2024年 04月 12日
相生橋と荒手 |
ここ数年の間に相生橋周辺の風景も大きく変わりました。東詰では「岡山衛生会館(三木記念ホール)」が無くなり(跡地は住宅)、「三光荘」の特徴的な建物は健在ではあるものの、本来の公共の宿としての機能は終わって(ビアガーデンが人気だった)ひっそりと県庁の分館となっています。西詰では最近、内山下交番とその横に建つ和風豪邸(大本組創業家の元邸宅だとか)が解体されました。この二つはどちらも目に馴染んだ愛着ある風景だったので残念です。
とはいえ、相生橋自体は変わりない姿を見せてくれています。私が岡山に移り住んだ時(1987年)には既に現在の姿でしたが、その少し前の1986年に歩道部分を付け足す大改修が完了したとのこと。できたてホヤホヤの自慢の花形公共施設だったんですね。今は植栽が若干しょぼくなっているけれど、当時は歩道の車道寄りに並ぶ花壇が素敵で、自動散水装置が付いているのもスゴイな、と思った記憶があります。
が、何と相生橋自体は1937年(昭和12年)竣工の戦前の橋なのです。その後の改修があまりに大掛かりなため、そんなにレトロに見えないのですね。
↓ 親柱に装着されている銘板プレート。「昭和十三年竣工」と記されているが、
欄干は歩道増設時の新しいものですが、石製の親柱は架橋当時のオリジナルです。当初はこの上にアールデコ調の照明が付いていました。いわば現在の親柱は土台だけ。どうりで地味なわけだ。
↓ 架橋当初の親柱。上部に照明が付いている。1937年11月撮影
どうせなら照明も復元制作して取り付けたらもっと見映えしたのにね。花壇にはお金を注ぎ込んだのに、そっちはスルーだったのか。もっとも昨今の橋は親柱を重視しておらず、むしろ邪魔もの扱いのようなので、そういう流れに乗ったのかも。
↓ 相生橋の現状。親柱と付け足された歩道部分。
相生橋の歴史については、現在は西詰南側に立つ「まちしるべ」という岡山市設置の説明看板で概説されています。が、調べてみるとけっこう複雑で、一言では説明しきれません。少々長くなりますが、調べたこの機会に覚え書きとしてこのブログに記しておきます。ネット上にもそこまで詳しい解説は見当たらないので。
最初の相生橋が架けられたのは1904年(明治37年)。それまで旭川のこの地点に橋はなく、代わりに渡し舟が2ヶ所あったそうです。どちらも現在の相生橋と同じ位置ではなく、少し下流にあったもよう。
↓ 1900年(明治33年)の岡山市地図(部分)。「デジタル岡山大百科」より
この渡し舟は内田百閒の随筆にも出てきます。百閒が生まれ育ったのは古京町ですが、通った高等小学校と旧制中学校は旭川対岸(現在の北区側、旧岡山城域内)にあったため、通学にはよくこの渡し舟を使っていたとのこと。
百閒は裕福な造り酒屋のお坊ちゃまだったので、遅刻しそうになると店の従業員が先に渡し場へひとっ走りして、坊ちゃんのために無理やり舟をキープしておいたのだとか(他の利用者もいるのに!)。また、しょっちゅう櫓を漕がせてもらったり舟を揺らしたりと悪さばかりするので、いつも使っていた北側の「荒手の渡し(伊木の渡し)」は出禁になって、しかたなくその後は南側の「中屋敷の渡し」を利用していたのだそうです。
中学生になって体力が付いてきた頃、増水のため今日は舟を出せないという船頭と押し問答のすえ、自ら櫓を取って必死に漕ぎ何とか対岸に着けた、というエピソードも忘れられない思い出だそう。何とも自由過ぎて傍迷惑なお坊ちゃんですね。百閒らしい。
さて、最初の相生橋が誕生した経緯も興味深い。岡山藩最後の藩主で当時は侯爵となっていた池田章政が、自分と正室・鑑子との金婚祝いの記念として相生橋を架けたというのです。もちろん私費で。昔はこんなこともできたのですね。これほどの大規模な橋を個人が建造するなんて。
着工は1903年(明治36年)12月26日、竣工は翌年4月22日。しかし、池田章政氏は1903年6月5日に亡くなっています。実際は、橋の着工も完成も自身では見られなかったのですね。存命中に計画され、亡くなった後も遺志を尊重して池田家が事業を続行したと見られます。
章政夫妻の結婚式と金婚式の年月日が気になったので調べてみました。婚儀は1854年(嘉永7年)2月5日でした。金婚式は50年後だから1904年2月になります。あれ?章政氏はもう亡くなっているよ。が、金婚記念の写真はしっかり残っています(林原美術館所蔵→コチラ)。昔は年齢だけでなく、慶事弔事も数え年方式を採ることが多かったようだから、1903年2月に金婚式は無事済ませていたのでしょう。
「相生橋」という橋名も池田家が決めたそう。相生とは「相生の松」などと言うように、一つの根元から二本の樹が仲良く並んで生えているさまを指しますが、転じて夫婦が揃って長生きする(相老)という意味にも使われるとのこと。まさに金婚記念にふさわしい命名ですね。
当時の時代背景も気になります。実はこの少し前、1900年(明治33年)に第六高等学校(六高)が華々しく開校しているのです。場所はいま県立岡山朝日高校がある所(現住所では中区古京町2丁目)。六高開校で、岡山中心街(旭川西岸側)とそれまでは街はずれに近かった東岸側との人の行き来がぐっと増えたと思われます。やはり橋がないと不便ですよね。また、相生橋が架けられる前は、六高生は京橋を通って通学していたそうですが、京橋が架かる西中島・東中島地区は当時遊郭だったので、エリート学生たる六高生たちが通るにふさわしくないという声が上がり、それが池田家に届いて相生橋架橋が決まったということです。
池田家が架けた初代相生橋は木橋で、全長133m、幅3.2mだったそう。なお、1911年(明治44年)4月22日(竣工からきっかり7年後!)には池田家から岡山県に寄付され、通常の自治体の橋となりました。
昔ながらの木橋だった当初の相生橋は増水に弱かったようで、1913年(大正2年)に流出して翌年4月に二代目完成、1928年(昭和3年)6月に再度流出して翌年1月16日に三代目竣工と、小刻みに架け替えられています。いずれも木造でした。二代目の詳しいデータは残っていないようですが、三代目は幅5mだったそうで、初代よりちょっぴり進歩していますね。
↓ 二代目の相生橋。大正15年撮影、『写真集 戦前の岡山』1997年刊より
東岸から西岸を眺める図。右端に空襲で焼失する前の岡山城が見える。
が、三代目も室戸台風(昭和9年)による記録的な水害であえなく流されてしまいました。その瞬間の劇的な写真が残っています。
↓ 室戸台風の大水で流される三代目相生橋。1934年撮影
(岡山市電子町内会HPより)西岸から東岸を眺める図。
室戸台風による被害の後、旭川の根本的な改修を進めつつ、満を持して架けられたのが現在の四代目相生橋です。室戸台風の大水害が発生したのは1934年9月21日、相生橋の竣工は1937年11月3日。こんなに間が空いたのはそのためと見られます。3年以上もの間、みんな京橋や鶴見橋に迂回していたの?・・・と思ったら、なんと素早く仮橋が架けられたのだとか。岡山工兵隊が突貫工事でたった6日で完成させ、市民に感謝されたとのことです。
↓ 室戸台風の大水害後、岡山工兵隊が突貫工事で仮橋を架ける様子。
↓ 出来上がった相生橋の仮橋。西岸から東岸を眺める。上掲同書より。
この簡単な仮橋に代わって完成したのが、近代的な鉄骨造りの四代目相生橋(仮橋は代にカウントせず)。資料には全長206m、幅9mとあります。
ところが、データをよく読むと奇妙なことに気付きます。全長206mのうち、西岸側の141mはゲルバー鈑桁・鉄筋コンクリート橋脚4基という鉄骨造りなのに、残りの東岸側の65.5mは井筒基礎の木橋だというのです。え?近代的な技術で最新の橋を架けたんじゃないの? 全長の3分の1近くが木橋って・・・。
これも調べたら謎が解けました。『旭川史』(建設省岡山河川工事事務所、1971年刊)によると、「現在の橋が右岸側141m完成、左岸側は旭川改修未完成のため木橋仮橋で連結されていた」とのこと。
実は当時、左岸(東岸)には「荒手」と呼ばれる中洲がありました。京橋が架かる東中島・西中島みたいな、家も建っているしっかりした中洲です。現在、相生橋の架かる部分の東岸は河川敷が不自然に広々としていますが、この広い河川敷範囲が概ね「荒手」のあった区域になります。この中洲「荒手」は旭川の水流を阻害するという理由で、改修事業で撤去されることになっていました。しかし、相生橋の開通式典当日(1937年11月3日)の写真を見ると、荒手はまだがっつり残っていますね。とりあえず鉄骨造りの部分が完成したのを「竣工日」としたようです。
↓ 開通式典の日の四代目相生橋。子供たちが動員されて渡り初めが行われている。
西岸から東岸を眺める。東岸には「荒手」と呼ばれる中洲がまだ横たわっている。
戦後の昭和25年度に、木橋部分を鉄骨造り(ゲルバー鈑桁)に造り直す工事が開始され、1951年(昭和26年)6月1日に竣工しています。この時、橋脚2基・橋台1基が新たに作られ、これで全長すべて鋼鉄製の横桁を持つ、橋脚計6基・径間数7の橋に整えられました。
その後1986年(昭和61年)に、橋桁の両側に幅広の歩道が付け足されて現在の姿となったわけです。橋の下から覗くと、両歩道を支えるために、橋脚上部が幅広な形状に改修されているのが判ります。
ところで、この「荒手」なる中洲は内田百閒の随筆などにたびたび登場しますが、いま一つイメージが湧かずにいたところ、下のようなわかりやすい地図を見つけました。
上の地図で淡緑色に着色した部分が荒手です。そこそこ面積のある中洲ですね。この中洲と古京町との間には空堀があって「龍見橋」という別の橋が架かっていました。上の地図で、荒手右側にオレンジ色で着色したのががその橋です。
内田百閒によると、空川(空堀)の北寄りには「土手の下の大池」と呼ばれる水たまりがあって、子どもの頃そこでよく遊んだとか。
また上掲の地図では、荒手の南端、御成川河口(旭川との合流点)に近い所に、旭川河岸に出る道が表記されていますが、ここが北側の渡し舟「荒手の渡し(伊木の渡し)」乗船場のあった所です。この道は龍見橋経由でも御成川土手道経由でも古京町に通じているようなので、百閒の通学にはさぞ便利で好都合だったのでしょう(百閒の生家は上掲地図で「古京町」の「古」の字が書いてある辺り)。
南側の渡し舟「中屋敷の渡し」はちょっと遠回りかな。「荒手の渡し」乗船場の少し南、御成川の河口を挟んだ向こう側に「中屋敷の渡し」はあったようです。上の地図で言うと、御成川河口部の両側から突き出た2本の波止に守られるような位置。奇しくも、現在「内田百閒記念碑園」になっている場所の目の前です。なお「中屋敷」という渡し場の名称は、その東岸、現在の小橋町1丁目あたりが昔は「中屋敷」という町名だったことから来ています。
いずれにしても、渡し舟を使わないと京橋まで足を延ばさねばならなかったので、遅刻しがちな百閒としては何が何でも乗船したかったのでしょうね。
↓ 右側から細長く突き出ている河川敷が荒手の南端に当たる。昔はこの先端に
荒手には、相生橋~龍見橋の道の北にも南にも家が建っていましたが、北側は伊木家下屋敷(荒手屋敷)の敷地でした。茶人でもあった最後の岡山藩家老・伊木忠澄(三猿斎)が趣向を凝らして整えた風流な邸宅だったとか。「伊木の渡し」という呼び名は、この伊木家下屋敷ならびに対岸の伊木家上屋敷(相生橋西詰一帯にあったという)にちなむものと思われます。下屋敷のある荒手と上屋敷のある対岸を結んでいたからでしょう。
荒手屋敷は、伊木三猿斎の最晩年に当たる1884年(明治17年)に旧藩主・池田章政に売却され、池田家別邸となりました。が、あまり使われていなかったのか、百閒(1889年生まれ)が子どもの時分は、狸や狐の出そうな藪に覆われてとても子どもが近づけるような雰囲気ではなかったとか。実際、自分は行って見たことはないと書いています。やがてこの屋敷は第六高等学校の寄宿舎「六高館」として短期間使われた後、1905年(明治38年)に岡山の大実業家・坂本金弥に買い取られます。百閒によると、相生橋と龍見橋を結ぶ道沿いに成金っぽく飾り立てた豪勢な表門を構えていたとのこと。地元古京の人々も、坂本氏の羽振りの良さをよく噂していたと言います。
上掲地図でも表記されているように、相生橋~龍見橋の道の南側にも民家が建っていました。岡山市立中央公民館が2014年にまとめた地元での聞き取り調査資料『六高があった頃の町並みと暮らし(エピソードマップ)』によると、ここには「レンガづくりの洋館や別荘のような家がたくさんあった。取り壊された後に残ったキッチンのタイルの上などで子どもがよく遊んでいた。『伊木の渡し』と言ってこの辺から対岸に渡し舟が出ていた」とのこと。貴重な証言です。この資料は現在、県立図書館HPの「デジタル岡山大百科」から見ることができます(→コチラ) 。当時、中央公民館の講座生だった私も調査に一部関わっています(調査自体は10年以上前だったと思う)。成果がこのような形で公開されていて嬉しいです。
荒手屋敷の最後の主・坂本金弥が亡くなったのは1923年(大正12年)ですが、屋敷はその後、1933年(昭和8年)から料亭「荒手茶寮」として使用されました。おそらく創業者が建物を借りて料亭を開業したのではないかと思われます。
室戸台風の大水害後も荒手茶寮は営業を続けていましたが、荒手の撤去が迫り、ついに1938年(昭和13年)10月17日、荒手屋敷は坂本氏旧蔵の書画骨董と共に現地で競売に掛けられます(競売会場は荒手屋敷)。県立図書館にその時の売立てカタログが所蔵されているので(『伊木三猿斎旧邸並故坂本金弥氏旧蔵品売立毛くろ久』1938年)、この情報は確かです。 ※「毛くろ久」とは「目録」の当て字
時系列で言うと、この競売は四代目相生橋の竣工(1932年11月3日)より1年近く後。荒手の上に建つ豪邸・荒手屋敷が退いてくれないことには荒手を撤去できないので、新生相生橋は西岸から荒手河岸まででしばらく止まっていたようですね。
料亭・荒手茶寮時代の荒手屋敷(伊木家下屋敷)の写真は多数残っています(上掲の表門の写真も)。荒手茶寮は後に後楽園南外苑に移転しますが、これらの写真はまだ荒手にあった頃のものです。料亭として使われ手入れが行き届いていたということもあるのでしょうが、予想以上に立派な建物や庭園の佇まいに驚かされます。古い相生橋の写真の背景に写っている繁みの向こうに、こんな贅沢なお屋敷が隠れていたなんて!
料亭・荒手茶寮はこの競売で荒手屋敷の萬竹堂・菊の間など主だった建物を手に入れたようで、同年、後楽園南外苑に購入した敷地にこれらを移築し、料亭の営業を続けます。が、1945年の岡山大空襲で後楽園と共に被災焼失し、現在の建物は後楽園の延養亭や鶴鳴館のように戦後の復元再建です。
いっぽう、競売で県外に引き取られていった建物には無事に現存しているものも複数あります。茶室の一つは広島県竹原市の陶芸家・今井政之展示館敷地内に、別の茶室は静岡県熱海市のMOA美術館敷地内で今も見ることができます。表門(長屋門)は東京で実業家邸宅の表門に使われたのち、現在は世田谷区のマンション敷地内で区指定文化財として大切に保存されています(→世田谷デジタルミュージアム)。なお、世田谷区の解説では東京への移築は昭和12年となっていますが、競売の日付から言って13年か14年の誤りでしょう。
荒手そのものがいつ撤去されたのか、正確な年月は不明ですが、航空写真で見てみると、1945年5月のものではまだ削平工事の途中っぽい(一部にまだ家屋が若干残っている)。1947年10月になると削平が完了したようで、木造仮橋部分がくっきりと見えます。
間に太平洋戦争を挟んだので、旭川改修事業もさほどスムーズに進まなかったのかもしれません。相生橋の木造仮橋部分を鉄骨化する工事が、戦後の混乱が一段落した1951年(昭和26年)なのも納得です。
なお、現在の相生橋東岸付近の広い河川敷が荒手の跡と上述しましたが、上掲の航空写真と現状を比較すれば分かるように、現在の河川敷は実際の荒手跡より北西側(後楽園寄りの部分)がだいぶ削られています。後楽園東の旭川分水路の水流を確保するためと思われます。今でも水位が下がった時にその削られた部分が、土砂の洲のような形で現れます。洲は後楽園外苑の南端にくっつきそうですが、上掲の大正14年の地図を見ると、当時は荒手からは後楽園へ小橋を伝って行けたように表記されています。
↓ 相生橋から後楽園方面に向けて東岸の河川敷を眺める。
ところで、後楽園東の旭川分水路(さくらカーニバルが開催される所)が概ね形作られたのも、この室戸台風水害後の河川改修時です。それまでこの部分は空堀のような造りで、土手の上り下りが必要なものの、現在の中区側から後楽園側へは徒歩でそのまま道なりに行けたとか。内田百閒も書いていますし、私も地元のお年寄りからそのように聞いたことがあります。よほど増水した時でないと水は流れなかったそうです。しかもその水は、現在のように後楽園外苑南端で旭川に合流するのではなく、荒手東の空川を通って御成川河口付近で旭川に出ていたとのこと。放水路としては何だか頼りないですよね。荒手撤去と共に大掛かりに改修されたのも頷けます。
なお荒手撤去の際に、荒手と古京町(現中区側)との間にあった空川は埋め立てられて古京町の続きになりました。現在の岡山県備前県民局古京庁舎から元・岡山衛生会館跡地の住宅、県庁通りを挟んで旧三光荘にかけての南北に細長い区画が空川跡に当たります。龍見橋も空川陸地化に伴い消滅し、その箇所は県庁通りに吞み込まれた形になっています。
相生橋関連だけでかなりの長文になってしまいました。今当たり前に見えている風景も、当たり前に昔からあったわけではない、ということがここでも痛感されます。
by machiarukinote
| 2024-04-12 00:30
| こぼれ話
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