2022年 10月 21日
三勲学区 歴史スポット覚書(その2) |
前回のつづきです。
さらに耳寄り情報をもう一つ。塔の山にある小堂「塔の山不動堂」には、不動明王の像のほかに、珍しい「六十六部廻国供養塔」があるはず、とも大福寺住職さんは教えてくれました。四国八十八ヵ所や西国三十三ヵ所の霊場巡りは有名ですし、そのミニローカル版である児島八十八ヵ所や岡山二十一ヵ所大師霊場巡りなども聞いたことありますが、六十六部廻国なんて初耳。霊場巡りの一種なんだとか。
「塔の山」とその周辺の話題になります。「塔の山」とは、県立岡山朝日高校の南、三勲小学校の東にある小高い場所。昔から「塔の山」と呼ばれていて、墓地などになっています。内田百閒の随筆にも登場します。昔は古墓が一面に散らばる寂しげな所だったとか。今は墓地もスッキリと整理され、半分は駐車場になっているのでさほど感じませんが・・・。内田百閒の随筆では、ここから人魂が飛んできたとか、崖が崩れて土葬された人が出てきてしまったとか、不気味な文脈で綴られています。(塔の山については、以前このブログでも取り上げたことがあります。→コチラ)
↓ 2008年5月撮影の「塔の山」。当時は寄せ墓のあたりに
「塔の山」と呼ばれる由来は、昔ここに蓮昌寺の塔があったからだとか。蓮昌寺は現在、田町にあるお寺です。戦災で全焼し今は寺域も縮小されていますが、それまでは岡山市街地随一の大寺だったそうで、旧国宝の堂宇も複数持っていたとのこと。この蓮昌寺は現在地に落ち着くまで何度か移転したと伝えられており、宇喜多秀家の時代には森下町にあったと言われています。その時、塔が置かれていたのがこの「塔の山」だというのです。森下町からは少々離れているので、飛地だったのでしょうか。
塔の山で有名なのは「法鮮銘五輪塔」(岡山市指定文化財)。俗に「お鮮さんのお墓」と呼ばれており、宇喜多秀家の生母・お福の墓と信じられているものです。高さ約3.4mもある堂々たる巨大な石塔で、確かにかなりの有力者を弔った墓あるいは供養塔と見られます。ただし銘にある「法鮮」が「お福」と同一人物であるかは何の確証もないので、伝説の域を出ません。蓮昌寺に葬られた別の宇喜多家女性(宇喜多詮家の妻)の墓とする説も近年はあるようです。
現在の塔の山はいかにも整備された感じですが、現地で聞き回れば旧状が判るかも、と思って今回出向いたのです。法鮮銘五輪塔も当初の位置から移動しているそうですし。他にも「塔の山不動堂」(五輪塔のわきに建つ小堂というか簡素な小屋)についても知りたいと思って・・・。
塔の山に登ると、地元の人2~3人が軽トラやバンまで出して、結構大掛かりな清掃活動の真っ最中でした。声を掛けてみると、70代くらいの方たちでしたが、自分たちが知っているのは既に駐車場ができてから後の状態で、それ以前は見ていないとのこと。
現在この墓地も不動堂も徳与寺のものだそうです。ついでに、塔の山のすぐ北、御成川沿いにある「大師堂」という小堂についても聞いてみましたが、こちらは国富の安住院の管轄だそうです。そうなんだ、知らなかった。
それから、徳与寺の淡島さまの縁日についても教えてくれました。戦前くらいまでは賑やかな縁日で有名だったと本に書いてあったのですが、戦後も昭和30年代前半くらいまでは続いていたそうです。夜店が道にずらっと並んで、盛大な賑わいだったとか。中島遊郭の女郎さんたちもよくお参りに来ていたそうです。赤線廃止は昭和33年なので、縁日が継続していた時期とつじつまが合いますね。
では、徳与寺で聞いてきます!と言ったら、徳与寺の住職さんは今年5月に亡くなり、県外から来た血縁でないお坊さんが新住職に就いたばかりだから、聞いても古いことは分からないと思う、といいます。ええっ、なんと間の悪い! すると、この辺で歴史に詳しい人なら大福寺の住職さんだと教えてくれました。お寺さんでよそのお寺の寺域のことを聞くのも何だかへんな感じですが、大福寺さん自体のことでもお聞きしたいことがあるし・・・、と行ってみると、住職さんはお留守でした。が、奥様が丁寧に応対してくださり、夕方に帰る予定なのでこちらからお電話しますとのこと。お言葉に甘えました。
ちなみに、帰り道でもう一度塔の山を通りましたが、その時、徳与寺の新住職さんがたまたま墓地に出ておられて、お会いすることができました。やはり、前住職とはあまり引き継ぎできなかったので、一般的な本に書いてあることくらいしか分かりません、これから勉強するところです、と話しておられました。
さて、その日の夕方に大福寺住職さんからお電話をいただきました。聞きしに勝る博学ぶり! たくさんの貴重な情報を教えていただきました。
まず塔の山について。現在ライオンズマンションが建っている場所は、それ以前は実業家の邸宅で、さらにその前は「大楽院」というお寺だったそうです(このあたりまでは私も別筋から聞いていた)。この大楽院は廃寺となり、墓地ごと徳与寺に合併されたとのこと。実業家の邸宅が建ったのは昭和40年代の半ばのようで、それ以前、大福寺住職さんが幼い頃には大楽院のボロボロの塀がまだ残っていたそうです(ちなみに住職さんのお歳は50代くらいとお見受けします)。なおライオンズマンションが建ったのは、不動産情報によると1990年(平成2年)です。
徳与寺には薬師堂と観音堂という二つの古いお堂が並んでおり、薬師堂は徳与寺の本尊・薬師如来を祀る本堂ですが、観音堂は大楽院から引き取った大楽院の本堂で十一面観音が祀られているそうです。同じようなお堂が二つ並ぶ謎が解けました。
徳与寺は戦災に遭っているとの記述も見掛けますが、それはないと思う、と大福寺住職さん。現に徳与寺の新住職さんも、薬師堂と観音堂は見た感じかなり古そうな(少なくとも戦後の築ではありえない)建物だと断言しておられました。塔の山で出会った地元の方も言っておられましたが、徳与寺の淡島堂が焼けたのは昭和40年代くらいの火事によるものだとのこと。その後、現状のような今風の建物に建て替えられています。
淡島神とは和歌山県加太の淡嶋神社を総本社とする神仏習合的な神様で、婦人病治癒をはじめとした女性の守り神です。遊郭の遊女たちが熱心に信仰したのもそういう理由からです。もちろん一般女性の信仰も集めており、現在、徳与寺で執り行われている針供養の行事も女性関連だからだそう(日本和裁士会県支部とのタイアップ行事でもある)。
なんとこれは全国版の霊場巡りなのです。六十六とは昔の国の総数。備前の国とか播磨の国といった「国」ですね。日本全国すべての国を巡って、一の宮や国分寺などその国の代表的な寺社に納経するというもの。主に江戸時代後期に流行ったそうです。あの当時の全国巡礼ですから、途方もなく大変な旅だったことでしょう。
コンプリートすると記念に出身地などに供養塔を建てたのだそう。初めは「行者」と呼ばれる旅の修行僧がこの巡礼を行ないましたが、次第に俗人もするようになったということです。あまりに長期間に渡るので、巡礼が職業のようになっている人もいたとか。
六十六部廻国は明治時代に入って禁止されたので、一気に忘れられた存在になり、研究もあまり進んでいないということです。大福寺住職さんによると、六十六部廻国供養塔は、気を付けて見ていれば他でも時々見かけるとのことですが、少なくとも岡山ではほとんど知られていないジャンルだと思います。
で、塔の山不動堂の中にあるどれが六十六部廻国供養塔なのか、と気になり、適当に撮った写真を見返してみると、向かって右端にある六角柱の石塔がそれだと判りました。正面に「六十六」との文字がかろうじて見えます。もう一度ちゃんと撮り直しに行かねば! 六角柱の頭に笠を載せたような形で、角柱の各面には地蔵菩薩の立ち姿が浮き彫りにされており、建立された年月や奉納者の名も刻まれています。見た目にも面白い形です。六十六部廻国供養塔は決まったスタイルがあるわけではなく、文字
だけを刻むシンプルな板石型・角柱型も多いようなので、これはけっこう凝っているほうだと思います。
↓ 塔の山不動堂にある「六十六部廻国供養塔」。棚でさえぎられているが、
またまた長くなってしまったので、続きは次回〈その3〉へ。
by machiarukinote
| 2022-10-21 21:26
| 街歩きレポート
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Comments(2)
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
ククラ様、コメントありがとうございます。
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