2021年 10月 11日
晴明伝説の地:浅口市金光町占見 |
一年近く前の話になってしまいましたが、探訪したまま放っておいたネタを遅ればせながら綴ります。

江戸時代に流行った芝居や講談の影響もあるでしょうが、伝説を広めた民間陰陽師たちにとっては、晴明よりむしろ道満のほうが身近に感じられて、直接的なヒーローと映ったからかもしれませんね。民間陰陽師というと大仰ですが、要は占いや祈祷を生業とする人たちのことです。やっぱり道満のイメージに近いな。
いろいろ書きましたが、全体的に見て占見の史跡巡り、私はとても気に入りました。狭い範囲内にけっこう濃密に密集していますし、鉄道駅から近いのもありがたい。鄙びた田舎の雰囲気も良かったですし、整備しすぎていない史跡の素朴さも良くて、なんか昔に思いを馳せたくなる雰囲気に溢れていました。
2020年11月にふと思いついて、以前から気になっていた浅口市金光町占見にある安倍晴明伝説の地を訪ねました。
岡山県には、意外にも晴明ゆかりの地と称するスポットがたくさんあります。京都の官僚だった安倍晴明がはるばる岡山くんだりに足を運んでいるはずはないのですが、岡山地方には民間陰陽師(「拝み屋」的な職業集団)がかなりいたそうなので、そういう人たちが自分たちの伝説的大ボスである晴明を祀ったのが、晴明史跡として今に伝えられている、という経緯が背景にあるようです。
私は吉備真備伝説に興味をもったのがきっかけで、関連する晴明伝説にも興味を持ちました。伝説の中では、真備は晴明の師匠格なのです。時代的には200年以上離れている二人ですが、時には時空を超えて交流しちゃったりすることも。伝説ってホント自由で楽しいな。
浅口市で有名な晴明伝説の地といえば「阿部山」ですが、ここは車に乗せてもらって2014年1月に訪問しました。当ブログでもレポートしています(→コチラ)。
今回訪ねたのは浅口市でも旧金光町エリアにある占見。地名からしていかにもな感じですね。晴明がここで占いをしていたので「占見」になったと言われますが、大昔は海が入り江状に入り込んでいた地なので「浦見」となり、後に転じて「占見」になったとの説もあるようです。
JR金光駅から歩いて向かいました。駅から北へ800mくらいでしょうか。「大宮神社」という大きな神社を指標にすると分かりやすい。この神社の背後(北東)にある集落(「迫(さこ)」という集落らしい)が目指す地です。この集落に「晴明塚」「晴明井戸」「道満の墓」「道満池」「晴明の月見岩」といった史跡が点在しています。
晴明だけでなく、ライバルである芦屋道満までセットで祀られているのが面白いですね。もっともこの二人のセット史跡は、全国的にわりとあるあるパターンなのですが…。芝居や講談では悪役の道満ですが、彼もまた晴明と並ぶ陰陽道界のヒーローであることには変わりありません。
史跡探索には浅口市が提供する史跡マップがとりあえず役立ちます(→コチラ)。ただ拡大図でも位置がかなりざっくりしている(ポイントがずれている)ので、「井戸」や「月見岩」は見付けるまでかなり苦労しました。
真っ先に向かったのが「晴明塚」。「安倍晴明の墓」とも呼ばれています。
集落最奥(北端)に近い民家脇、玉垣に囲まれた小さな聖域で、「晴明霊墳」と刻まれた石碑(墓石?)が建っています。
年に一度の祭りの日に掲げられる、と浅口市観光協会のブログでは説明されていますが(→コチラ)、『晴明伝説と吉備の陰陽師』(2001年刊)という本には、「以前は旧暦9月18日、19日を祭日とし、大宮神社の神職が、18日夜と19日朝に奉仕し、当番で鏡餅一重ねをつくり供え、後、各戸に分配した。その後、新暦10月9、10日を祭日とし、その折に使用した『奉献晴明霊神 明治四拾一年九月吉日』と染めぬいた幟が現存するが、現在では特に祭礼は行われていない」と書かれています。
祭礼はなくても、保管している家の方が今も自主的に10月9日・10日にだけ飾っているのでしょうか。もっとも私が訪れた日は11月15日でした。この日は地元で史跡巡りイベントが行われていたようで、もしかしたらイベントに合わせて、サービスで掲げてくれていたのかもしれません。
玉垣の年号を見ると、明治22年(1889年)。昭和25年(1950年)にその玉垣を改修したとの石碑もあります。元々ここには晴明の墓と伝わるコゴメ石(結晶質石灰岩)の古い五輪塔があり、明治21年に「晴明霊墳」の現石碑を新設したのだそうです。玉垣は石碑建立と連動して整備されたとみられます。今見られる佇まいは比較的新しいものなのですね。
もともとの五輪塔は近在の占い師たちに持ち去られて(鼠小僧の墓みたいに、墓石のカケラにご利益でもあったのでしょうか?)、わずかに笠石の一部が現存するだけだとか。「晴明霊墳」の石碑の裏に転がっているそうです。え~、そこまで見ていなかったよ~!
この晴明塚の脇を通る細い坂道をさらに進み、少し山に入った所に「道満池」と「坊主岩」があります。池は窪地の中央部分が少し湿っているだけでほとんど水はありませんでしたが、木漏れ日の中、対岸に丸みを帯びた巨石が鎮座している風景はなかなかに神秘的。
↓ 道満池と坊主岩。木漏れ日が光の帯のように池を横切っているのが幻想的。
現地説明板によると、昔この岩に怪鳥(金色の山鳥、金鶏)がとまっていて、道満の占いには凶事の前兆と出たが、道満が岩を爆破させたところ、岩は真っ二つに裂けて黒い血を流し、以後、怪鳥も姿を消して何事も起こらなかった、という伝説が伝わっているとのこと。ここではヒーローは晴明ではなく、道満なんですね。でも、怪鳥だの黒い血だの、道具立てがダーク寄りだな。好きですよ、こういうの。


せっかくなので、池の縁をぐるっと廻って坊主岩の所まで行ってみました。坊主岩は高さ7m、直径6mなのだそうです。伝説では真っ二つに裂けたことになっていますが、見たところ裂け目などは見当たらず、まるで人工物のような滑らかな表面でした。岩の後ろあたりには石積み護岸のようなものも見えたので、溜池的な役割の池でもあったのかな、と思いました。
ちなみに別の伝説では、坊主岩は、道満の宝器、あるいは陰陽道の相伝の書を納めた石櫃なのだとか。こっちの説も神秘的ですね。相伝の書とは「金烏玉兎集(簠簋内伝)」のことでしょうか。そうだとすると、話がえらいスケールアップするな。


林に囲まれた寂しい場所だったにもかかわらず、木漏れ日が快い秋晴れの日だったこともあり、のんびり田園ムード。妖しの伝説スポットでなぜかほっこり…という、私のいつものパターンです。
さて、小道を引き返して再び集落の中心に戻ります。集落の中央には、迫池(さこ池)と呼ばれる直径50mほどの溜池があるのですが、その東側にある「道満の墓」へ向かいました。
↓ 溜池「迫池」の南岸から北を望む。矢印の所が「晴明塚」「道満池」への
「道満の墓」は「荒神社(貴船社)」という小さな神社が目印です。その脇のこんもりと少し小高くなった所に「道満」と刻まれた石碑が建っており、よく見るとその脇に小さな五輪塔もあります。
現地説明板には、「晴明の遺跡の近くには道満に関する伝説があり、中世の陰陽師、修験者(山伏)の活動が考えられる。まわりの畑は『道満屋敷』と呼ばれ、近くに『道満池』もある」と書いてありました。道満池は先ほどの池のことです。
次に「晴明の月見岩」を探しましたが、これがなかなか分かりにくく、随分迷いました。溜池「迫池」の西岸を通る舗装道路から南西へと林の中に入っていく小道があるのですが、これをたどるとすぐに「安倍晴明ゆかりの地 月見岩」と書かれた新しそうな案内板が現れます。

その矢印の方向にあるのが「月見岩」。ばらけた古墳の石室の石材みたいな岩がいくつか転がっています。月見岩は別名「晴明塚古墳」とも呼ばれているそうです。
こちらは、晴明が月見、すなわち天体観測をしていた地とのことですが、それとは別に、この岩の下に晴明の遺した宝物を埋めたという言い伝えもあるそうです。
また、ここは本当に古墳だったようで、古墳時代の土器・刀剣が発掘されたとも、平安時代の須恵器が出土したとも報告されているとか。他に、青の小壺、銅製の耳輪などが出た、という証言もあるそうです。
月見岩は、以前は竹矢来で囲まれ、岩のすぐ脇にあった榎の大木と共にこの地区のシンボル的扱いだったようで、明治末期までは近くの広場で盆踊りも行われていたそうです。
林の中の小道を戻らずに先に進んでみると、すぐに「大宮神社」の裏手にひょっこり出ました。こういう位置関係なのか!
なお、大宮神社の鎮座する小高い土地を、晴明の屋敷跡とする言い伝えもあるとのこと。晴明ははじめここに屋敷を構えていて、鎮守として山王権現も祀られていたが、後にこの地に大宮神社が移ってきたので、晴明は「迫」集落のほうへ引っ越し、元々あった山王権現(日吉神社)と大宮神社は並べて祀られることとなった、というのです(『吉備物語』1684年)。
実際、現在の大宮神社には日吉神社も合祀されています。大宮神社のオフィシャルな由緒では、大宮神社の創建は天智天皇の時代(飛鳥時代)で、江戸時代の享保13年(1728年)に日吉神社が勧請されて大宮神社境内に祀られた、となっています。上記の言い伝えとは順序が逆ですね。
『晴明伝説と吉備の陰陽師』によると、大宮神社はこの地の晴明伝説の伝承・管理に関して一翼を担っていたのではないか、ということです。前述の「晴明塚」の祭礼も大宮神社が担当していたそうですしね。大宮神社の神職に、陰陽道に深く関わる山伏が就いたという記録もあるとか。占見を訪れる際の単なるランドマークとしか認識していなかった大宮神社ですが、ここ自体伝説の地と知り、驚きました。
↓ 大宮神社。拝殿の向かって右側の扉が「大宮神社」で、
さて、残る「晴明井戸」が史跡マップからはどうしても分からず、現地の人に尋ねました。すると、最初の「晴明塚」の前にある井戸がそれだと言います。そういえばそれらしきものがあったわ…。そこで、さっそく「晴明塚」にリターン。晴明塚は坂道に沿った所にあるのですが、その前の低くなった部分、坂道と民家に挟まれた狭いスペースに井戸がありました。スノコ状の木製の蓋がしてあるので、見落としやすいかも。
晴明塚の傍らにある古井戸なので「晴明井戸」と呼ぶだけで、特に伝説はないのかと思っていたら、『晴明伝説と吉備の陰陽師』には、次のように書かれていました。「晴明塚の玉垣の外には晴明水と呼ばれる神水の井戸があって、参詣者はその水を瓶に入れ持ち帰っていたそうだが、現在は水量も少なくなり、生活水となっている」とのこと。晴明水は特に疱瘡に効くとされていたそうです。
以上で、史跡マップに記されていた占見エリアの晴明&道満スポットはめでたくコンプリート! ただ廻っただけですが、そもそも見付けにくい超マイナー史跡だけに、とりあえずは満足してます。心残りは、晴明塚の石碑裏にあるという、先代墓石の残欠を確認しなかったことかな。
それにしても、伝説の中では有名陰陽師たちが盛大にこんがらがっていますね。安倍晴明の師匠は賀茂忠行、あるいはその子・賀茂保憲といわれていますが、伝説では、その賀茂氏の先祖は吉備真備、晴明ら安倍氏は阿倍仲麻呂の直系子孫ということになっています(あくまで伝説!)。
唐から陰陽道の秘伝書を持ち帰った真備は、帰国後、仲麻呂の子孫を探し出し、秘伝書を譲ります。しかし、安倍氏には秘伝書を理解できる人はおらず、晴明の代になってはじめて彼が読解できたとのこと。さらなる奥義を学ぶため、真備の子孫が住む吉備国に来た晴明は、浅口郡占見に居を構えて、下道郡(現在の真備町とその周辺)に住む真備の子孫・保憲の元へ毎日通い、ついに秘伝の極意を伝授されて占いの名人となりました。その結果、晴明に占いを乞う人々が占見に殺到し、それまで「浦見」だった地名が「占見」になった、といいます。その後、晴明は京都へ上って朝廷に出仕し、陰陽寮の天文博士として名を馳せた、というのがこの地に伝わるご当地晴明伝説です(『吉備物語』1684年)。
有名な(全国区の)伝説や史実を巧みに織り交ぜながら、無理やり吉備の地に結び付けているな~。賀茂氏は代々の陰陽道の名家ですが、朝廷の官僚なので当然京都にいたはず。そもそも史実では真備の子孫じゃないし。下道郡出身の真備(真備自身は大和生まれとみられるが、父が下道郡の地方豪族出身)を媒介に、賀茂氏も晴明もみんなこっちに引き寄せちゃってますわ。強引!
占見の史跡にしばしばその名が登場する芦屋道満は、モデルらしき人は実在するとの説もありますが、実態不明の伝説的人物で、非官僚の民間陰陽師のエースということになっています。晴明に挑んだけれど負けて流罪に処された、あるいは弟子になった、というような説話が有名です。
占見に伝わる伝説を見渡してみると、古い時代(江戸時代初期)にはほとんど晴明一色ですが、時代が下るにつれて道満の混入率が上がってくるように見えます。道満は占見生まれで、占いの才能があったため、この地に来た晴明に弟子入りして技を磨き、占いの名人となった。評判となって人が大勢集まってきたので、「浦見」が「占見」になった、という先ほどの晴明伝説を道満に置き換えたような話が1790年の『備中巡礼略記』に記録されているそうです。
坊主岩も、晴明の秘伝書を納めた石櫃という伝説だったのが、いつの間にやら、道満を主役とする金鶏と黒い血の伝説に変わっているし。
↓ 葛飾北斎『北斎漫画』より。芦屋道満vs.安倍晴明

道満にせよ、晴明にせよ、これらの伝説はこの地にいた民間陰陽師たちのブランド戦略だったようです。晴明・道満直伝を強調することで、自分たちにハクを付けたわけですね。
ところで、同じ浅口市にある晴明伝説の地としては、阿部山の晴明史跡のほうが、山頂で天体観測という神秘的イメージのせいか、まだ話題に上ることが多いような気がします。ささやかながら神社もありますしね。
占見の史跡は、普通の村に岩があるだけ、石碑があるだけって感じなんで、観光アピールするにはちょっと地味かな。真備町や矢掛町の真備伝説の地みたいに、派手な記念公園があるわけじゃないし。
たとえば、大宮神社で晴明や道満にちなんだ御朱印とかお守りを授与するとかしたら、少しは人寄せできるかも。大宮神社はそこそこの規模の古社ですが、田舎の神社の御多分に漏れず、普段は無人のようでした。となると、授与物作戦はちょっと無理でしょうか。
浅口市が発信する占見の史跡案内もさほど詳しいものではありませんし(月見岩や晴明井戸に関しては情報ゼロ!)、ネット上に散見される情報も錯綜していて分かりにくい。伝説そのものがややこしくて一筋縄じゃいかないせいもありますが…。その点、もっとも信頼おけるのが『晴明伝説と吉備の陰陽師』という専門書です(高原豊明・著、岩田書店、2001年刊)。だた伝説を並べるだけでなく、伝説の出典である近世以降の書物を紹介し、原文も示して分析しています。伝説って変化するものだし、解釈によっても変化しますが、その辺のところがよく整理されています。このブログを書く際にも、大いに参考にさせていただきました。
by machiarukinote
| 2021-10-11 11:20
| 街歩きレポート
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