2021年 09月 20日
帯江鉱山の遺構 |
ふと思いついて、倉敷市郊外にある「帯江鉱山」の遺構を見に行ってきました。
「帯江鉱山」とは、明治時代~大正時代に操業していた銅山で、かつてはその製錬所の大きな煙突が遠くからも望めたとか。画家・児島虎次郎の油絵「酒津の農夫」(1914年)、「酒津の秋」(1917年)にも、遠景に帯江鉱山の煙突が小さく描かれています。
このことは地域史の本などに書かれているので、私は図書館で知りましたが、その後ネット検索してみると訪問記もいくつか見つかり、いつか私も現地に行ってみようとずっと思っていました。グーグルマップ等で、たぶんここ!と思われる場所も確認しました。が、徒歩では不便な場所ということもあり、長らくそのままに・・・。
3~4年前のこと、近代化遺産の研究者・小西伸彦先生にお会いする機会があり、『帯江鉱山煉瓦造煙突の産業考古学的価値についての考察』という論文が掲載されている冊子をいただきました。手元に冊子の余りがたくさん残っているので、配っているけれど、まあ、興味があったら読んでみてください、とのこと。いや~、興味があったらどころか、興味ど真ん中です! 遺構は私有地にあると聞いていたので、今でも残っていますか?見せてもらえそうですか?と意気込んで尋ねると、現存するし、快く見せてもらえると思う、とおっしゃいます。ただ、それほど積極的に保存しているわけではないので(例えば倉敷市が史跡認定して整備するとか)、あまり遅くならないうちに見ておいたほうがいいですよ、とのことでした。
ちなみに、小西先生は、2015年に倉敷市教育委員会から委嘱されて、帯江鉱山の火力発電所煙突遺構の調査をされたそうで、この論文もその調査に基づいて書かれたものです。
↓ かつて帯江鉱山があった丘陵。低い丘なので全体像が捉えにくい。
帯江鉱山は、盛時には吉岡鉱山(高梁市成羽町)に次ぐ生産量を誇る県内第二位、全国的に見ても国内屈指の銅山でしたが、採掘量の低下と経営不振によって大正9年(1920年)に操業を停止しました。鉱山は街にも比較的近い開けた場所にあり、跡地はゴルフ場や住宅地に開発されたため、今では鉱山があったことを知る人も少なくなっているとのことです。
鉱山がかつてあった場所は、倉敷市中庄~黒崎から早島町早島にまたがった辺り。マスカットスタジアムの南から西に広がる丘陵地帯です。丘陵のてっぺん一帯、現在ゴルフ場になっている辺りが採掘場と思われますが、鉱山の本部・製錬施設・輸送基地があったのは、現在「倉敷中庄自動車学校」が建つ場所。丘陵の中ほど北面に当たります。ここにレンガ造りの当時の大きな遺構が残っているというので、まずはこちらを目指しました。
JR中庄駅からはかなり距離がある上、微妙に上り坂。調べてみると、本数はすごく少ないながらJR中庄駅発の路線バスが通っているのが分かったので、このバスで向かいました。
バス通り沿いの公園広場の隅(手前)に建つ石碑が、まず目に飛び込んできます。「小川熊治」氏という鉱山関係者(採鉱監督)の功績を顕彰する碑のようです(明治44年建立)。
この広場の脇から丘陵の奥へと向かう道路が伸びていて、200mほど進むと自動車学校の入口になります。自動車学校の敷地は、丘陵北面に穿たれた浅い谷のような立地で、その山際に鉱山の遺構があるらしい。入口からは教習所の実習コースが広がっていて、その奥に建物が見えます。勝手に敷地内をうろつくわけにもいかないので、まずは受付があると思われる建物のほうへ。建物に近づくに従い、建物の陰からレンガ積みの高い壁みたいなものがちらりと目に入りました。
受付で、帯江鉱山の遺構を見学したい旨を伝えると、すぐに上役に聞きに行ってくれて即OKが出ました。建物の裏手です、と教えてくれて、自由に見ていいとのこと。時々こういう見学者が訪れるのか、わりと慣れている様子です。
訪れるまでは、遺構は敷地の外れの寂しい場所にでもあるのかと想像していたのですが、なんとメイン建物のすぐ裏。突如現れる迫力ある廃墟に圧倒されます。なのに、普通に職員の自動車が寄り添うように停めてあったりするし、ある意味シュールな光景。現代の施設に溶け込んでいるというか・・・。
使われている煉瓦がやや大振りで、黒ずんだ光沢のある質感なのも印象的です。これは、カラミ煉瓦といって、銅の精製で生じる不純物(鉱滓)を固めて作られた煉瓦。いわば廃物利用です。鉱山関連施設ではしばしば使われていた素材とのことですが、一般に流通する製品ではないので珍しい光景と言えるでしょう。カラミ煉瓦が微妙に青っぽい光沢を放っているのは、鉱滓に含まれる銅の成分によるのだそうです。また、鉄分を含むので硬くて非常に重いのだとか。
カラミ煉瓦造りのこの施設は、鉱石の貯蔵所だったようです。ここには精錬所があり、製錬で生じた有害な煙は、山肌に沿って設置された2本の「煙道」を通じて、山頂付近の煙突2基に導かれ、排出されていたそうです。児島虎次郎の絵に小さく描かれていたあの煙突ですね。煙突は鉱山の操業停止後もしばらく残っていましたが、第二次世界大戦中に、敵機の目標になることを恐れて破壊されたそうで、現存していません。
製錬所の排煙は有害なため、周辺地での公害が深刻化し、1909年(明治42年)には製錬所を人里離れた犬島に移転せざるをえなくなりました。今やアートプロジェクトとして有名なあの犬島製錬所ですね。それ以降は、帯江鉱山の鉱石は犬島に運ばれて製錬されましたが、帯江鉱山の廃止により、犬島製錬所も同時に操業停止となりました。
この貯蔵所跡の立派な遺構を見てすっかり満足してしまい、そのまま自動車学校を後にしてしまいましたが、帰宅後、資料をよく読んでみたら、ここにはもう一種類、貴重な遺構があったようです。同じ鉱滓を利用した建材でも、煉瓦形ではなく半球形に固めたものを積んで築かれた、低い擁壁が何ヵ所か残っているとのこと。どこにあったんだろう?
倉敷市公式観光サイトのブログ(→コチラ)に写真付きでレポートが載っており、それによると、この半球型鉱滓の石垣は、自動車学校の南側斜面や教習コース入口近くに多く残されているそうです。そばを通ったはずなのに気付かなかった。不覚! あと、グーグルマップのストリートビューで確かめてみると、石碑があった広場のバス通り側入口脇にもありました。こっちも前を通ったはずなのに・・・。ストビューで見た感じでは、こちらはやけに整然としているので、移設復元したものかもしれません。
↓ 倉敷公式観光サイトのブログよりお借りしました。
半球型鉱滓の遺構の写真。鉄兜を重ねたような形が面白い。
それから、自動車学校付近には「ズリ山」も残っているとか。ズリ山とは、鉱山から掘り出された岩石のうち、鉱石でないただの石、つまり不要な石を捨てた場所のこと。積み重なって小山のようになっていたため、そう呼ぶようです。これもストビューで探してみました。自動車学校前バス停から東へ200m余り戻った所、自動車学校の敷地北にあたる辺りに、禿山状のちょっとした小山があります。どうもこれがズリ山らしい。
いろいろ見落としていました。山の中にはさらに煙道跡とか運搬用トロッコの軌道跡などもあるそうですが、そこまでは探索できないにしても、半球状鉱滓の石垣やズリ山は気軽に見られる場所なので、これはまたぜひ再訪してこの目で確かめなくては!
さて、自動車学校を後にして、次の目的地、「帯江鉱山火力発電所跡」に向かいました。自動車学校前のバス通りを西へ600mほど行くと、生坂二日市線という新しい大きな道路に出ます(中庄団地西交差点)。この交差点から南へ2~3軒目のお宅の敷地に、火力発電所の煉瓦造りの遺構が残っているのです。家庭菜園みたいな感じの部分で、遺構は奥にあるらしく、道からはよく見えません。玄関の呼び鈴を押すと、80代くらいの物腰柔らかな女性が現れました。事情を話すとアポなし訪問にもかかわらず、快く見学を許してくれました。もしかしたら、このお宅も見学者にわりと慣れておられるのかも。
煙突は八角形で煉瓦造り(カラミ煉瓦ではなく通常の煉瓦)。倒れているため、内部を見ることもできます。横倒しになった胴の部分は4つに割れていますが、倒れた時に折れたのでしょうか。使われなくなった後に人為的に倒されたと見られるそうです。小西先生の論文では、綿密な計測と、同時代の同じような他の煙突との比較から、立っていた当時の高さは24m~27mくらいと推定しています。丘の上にあった帯江製錬所の煙突(高さ約38mと伝わる)には及びませんが、それでもなかなかのものですね。
他に敷地内には、煉瓦を敷き詰めた長方形の低い土台みたいなものと、カラミ煉瓦で築かれた二列の構造物が現存していますが、用途は不明だそう。このお宅の女性は、土台みたいなものは火力発電の機械本体を載せていたのではないか、とおっしゃっていましたが。
この火力発電所についての詳細な記録は見当たらないそうですが、小西先生の論文では、建造は1907年(明治40年)頃と推定されています。倉敷の街(美観地区)に電力供給が始まったのより3年ほど早かった、との新聞記事があるそうなので。
論文には、この火力発電所自体の役割についての言及は特にありません。ただ、近代の鉱山・製錬所には火力発電所は普通に付きものだったようなので(例えば、犬島製錬所にも火力発電所がある)、帯江鉱山の場合も、採鉱・製錬・運搬などのエネルギー源を供給する施設として火力発電所が設置されたようです。ちなみに電力以前は、石炭を燃やした蒸気で製錬所を稼働させたとのこと。
当時は火力発電所も石炭による汽力発電だったので、大して変わらないようにも思えますが、製錬所から少し離れた所の専用施設で電力エネルギーを作り、製錬所等に送り込むというやり方はより合理的だったのでしょう。ここで作られた電力は、製錬以外にも使えますしね。製錬所周辺に建つ鉱山関係者の住宅などにも電力が供給されたようです。現・自動車学校の北側にある「大寺地区」には鉱山関係者の住宅400戸が建ち並び、他に芝居小屋や小料理屋、郵便局も開設されて大いに賑わったそうです。ちょっとした産業城下町だったんですね。
帯江鉱山火力発電所跡のすぐ西には「六間川」という幹線用水路が流れています(現在は主要幹線道路「生坂二日市線」に沿う形で)。児島湾にも通じる六間川は、帯江鉱山ありし頃には水運航路としてフル活用されていたとのこと。そして、まさに火力発電所のあったそばには船着場があったとか。つまり、この火力発電所は、燃料となる石炭がすぐに荷揚げできる場所に作られたわけです。帯江鉱山の主体から少し離れたこの場所になぜ?という疑問の答えがコレ。納得です。
↓ 火力発電所跡の遺構全体を見渡す。
左奥にカラミ煉瓦の二列遺構、左手前に平たい土台遺構、
このお宅に住む女性のお話しによると、この土地は自分の父親が戦後、購入したものだそうです。一家はそれまで満州に住んでいて、戦後日本に引き揚げてきたとのことですが、住む場所を探していてこの地に巡り合ったのだそう。妙な遺構が残っていて使いにくいとは思ったものの、まあ、いいか、と決めたのだと話しておられました。遺構は倉敷市が保存に乗り出してくれているわけでもないので、自分の代はともかく、孫子の代になったらどうなるか分からない、とも。
倉敷市の依頼でここを調査した小西先生も、論文の中でこの遺構の近代化遺産としての重要性を力説されていますし、地元でも近年は帯江鉱山を顕彰する活動が高まっているようですので、倉敷市にはぜひ何とか奮起してもらいたいものです。
実はこのたびの街歩きは、スターハウスがある中庄団地とセットだったのですが、中庄団地でも見落としがありました(重ね重ねボケてるな~)。これはやはり近いうちに再訪せねば、と思っています。
何の事前アポもしていなかったにもかかわらず、遺構を快く見せてくださった倉敷中庄自動車学校の方々、民家の住人の方、ありがとうございました。論文を通して詳しい情報を提供してくださった小西先生にも感謝。よく勉強し直してから、また伺います。
by machiarukinote
| 2021-09-20 18:08
| 街歩きレポート
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