には「柳橋」と橋名が彫られています。 『今に残る街角の証言者』(岡山の戦争と戦災を記録する会・発行、2015年)によると、2基一組のほうは能登川用水と現在の市役所筋とが交わる所に架かっていた橋(現イオンモールの北東)、単独1本のほうは大供三俣用水と現・市役所筋とが交わる所に架かっていた橋(現・杜の街グレースの南東)とのこと。 この「柳橋」親柱の写真を改めて見て、あ!と驚きました。昭和橋の親柱とそっくり。しかも「柳橋」。ひょっとして津高の柳橋のものなのでは・・・。 見た目だけでなく、サイズも一致したらその可能性は高くなると考え、まだまだ暑い中、つい先日メジャーを持って公園を再訪、次に柳橋の現地を訪問しました。 柳橋は笹ヶ瀬川に架かる橋で(北区津高/富原)、現在は傍らに新しい柳橋(1977年竣工)が架かっており、旧柳橋は歩行者用の橋として残されています。その時に改修したのか、高欄は金属製の柵に置き換えられ、親柱も両橋詰に1本ずつ(計2本)しか残っていません。あまりレトロ感はありませんが、橋脚を見ると古そうなタイプなので、架け替えられているわけではないと分かります(補修はされているでしょうが)。国交省のデータでも架橋年は1921年となっています。大正10年ですね! レトロ橋の中でも断トツ古い! 残されている2本の親柱はどちらも「やなぎばし」とひらがなで橋名が記されており、特に東詰のものはアスファルト舗装にかなり埋まり込んでいます。が、いずれも橋の外側に当たる面には公園の親柱と同じ下部の横溝が確認できたので、そこからの高さを測りました。2本とも105㎝で、公園の親柱と一致。太さも40×40㎝で一致しました! 公園にある「柳橋」親柱の写真と上の2枚の写真を見比べてみてください。上辺エッジが面取りされていますが、その角度や幅もそっくり同じに見えますね。昭和橋の親柱はよく似ていますが、この部分の角度がちょっと異なるような…。 残念ながら、現地の親柱2本にも公園の親柱にも竣工年の記載は見付かりませんでした。失われたもう1本にあったのかな。 柳橋を通る道は中世山陽道に当たる旧道だそう。中世山陽道は半田山の山中か南裾かを通って笹ヶ瀬川をここで渡り、楢津の山の北裾を西へ向かっていくというルートだったそうです。江戸時代になると山陽道は付け替えられ、岡山の城下町を通り抜けて三門~万成山北~一宮というような南寄りのルートに変わります。こちらの方が旧山陽道としてはよく知られていますね。 大正14年の国土地理院(参謀本部陸地測量部)2万5千分の1地図には、笹ヶ瀬川のここに架かる橋にわざわざ「柳橋」との表記があります。この辺りは当時、岡山郊外の田園地帯でしたが、その中では目立つ橋だったのでしょう。 そこでふとひらめきました。『今に残る街角の証言者』では公園の親柱を、市役所筋が大供三俣用水に渡る部分に架かる「柳橋」のものと説明していましたが、本当にその橋は「柳橋」なのだろうか、昔の地図で確認できないだろうか、と。 まずは現代のデータで確認。国交省の『全国道路施設点検データベース~損傷マップ~』というのが便利です。ところが、能登川用水と市役所筋の交点は現在長い暗渠になっていて橋はないのでそもそも情報なし。大供三俣用水と市役所筋の交点は単なる整理番号の「10040橋」となっていて、現在は固有の呼び名はないようです。 そこで、県立図書館HPの『デジタル岡山大百科』の古地図コーナーで近代の岡山市街地図を片っ端から確認。旭川に架かる京橋とか鶴見橋といった代表的な大きな橋は橋名の記載がありますが、街なかの小さい橋まではあまり記載されていません。半ば諦めかけていた時についに見つけました! 昭和15年(1940年)細謹舎発行の『最新詳密岡山市街地図』です。能登川用水に架かる橋には「能登川橋」、大供三俣用水に架かる橋には「釣橋」と書き添えられていました。「柳橋」ではない! ↓ 「能登川橋」「釣橋」の表記がある昭和15年(1940年)の岡山市街地図 ちなみに、国交省の『全国道路施設点検データベース』では「10040橋」のすぐ東側の橋は「上釣橋」となっています。同じ用水の上流側にあるから「上」が付いているのだと思います。ならば、上釣橋に対する基準の橋が「釣橋」で矛盾しません。この情報は正しいと判断して良さそうです。 釣橋(10040橋)の東側は当時も今も「柳町」という町名なので、『今に残る街角の証言者』の筆者は、柳町にあるから「柳橋」と推測したのでしょう。 【追記】2024年9月26日のFM岡山出演の際に、パーソナリティーの森田恵子さ んから得た情報です。森田さんは以前、瀬戸内海放送(北区大供3丁目)に勤 めていましたが、すぐ近くにある「釣橋」をみな普通に「柳橋」と呼んでいた そう。やはり柳町にある橋だから何の疑いもなく「柳橋」で通用していたとの ことです。そもそもなぜ「釣橋」と命名されたのか、なぜその橋名が定着しな かったのか、は依然謎です。 公園にある2基一対の親柱はひどく火であぶられたように表面がボロボロなので、確かに戦災遺物で間違いないと思います。しかし「柳橋」と彫られている親柱は、頭の一部が少し欠けているだけで比較的きれい。柳橋のある津高地区は岡山空襲の被害は受けていないので、この親柱が津高の柳橋のものならば戦災とは関係ないものになります。 ↓ 旧柳橋の西詰の姿。左側(北)が隅切りのように斜めに渡されていて、 推測するに、新しい柳橋が架けられた1977年頃に旧柳橋も改修され、東南橋詰と西北橋詰の路面が少し隅切りされた都合で邪魔になった親柱2本は撤去されて、その一つがどういう経緯か、この東古松の公園に来た、ということなのでは…。現地で聞き込みはしていないので、真相は不明、単なる推論です。『今に残る街角の証言者』の筆者は現地で聞き込みをしているでしょうから、正確なことを知る詳しい人は見付からなかったのかもしれません。 「大元公園」に関して聞き込みをした時も同じような感じでした。詳しそうな人ということで地元郵便局長を紹介してもらい、お話しを聞きましたが、その方によると、公園創建当時の関係者たちは今はこの地にはおらず、自分が知るのも人から聞いた話だが・・・とのことでした。それでもなぜここに戦災遺物があるかの理由は説明してくださり、大いに助かりました(この付近一帯は戦災瓦礫の仮置き場だった)。 ちなみに「東古松南町第2公園」の開園は昭和50年(1975年)9月。新しい柳橋の竣工年月1977年3月と近いのが気になります。この公園は1959年開園の大元公園に比べれば新しいので、探せば当時の事情を知る人もいそうなものなのに…。 岡山市は2012年までに23ヵ所の戦災遺跡に説明看板を設置していますが、ここが選ばれていないのは、情報がはっきりしないからなのかもしれません。今後、確かな証言や資料が出てくることを祈っています。 ということで、あれこれ回りくどく書きましたが、公園に残る「柳橋」親柱は、現「杜の街グレース」(旧岡山地方専売局)南東にあった被災した橋のものではなく、津高の「柳橋」親柱である可能性が限りなく高い、というお話しです。だからどうだ、というものでもありませんが、謎解き(完全に解けてないけど)が面白かったのでご報告しました。 #
by machiarukinote
| 2024-09-20 12:09
| 街歩きレポート
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2024年 06月 24日
今月のFM岡山への出演は今週です。
FM岡山『Fresh Morning OKAYAMA』 今回は先月の続きで「明禅寺合戦の首塚」です。前回、高島・竜操地区の首塚を一気に紹介するつもりだったのですが、そこそこの分量があったのと、パーソナリティの森田恵子さんがお詳しい地域ということで話が盛り上がりそうだったため、急きょ前半のみを紹介することになりました。なので今回は残りの後半です。 中区雄町(雄町の冷泉の近く)に残る2ヵ所と、中区高屋(正八幡宮の近く)にあるという首塚探索レポートです。高屋の首塚は本によって微妙に位置の説明が異なり、より信頼できる資料を探して現地でも聞き込みをしました。 ↓ 高屋の首塚近くにあるラントウ(家形の墓)群。これを首塚と紹介している 書物もあるが、実際には違うもよう。だが、こちらも充分興味深い。 なお、放送後1週間はアプリ『radiko』でもお聴きになれますので、そちらもどうぞ。↓ #
by machiarukinote
| 2024-06-24 13:05
| お知らせ
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2024年 05月 21日
2ヵ月ぶりのFM岡山出演のお知らせです。4月は番組の都合でお休みだったので。
FM岡山『Fresh Morninng OKAYAMA』 今回の話題は、前回(3月)に引き続き「明禅寺合戦の史跡」についてです。 明禅寺合戦とは、現在の岡山市中区の北部(龍ノ口山と操山に挟まれた平野)で繰り広げられた戦国時代の合戦。このいくさで勝利したことにより宇喜多直家が岡山の地に進出し、岡山城下町の誕生につながったという重要な合戦です。 戦場には敵軍の戦死者をまとめて葬った「首塚」がかつては多数あったそうで、ある意味この地域の名物(?)だったそう。『おかやま街歩きノオト』を始めるよりかなり前に興味を持って調べたことがあるのですが、中島の首塚碑、国富の田中さまといった比較的有名なもの以外は探索に苦戦しました。それでも、地元エリアは人に聞くなどしてそれなりに分かりましたが、離れた所はお手上げ状態でそのままに…。 実は前回出演のあと、気になって図書館で調べたところ、岡山市高島公民館のグループが調査して発行した冊子(2009年発行)に首塚(と伝えられているスポット)が具体的に紹介されているのを見付けました。15年経っているけれど、今も無事だろうかと心配しつつ現地へGo! 冊子に掲載されている箇所はすべて現存していました。 というわけで、今回はそのレポートです。小さな祠があるだけ、石が祀ってあるだけ、といったささやかな史跡(?)ばかりですが、それでもなかなか雰囲気ありました。一見おどろおどろし気だけど、実は身近な懐古的ほっこりスポット…のレポートをご期待ください。 なお、放送後一週間はアプリ『radiko』でもお聴きになれますので、こちらもどうぞ。
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by machiarukinote
| 2024-05-21 22:31
| お知らせ
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2024年 05月 11日
GWが明けてから、今度は備中高梁方面へ出撃。高梁の旧城下町の1件、JR備中川面駅から徒歩圏内の1件、JR木野山駅近くの1件、高梁川支流の有漢川を路線バスでさかのぼって巨勢地区の2件と、計5件のコンクリートレトロ橋を見てきました。公共の交通機関のみを使って自力で行ったにしては上出来な訪問数かと。時刻表と睨めっこしてパズルのような行程表を組むという事前の準備もまた楽し…でした。
備中高梁の街はだいぶ前に三度ほど訪れたことがあり、紺屋川&古風な橋の風景は記憶にあるのですが、当時は橋の写真は撮っていませんでした。 紺屋川とは備中松山城の外堀の役割を担う水路です。市街地東部の山から流れ出る自然河川ではあるものの、城下町内ではいかにも掘割といった人工的な姿。現在は高梁の中心的な観光エリアとしてきれいに整備されています。 その紺屋川を彩るハイライトは「相生橋」。デザイン的なコンクリート製欄干を持つ昭和戦前期の橋、というカテゴリーに当てはまるのは城下町エリアではこの橋だけのようです。他にもレトロな橋はありますが、石の欄干だったり、厳密には橋でなかったりするので…。 ↓ 相生橋(高梁市鍛冶町)昭和8年(1933年)5月竣工 相生橋から上流側は現代の橋ばかりですが、下流側には興味をそそられる古そうな物件が連続しています。 上の写真は相生橋から下流へわずか30mほど行った所にある水路上の祠。橋のように架け渡した土台(鉄筋コンクリート製と思われる)のうえに鎮座しています。小規模ながら石の玉垣を廻らし、石灯籠まで備えたきちんとした造り。 さらに60mほど下流側に行くとまたもや同様の祠が…。こちらは土台自体にも橋のように重厚なコンクリート製欄干が付いており、ご丁寧にもさらにその中に石の玉垣が組まれています。 ↓ 紺屋川上に鎮座する別の蛭子神社(高梁市下町)。正面から。 この水上神社のすぐ下流側には石の高欄を持つ橋「老松橋」が隣接して架かっており、独特の風景です。橋の欄干、神社土台の欄干、神社の玉垣、と、素材が異なる手摺っぽいものが三重に重なっています。 神社土台のコンクリート製欄干には「蔓柏(つるかしわ)」という家紋の装飾が施されています。調べてみると、「蔓柏」は全国的にえびす社でよく使われている紋とのこと。アーチ型窓という洋風要素と神紋という和風要素が同居していて、橋ではないけれどグッとくるコンクリート物件でした。 石造欄干の老松橋は、よく見ると親柱に「老松橋」「明治三十五年七月」(←崩し字で読みにくかったけど多分)と刻まれており、古い橋だと分かります。架けられた当初は石橋だったのでしょう。今はどう見てもアスファルト舗装の鉄筋コンクリート橋にしか見えませんが、幅員拡幅のため架け替えたのかな。その際、古い石造欄干だけを再利用したのかも。 老松橋が架かっているのは本町通りといって、古い立派な商家が特に集中して建ち並んでいる道筋です。老松橋から北へ350mほど歩きましたが、伝統的町家建築に関する詳しい説明板が各所に設置され、よく整備されているという印象でした。一つ一つ丁寧に見たいところでしたが、今回の目的はレトロ橋なので、先を急ぎます。 紺屋川の北350~400mくらいの所に、ほぼ平行するような形で「小高下川」という水路が流れています。この川も市街地東の山から流れ出る自然河川ですが、城下町内では堀の役割を担っています。小高下川より北は備中松山城(高梁城)の城域なので、内堀といったところでしょうか。 ここに足を運んだのは、本町通りが小高下川を越す部分に古そうな欄干があるのを下調べのストビューで見付けたから。画像ではコンクリート製欄干のように見えましたが、実物を見ると老松橋と同様の石造欄干。若干落胆したものの、これはこれで風情あります。道路拡幅で片側は撤去されたのか、下流側だけの欄干です。親柱には「八重籬」との文字が…。 ※「やえがき」と読む 老松橋と同じく旧欄干だけの再利用でしょうね。何か残っていないかと見回すと、ありました! 道の反対側に立つ小規模な神社の低い石垣&玉垣の陰に、何やらいわくありげな石柱が…。よく見ると「やへか記はし」(←たぶん)と崩し字で彫ってあり、別の一面には「明治三十五年七月」と楷書で書かれています。やはりこれが八重籬橋の親柱です。 老松橋とまったく同じ架橋年月ですね。欄干のデザインもそっくりだし、同じ本町通りだし、当時統一的に整備されたのでしょうか。銘の入っている親柱をちゃんと残してくれているのが嬉しいです。 ところで、残されている下流側の欄干の向かい側はこのように神社の境内で、小高下川の水面はまったく見当たりません。道沿いに東へ少し歩いて、やっと意味がわかりました。この神社もオン・ザ・水路だったのです。つまりそこそこの面積を暗渠にして神社の境内に使っているのです。八重籬橋の道幅(橋幅?)を広げて角も削るついでに(それだけでも必然的に少し暗渠になる)、思い切ってこのように整備したのでしょうか。 そして、その水路上境内の部分に「七恵比寿」の説明板が設置されていました。 高梁の城下町では、江戸時代に町人の間でエビス信仰が流行って「講」が組織され、このように地区ごとにエビスを祀って盛大に祭りを執り行ったということです。商売繁盛の神様といえば稲荷が真っ先に思い浮かびますが(江戸東京には稲荷社がやたら多い)、「えべっさん」の呼び名で知られるように、エビス信仰はどちらかというと西日本で根強いのかもしれませんね。 この説明書きを見て、紺屋川で見た水路上神社が何者であるか、初めて分かりました。小高下川のこの神社も含め、どれもエビス社だったのですね。大きな神社のように扁額等はないので、神社名も分からずに見ていました。 それにしても高梁七恵美須のうち、3社が on the 水路とは驚きです(あとの4社は地上に建っている)。水路上の祠なんて岡山でも倉敷でも、あるいは玉島とか庭瀬といった古い街でもあまり見たことないような…。水路は沢山あるのにね。 城下町といえば当時としては大都会でしょうから、スペースの有効利用という観点でこのようにしたのかもしれませんが、それだったら他の同様の街にも水路上神社がもっとあっておかしくないのに…。高梁独特の発想とか風習なのかな。水路上に祀っているのがエビス神なのも気になります。エビス神は何かと水に縁の深い神様ですから。そこも意識されているのでしょうか。 さて、最後に小高下川のおもしろコンクリート物件をもう一つ。八重籬橋から下流を眺めたら、妙に気に掛かるコンクリート構造物が眼に入りました。 八重籬橋は小高下川の最下流部に架かる橋で、川はそのあと、高梁川左岸を走る国道180号の下を潜って高梁川に注ぐだけです。国道の側に回ってみると、こんな感じでした。 ↓ 小高下川が国道を潜る直前部分にあるコンクリート塀(?)。 背後に八重籬橋の欄干や水路上神社の玉垣などが小さく見える。 ![]() ![]() 先ほどの紺屋川の下流部にも同様にコンクリ塀が続いていました(当記事の上から6枚目の写真に少し写っています)。紺屋川のほうは観光地であることを意識してか、無愛想なコンクリ地そのままではなく、外側になまこ壁風のペインティングが施されています。まあ、これも微妙なセンスですが…。 小高下川も紺屋川も、高梁川に注ぐ部分に樋門等は見当たりません。高梁川の水位が上がって水が逆流するってことはないのでしょうか。経験的にこの地では大丈夫なのかな。それでもちょっと心配。 #
by machiarukinote
| 2024-05-11 21:10
| 街歩きレポート
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