2024年 04月 27日
勲橋(いさおばし) |
前回「相生橋」と「荒手」について書きましたが、今回は先日ラジオでも少し触れた「勲橋」(岡山市中区古京町/中納言町)を取り上げたいと思います。
↓ 現在の勲橋(1998年6月竣工)。同時期に周辺の河川敷も親水公園風に改修
された。それ以前は、広い北岸法面が目を引く、素朴でレトロな雰囲気だった。
勲橋が架かる御成川は、奥市付近の操山山中から流れ出て旭川に注ぐ小規模な自然河川です。勲橋は御成川の最下流、つまり旭川に出る直前の位置に架かっています。橋の上を通る道は旧山陽道。
中世の山陽道は龍ノ口山の南山裾に近い所を東西に通り、鑵子の釣(かんすのつる)の渡し(中区今在家↔北区三野あたり)で旭川と渡っていましたが、宇喜多秀家の時代(豊臣秀吉の時代)に街道を南へ迂回させて、現在の京橋で旭川を渡り岡山城下町の真ん中を通るように付替えられました。勲橋を通る街道はこの近世山陽道に当たります。
勲橋を挟んで北側の古京町も、南側の片上町(現・中区中納言町)も、江戸時代には商家が並ぶ街道沿いの繁華な町だったため(城下町の東端)、勲橋も当時からそれなりの存在感を放っていたようで、江戸時代の地誌でしばしば言及されています。
『岡山市の地名』(1989年、岡山市発行)という本には、それら複数の地誌を参考にまとめた古京町と勲橋の詳しい由来が記載されています。同書によると、古京町は宇喜多時代からあった町と推定されるそう。ここに京・大坂の呉服等を商う「京店」なる商家が集まっていたため、「京町」と呼ばれたのだとか。
一説によると、ここから旭川を渡る「大橋」が架かっており(現在の相生橋あたり?)、そのためこの町は「大橋町」と呼ばれていたとも。町は京店が多かったため「京町」と名を改め、大橋も「京橋」になったということです。
別の説では、この町に名を与えたのは現・勲橋で、この橋は当時「土橋」と呼ばれていたため町の名は「土橋町」だったとか。上の説と同様に、京店の多い町であるため「京町」となり、そこに接する橋だからこの橋が「京橋」となったのだそう。
いずれにしても、宇喜多秀家による城下町建設事業の中で現在地に京橋(の初代)が架けられたことから、元の京橋(大橋 or 土橋)は「古京橋」となり、京町も「古京町」になったと言います。
「大橋」説を採る説明(そのようなニュアンスで書かれている説明)はよく見掛けますが(例えばWikipediaの「京橋」の項)、京橋以前に旭川を渡る大規模な橋があったとは思えず、ちょっと眉唾っぽいような…。
↓ 勲橋の架け換えと親水公園化で雰囲気は変わったが、橋のたもとの稲荷は健在。
そんなこともあり何だかモヤモヤするので、関連情報を集めて時系列的・地勢的観点から整理してみました。
宇喜多直家が沼城から岡山城(石山城)に本拠を移したのは天正元年(1573年)。それまでの岡山の地は寒村に過ぎなかったそうですが、直家は城の改築と城下町の形成に着手。山陽道の城下引き入れや商人たちの呼び寄せも直家の時代から始まったといいます。続く子の宇喜多秀家の時代に、岡山城築城(烏城と呼ばれる現在の形の城を現在の場所に新造)、旭川の付替え、近世山陽道の整備と京橋架橋が行われます。岡山城築城は1590年~1597年、京橋架橋は1593年。
では、旭川の付替えはいつ? 岡山城築城の際、城の東側をぐるりと取り囲むように旭川を配するために、それまで操山寄りに流れていた旭川本流を付け替えて現在の河道に固定させました。新河道(現河道)はまったく何もなかった所を掘って造成したわけではなく、元々あった分流のひとつを利用したと言われています。それでも川幅を広げたり掘り下げたりと、かなりの規模の工事が行われたもよう。その時出た土を運んで本丸・天守閣の敷地の地上げに使ったとも伝えられています。
ということは、城の建築に先だってまず旭川の付替えが行われたのですね。築城に8年間もかかっているのは、そのためでしょう。はじめの1~2年に河道付替え工事が行われ、それから京橋の架橋という順番と考えれば、初代京橋の竣工年が1593年というのも納得です。そして京橋が架かって初めて、近世山陽道のルートも完成形になったわけです。
↓ 現在の古京町と近世山陽道。岡山大空襲で焼けているので元々古い建物は少ない
が、近年さらに大きく変わっている。内田百閒生家跡は目下マンション建設中。
寒村だった中世の岡山に「京町」のような商家集落があったとは考えにくいので、京町(のちの古京町)の形成は宇喜多直家の石山城入城後かと思われます。京町の商人は直家が呼び寄せた商人群の一つという説もあるようです。古京町が「京町」だった時期は1573年から京橋架橋1593年までのおよそ20年間と推定できます。直家入城でいきなり城下が栄えたわけではないでしょうから、実際は15年間くらいかな?
京町が栄えたのは、旭川河岸だったのと山陽道沿いだったという2つの立地条件によるものと思われます(水運・陸運どちらにも有利)。直家の時代に山陽道の城下引き入れは着手されていたと言いますから、これも時系列的に矛盾しません。ただし、旭川の付替えはまだ行われておらず、昔の河道で考える必要があります。
↓ 旭川の変遷想定図(「宇野地区の歴史」1981年刊より)に着色
上の図は『宇野地区の歴史』(1981年刊)に掲載されている旭川河道の変遷想定図です。水色で着色した部分が室町時代~戦国時代の河道、つまり宇喜多秀家による流路付替え直前の推定河道です。旭川旧河道は、中区竹田~中島間の現・百間川分岐地点から南東に流れ、操山の西麓近くを流れた後に現在の御成川に合流するような形で旭川現河道へと抜けています。そしてここに京町(古京町)の位置を示してみると(赤丸を付けた場所)、驚くべきことがわかります。京町は岡山城側、つまり旭川右岸に位置するのです。旭川は京町の西ではなく南を流れています。
この地図に近世山陽道のルートも表記すると(赤線で強調)、中区原尾島あたりで旭川を渡る形になります。しかし、これは秀家時代に旭川付替えとともに整備されたルートなので、直家の時代は少し異なっていた可能性もあります。原尾島あたりで渡らずに旭川東岸(左岸)に沿って進み(操山の麓ぎりぎりの辺り)、京町の南方で南から北へ旭川を渡ったのかもしれません。まさに勲橋の所で…。そうしたら京町を経てすぐに城の南側(現在の県庁附近)に出ることができます。
江戸時代の地誌『東備郡村誌』の鬼道八幡宮の項には、「宇喜多当城居住の時は、此祠の辺より御本城の下迄は沼なりしと云う」と記されているそうです。鬼道八幡宮は現在の小島神社のこと(天満屋ハピータウン原尾島店の裏に現存)、城は石山城・岡山城を指します。どうやら現在の中区浜や後楽園の辺りは、旭川の氾濫原のような湿地帯だったようです(「浜」という地名がいかにもな感じ)。そういう面からもこちら側を避けて(原尾島で渡らずに)、当初は旧河道左岸側に山陽道を通した可能性は大いにありそうです。
もし直家時代の山陽道が本当にこのようなルートだとしたら、勲橋は京橋の前身と言うにふさわしい位置です。上に挙げた「大橋」の説も、こう考えると眉唾説ではなくなります。というか「大橋」とは勲橋(土橋)を指すのでは? もう少し上流にあった「大橋=京橋」が下流に架け替えられた、などと言われると、つい相生橋のような位置をイメージしてしまいますが、当時は御成川下流を取り込むような形で旭川が流れていたと思われるので、もう少し上流は勲橋の位置で矛盾ないのです。
確認のため各種『岡山市史』を見てみたところ、1964年発行の『岡山市史 政治編』では、当時の川筋を説明したうえで、現・勲橋を大橋とみなして論を展開していました(122ページ、195ページ)。
現・勲橋は江戸時代を通じて「土橋」「古京橋」と呼ばれ、のちには南詰のまち片上町にちなんで「片上橋」という名が定着したようです。
↓ 現・勲橋が描かれている江戸初期の絵図。橋名の記載はない。
慶安城下図(部分)岡山大学附属図書館蔵 池田家文庫より
↓ 片上橋の名が見える江戸中期の絵図(宝永図、部分)池田家文庫より
橋長拾一間四尺(約21.2m)、同幅二間四尺(約4.8m)と記されている。

↓ 片上橋の名が見える江戸末期の絵図(文久城下図、部分)池田家文庫より 川岸は石垣と土手で固められている。北岸に見える横線は雁木(階段) 橋長拾弐間(約21.8m)、幅三間(約5.5m)と記載されている。


明治15年(1882年)6月にこの橋を架け替えた際、当時の岡山県令(現在の県知事に当たる)高崎五六によって「勲橋」と命名されました。これが今日に至る橋名です。ただし『岡山市の地名』によると、地元ではその後ももっぱら「土橋(どばし)」の名が通用していたとのこと。古京町生まれの作家・内田百閒もこの橋を「土橋」と呼んでいます。
↓ 勲橋のたもとに建つ旧親柱と思われる石柱。明治期の橋のものだろうか?
北詰にも漢字表記の同様の石柱が立っている。年号等は見当たらず。
土橋というのは一般的に、木橋の路面に土を敷いて、丸太や材木の凸凹をならした形態の橋を指します。百閒が勲橋を土橋と呼んでいるのは、一般名詞としてそう言うのかと始めは思っていましたが、この場合はむしろ固有名詞なんですね。
固有名詞としての土橋(どばし・つちはし)は他にも各地に数々あるようで、私は真っ先に東京の「土橋(どばし)」が頭に浮かびます。新橋駅のすぐ近く、かつて江戸城外堀に架かっていた橋の名です。外堀は埋め立てられ橋は跡形もありませんが、交差点名や高速道路入口にその名を残しています。
↓ 勲橋から上流側(三勲小学校方面)を望む。背後に横たわるのは操山。
勲橋に話を戻します。高崎県令が勲橋と命名した根拠については史料に言及はありませんが、おそらく「三勲神社」から採ったのではないかと推測しています。『おかやま街歩きノオト』①②合併号の「勲橋と人魂の話」(18~19ページ)では、勲橋の名称は恐らく三勲小学校から来ていると思われるが、百閒の時代には三勲小はまだ無かったので、別の名称(土橋など)だったのだろう、などと書いています。書いた当時(2008年)は私もあまり知識がなかったので適当なことを書きましたが(しかも書いたこと自体を長らく忘れていた)、時系列的に明らかに間違っていますので、お詫びして訂正します。 ※最近、内海慶一さんが指摘してくれました。
正しくは、「勲橋の名称は恐らく三勲神社から来ていると思われ、百閒の時代には既に勲橋と命名されていたが、地元の人々は旧称・通称である土橋と呼んでいた」というのが正しいです。
三勲神社というのは、明治元年(1868年)に最後の岡山藩主である池田章政(尊王的な立場を取っていた)が操山山上に建立し、地元有志の申請により明治8年(1875年)に県社として国から正式認可された神社です。岡山ゆかりの3人の勲臣(天皇に尽くした歴史上人物)和気清麻呂・児島高徳・楠木正行を祀っています。当時は天皇中心の国家体制・皇国史観が推し進められていた世の中だったので、三勲神社は大変重要視され、この地域のシンボル的神社でした。
↓ 三勲神社跡。県立岡山朝日高校東方の操山尾根上に位置する。
このような経緯で創建された神社なので、歴史的・地域的な氏子を持っておらず、代わりに岡山市の児童生徒全員が崇敬者ということにされました。4月11日の大祭の日には大勢の児童生徒らが動員されたそうです。
そんな三勲神社も、国家体制が変わった戦後は世話する人も無くなり、一気に荒廃したとのこと。そのため昭和28年(1953年)8月に、本殿だけは玉井宮東照宮(中区東山)の境内に遷されました。今も三勲神社は玉井宮の末社として祀られ続けています。最近は玉井宮で三勲神社の御朱印もいただけるそうですよ。
玉井宮が三勲神社を引き取ったのは、同社と深い縁があるから。そもそも三勲神社の認可申請を国に提出した「有志」の中心人物こそが玉井宮東照宮の当時の宮司でした。三勲神社の祭祀は玉井宮東照宮が兼務していたそうです。
ところで、操山の「みさお」は今でこそ「操」と書きますが、かつては「三櫂」と表記されていました。「櫂」の訓読みは「かい」ですが、昔は「櫂」は「棹(さお)」の異字体とされていたらしく、そのため「櫂」も「さお」と発音していたようです。操山の西部(安住院や少林寺がある辺り)は「瓶井(みかい)山」とも呼ばれますが、瓶井(みかい) →三櫂(みかい) →三櫂(みさお) →操(みさお) となったのではないか、と推測してます。なお、明治時代に存在していた「三櫂村」(現在の三勲学区にほぼ相当する)は「みさおそん」と発音したそうです。
↓ 旭川東部絵図(部分)17世紀末頃?、岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫より
操山が「三櫂山」と表記され「みさをやま」とルビが振られている。
その麓の集落名は「瓶井(みかい)門前村」となっている。
三勲神社という神社名は、もちろん三人の勲臣という意味から来ていますが、「三勲(み+いさお →みさお)」という語呂も意識されていたのではないか、と考えています。何だかキラキラネーム的な読み方ですが…。
そう思っていたら、実際に「三勲」を「みさお」と読ませる例を見付けました!『三勲小学校七十周年記念誌』(1994年刊)によると(26ページ)、三勲小の前身の一つである「三櫂(みさお)尋常小学校」(明治22年設置)は、明治32年に読みは同じ「三勲(みさお)尋常小学校」に文字表記を変更した、とのこと。その後、大正12年に三勲小学校(当時は三勲尋常高等小学校)が現在地に設立された際に、文字は同じ「三勲」を「さんくん」と読ませる学校名にした、ということです。
単なる地名の「三櫂」が「三勲」に変わったのは、明治も後半に入り、軍国主義的雰囲気が高まる中で「勲」という勇ましいイメージの文字がより好まれたためでしょうね。少々回りくどく書きましたが、一般的には三勲小学校は三勲神社から名をもらったとされています。
・・・というわけで、橋の名称とその周辺の地名だけで、時代背景も含む壮大な(?)気付きを得ることができました。
by machiarukinote
| 2024-04-27 18:31
| こぼれ話
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