京都① プチ廃線跡歩き |
今回は、京阪三条駅の近くに宿をとりました。京都の場合、宿に特にこだわりはなく、空きがあって安くて良さげな宿を(あと、交通の便の良さそうな所を)、何となく選んでいます。今回は特に何が見たいという目的はなかったので、まさに何となく・・・。
宿の場所が決まったので、まずは下調べ。宿の周辺、三条東山~岡崎エリアを重点的にチェックしてみました。辻徳(辻商店)旧店舗を調べるために図書館で借りた『京都市の近代化遺産』などを大いに活用しながら・・・。京都はどこをとっても何かしらの見るべきものはありますからね。
そんな中、ネットで地図を見ていて、ふと妙なことに気付きました。航空写真に切り替えると、京都市営地下鉄の東山駅近くに不自然な家並みが見えるのです。東西に走る三条通りに対して、家一列分だけが周囲の家並みを無視して、斜めに切れ込むように一直線に並んでいる・・・。どう見ても何かの痕跡っぽい。
↓ Yohoo地図の航空写真より(Googleマップでも同様に見れます)。矢印の部分に注目。
こういうのって、堀を埋め立てた跡か、廃線になった線路跡ということが多いような・・・。妙な家並みの延長線上が私立学校の敷地になっていることから、昔は工場でもあって引き込み線だったのかなぁ、などと見当をつけましたが、とりあえずは京都の古い地図を見てみることに・・・。幸い、昨今はネット上でも色々見られるので、さっそくいつも重宝に使っている国際日本文化研究センター(日文研)HPの「所蔵地図データベース」で適当に検索してみました。すると大正時代の地図にズバリその正体が!
↓ 日文研所蔵地図データベースより。大正2年(1913年)の「京都市街全図」より。
上の地図で、ほぼ中央を東西に走っているのが三条通り。その三条通り上を左(西)から来た線路が、東山三条交差点を少し過ぎた地点で突如斜め北に折れ、三条通り北側の街なかをゆるくうねりながら進み、蹴上の直前でまた三条通りに合流しています。なんで大通りをまっすぐ行かずにわざわざ迂回しているの?という感じですが・・・。
三条通り上の線路が斜め北に入り込むこの地点が、あの妙な家並みに当たることが分かります。この部分だけでなく、学校敷地の南限ラインの一部や、岡崎通りあたりから始まる緩やかにカーブした道路が線路跡らしいことも分かりました。現在の地図に線路跡を落とし込むと、下の図のようになります(淡オレンジ色が線路跡)。
この路線は、大正元年(1912年)に開通した京阪京津線の前身に当たる鉄道です。京阪京津線は京都(三条大橋西詰)から滋賀県大津市を結ぶ私鉄で、おおむね旧東海道をたどっています。平成9年(1997年)に京都市営地下鉄東西線が開通してからは、京阪三条から山科までは地下鉄にとって代わられ、地上の併用軌道(路面電車状の線路)は廃線となりましたが、現在でも京阪の電車は、一部地下鉄に乗り入れる形で従来のルートを走っています。
では、あの三条通りから北へくにゃっと迂回するルートは何かというと、大正元年に開通した当初の線路です。この頃、三条通りの神宮道から蹴上手前までの部分は道幅が狭く併用軌道を通せなかったため、当時はまだ民家も少なかった北側へ迂回したのです。その後、この部分の道路拡幅も成り、昭和6年(1931年)には三条通りをまっすぐ進むルート(現在の地下鉄と同様のルート)に変更されました。つまりこの迂回ルートは、はるか昔のわずか19年足らずの命だったわけです。
そのせいか、京阪京津線旧線・廃線などと検索してみると、京阪が路面電車として三条通りを走っていた頃の話や写真はたくさん出てきますが、迂回ルートの話題はほとんど見当たりません。あまり知られていないのかな~。やっと見つけたのが、「まいまい京都」が2016年に開催した街歩きツアーのレポート。まいまい京都とはユニークな街歩きツアーを企画・実施している団体で、私も以前に一度参加したことがあります(町家に詳しい大工の棟梁と五条楽園を歩く、というツアー。また、今回の旅行でも3日目に、煉瓦に詳しい建築史専門家と琵琶湖疏水を歩く、というツアーに参加)。
航空写真やストリートビューなどを使って、バーチャルで大体のルートの現況を確認し悦に入っていた私ですが、このレポートはとても詳しい上に地元情報も盛り込まれており、大変参考になります。私も実際に歩いてみたくなりました。
というわけで、昼に福知山から京都へと移動した2日目の午後は、プチ廃線跡歩きとなりました。
まず、写真を撮った地点を地図に示しておきます。夕刻近くになり、西日が強烈だった上に、どういう角度で撮ったら分かりやすいかの吟味が足りなかったので、あまりいい写真が撮れていませんが・・・。
↓ Ⓐ:古川町商店街入り口から三条通りをはさんだ向かい側の角に、
妙な形状の駐車場がある。ここが、京津線旧線(迂回ルート)の入口。
左隣のビルの鋭角ぶりからも、駐車場の斜めさが分かる。
↓ Ⓑ:その延長線上に建つ民家。道(三条通りの1本北の道)に対し斜めに建っている。
↓ その向かい側の倉庫のような建物。ここも道に対し斜めに建っている。
↓ Ⓒ:学校敷地南側の石垣。このゆるくカーブした辺りに線路が延びていたと思われる。
↓ Ⓓ:学校南の路地を進む。左側手前の家が道からセットバックして建っているが、
この辺りから線路は道路より北側にずれながら進んでいったと思われる。
↓ Ⓔ:明らかに線路跡と思われる長細い空き地。
↓ Ⓔの空き地(左側の工事用フェンスがある所)から出た線路が、
細い水路(白川の分岐水路)を渡っていた箇所。草が茂っている辺り。
↓ Ⓕ:線路が白川を渡る地点を東岸より撮影。赤い鳥居の右側の家が線路跡。
そこから、手前のヤマブキが咲いている辺りに線路が渡っていたと思われる。
↓ Ⓕ:白川東岸に残る、橋梁の一部らしき鉄筋コンクリート工作物。
↓ Ⓖ:神宮道沿いに建つ大きなマンションの南を細い水路が東西に流れているが、
その水路の北沿いを線路が走っていたと思われる。
↓ Ⓗ:神宮道の東へ渡り、線路跡と思われる方向を空き地越しに撮影。
空き地の奥のブロック塀の向こう、小さな平屋が並んでいる辺りが線路跡。
↓ Ⓘ:家の間を流れていた細い水路が姿を表わす地点。ここで水路と線路はクロスする。
写真左のガードレールとやや張り出したコンクリート護岸がある所が線路の路盤。
↓ Ⓘ地点西側の民家。この間口が狭く奥深い家の敷地がそのまま線路跡。
↓ Ⓙ:岡崎通り(右)に面した家。この微妙な角度が線路跡であることを示している。
↓ Ⓚ:東から撮った線路跡の道。「まいまい京都」のレポートによると、
料亭「竹茂楼」があるこの辺り(写真左=南側)に操車場があったという。
↓ Ⓛ:北側の駐車場越しに線路跡方向を撮る。一番右の電柱のある所が線路跡の道。
その手前(=北沿い)に一列家が並んでいる所も線路跡。
これらの家が手前の駐車場より一段高いのは、路盤だったから。
↓ Ⓜ:ゆるくカーブする線路跡の道。この道+北沿い(左側)が線路跡と思われる。
↓ Ⓝ:ここで線路は三条通りに再び出る。手前が三条通り。
↓ その東脇には、蹴上発電所の見事な煉瓦建築(明治時代)。
この発電のおかげで、京都はいち早く電車を走らすことができた。
以上、三条通りから入り、三条通りへ出るまで、1kmほどの道のりでした。もっとも、道がつながっておらず迂回しなければならない箇所もあったため、だいぶ余分に歩きましたが・・・。しかも途中で寄り道もしたし。
余談ですが、廃線跡歩きのついでに、岡崎道沿いに移転してきた「辻徳」に立ち寄りました。取り壊しが決まった旧店舗を、去る3月30日に公開してくれたあのお店です(レポートはこちら→)。辻徳は、ステーショナリー感覚のお洒落な懐紙を企画・販売している店として知られています。買い物もしたかったし、何より一言御礼を伝えたかったので。たぶん見学者一人一人は覚えておられないとは思いますが・・・。
↓ 昭和3年(1928年)築のレトロビル「辻徳」旧店舗。2019年3月30日撮影。
築浅マンションの1階に入る新しい店舗には奥様がおられました。見学会の時はじっくりお聞きすることができなかったので、改めて少しお話を伺いました。旧店舗は、既に明け渡してはいるけれど、まだ解体されておらず、解体開始はゴールデンウィーク明けになるだろうとのこと。実は、市に文化財指定を働きかけて動いてくれていた人もいたのだそうです。しかし、市からの条件は、まず所有者が自らの費用で耐震補強すること、というものだったとか。そこでその見積もりを取ったところ、予想以上に痛んでいたこともあり、億単位の費用が必要と判明したのだそう。数百万、あるいは千万・二千万ならともかく、桁が違う数字に断念せざるを得なかったと・・・。文化財指定に動いた結果が、解体につながるとは皮肉なことです、と奥様。
う~ん、まさにわが国の文化財行政の頼りないところだなぁ。市の近代建築調査でも高く評価され、そういう分野の本にも掲載されていた建物が、持ち主丸投げで守ってもらえないなんて・・・。そういう例は枚挙にいとまないですよね。
しかし奥様は、ここも良い場所で結果的によかったなと思っているんですよ、と明るく話されます。確かに旧店舗のあった四条堀川は中心街ではありますが、観光客が歩くような場所ではありません。平安神宮や岡崎の諸文化施設にも近い新店舗は、商いをするには確かにいい場所です。観光エリアとはいえ、祇園や清水寺周辺などとは違って、程よく落ち着いた雰囲気もありますし。辻徳の繁盛を心よりお祈りしております。
京都は東山三条~岡崎エリアの街歩き、まだ続きます。