福知山③ 旧猪崎遊廓 |
福知山に遊廓があったと知り、さて、どこだろうと調べてみると、城下町のすぐ東を流れている由良川の向こう岸と分かりました。由良川は河川敷も含めるとかなりの川幅で、対岸に渡るだけでもだいぶ距離がありそう。幸い「櫻湯」の近くに「音無瀬橋」という大きな橋が架かっており、効率良く廻れそうです。
この音無瀬橋は、橋自体は明らかに現代のものなのですが、親柱のデザインがいかにも昭和初期風。先代の親柱を転用しているのかなぁ、と思いながら写真に収めていたら、西詰(城下町側)の土手下にモニュメントと説明板がありました(帰りに気付いた)。モニュメントに使われているのが本物の先代親柱で、現在の親柱はそのレプリカと判明。
↓ 音無瀬橋のモニュメント&説明板。先代の親柱を使用。
↓ 現・音無瀬橋の親柱。先代のレプリカだが、よくできている。
説明板によると、現在の橋は平成7年(1995年)竣工の6代目で、この独特の親柱を使っていた5代目は昭和7年(1932年)に架けられたものだそうです。現代の橋は実用一点張りのとかく味気ないものになりがちですが、先代のデザインを踏襲した親柱をわざわざ作るなんぞ粋な計らいですね。本物もちゃんと保存されているし。
さて、長さ500mくらいある音無瀬橋を渡ったら、左へ土手沿いに200~300m進み、由良川と並行して流れる小さな水路を小橋で渡った先が目的のエリアです。現在の住居表示だと「福知山市城山」になりますが、遊廓としては「猪崎遊廓」と呼ばれていました。現在も「福知山市猪崎」という住所はありますが、その範囲に旧・猪崎遊廓は含まれておらず、「福知山市城山」の範囲がほぼ旧遊廓になるようです(なに、この恣意的な住居表示!)。
城山というのは、この旧遊郭エリアに接するすぐ東に小山があって、かつて「猪崎城」と呼ばれる中世の城郭があったことにちなみます。
現在のこの地区は静かな住宅街という感じですが、わずか200m四方くらいのエリアに、いかにもな建物が結構たくさん残っています。普通に住宅として使われているのか、きれいな状態のものも目立ちました。旧遊廓エリアというと、細い道が入り組んだ怪しげな雰囲気というのが多いですが、ここは道幅もわりとあって整然とした印象。旧城下から川で大きく隔たった、当時としては郊外の地に計画的に造られた街だからでしょうか。
↓ 紅色の壁が色っぽい見事な遊廓建築。
↓ その玄関部分。立派な唐破風屋根と建具の細工に目を奪われる。
↓ 別の遊廓建築。玄関や張見世の窓を現代風に改造し、花のプランターを飾ったりして
「楽しいマイホーム」風になっているミスマッチが面白い。
↓ その玄関唐破風と高欄のある二階。
↓ ややチープに改装されて地味な印象の建物だが・・・
↓ 玄関の入母屋破風をよく見ると、鬼瓦などの装飾が面白い。
↓ 鬼瓦のアップ。中央にはめ込まれている白い顔は、エビスさん?
↓ 遊廓エリアの東端、城山(猪崎城跡)への登り口脇に建つ洋風建築。
↓ 上の建物を裏から見た図。看板建築なのがわかる。
↓ 廃墟と化し植物に埋もれつつある風流な和風建築。
↓ その2階部分。上段に嵌っている細かい格子のガラス窓が目を引く。
この廃墟建物の写真を撮っていたら、向かいの美容院の人に声を掛けられました。70歳代くらいの女性です。遊廓の建物に興味があって写真を撮っています、と話すと、女性は、わが意を得たりとばかり、遊廓のあった当時の思い出話を聞かせてくれました。この美容院は遊廓ありし当時から営業していて、女性の祖母が娼妓や芸妓たちの髪結いに腕を振るっていたそうです。向かいの廃墟化した建物も元妓楼で、繁盛していたとか。先ほど見た特徴的な洋風建物も妓楼で、ここは洋装の娼妓たちを揃えていたそう。
この方の話によると、妓楼の多くは地下室を持っていて、地下室には風呂場があったそうです。また、妓楼には大勢の人々が出入りするためか、いくつものトイレがあったそう。当時としては、家に浴室や複数のトイレを備える一般家庭は珍しかったこともあって、子ども心にそれがすごく羨ましかった、とのことでした。
向かいの廃墟化した妓楼を指差し、左側の玄関(上の写真に写っている戸口)は客用だけど、そのすぐ右側に並ぶ戸口(写真では植物の陰になって見えない)は家人用で、入ると台所や地下の風呂場へ行く階段がある、と説明してくれました。それを聞き、ちょっと覗いて確かめてみたい誘惑に駆られましたが、今にも崩壊しそうな状態なので近づくのは諦めました。
また、妓楼をやっている家の子のところに遊びに行くと、ガラス製の器具があって、かっこいい鼻洗浄器!と思っていたけれど、あとでそれはビデだと知った、なんていう生々しい話も。妊娠や病気を避けるため、娼妓必携の道具だったとか。風呂場完備もそういう視点からだったらしい。地元の子だったので、そうやって妓楼にも出入りしていたようですが、夕方になると(妓楼の営業が始まると)大人たちに「子どもはもう外に出るな」とたしなめられたそうです。
街には妓楼に混じって、この美容院のように商店も建ち並び活気があったとか。向かいの(廃墟妓楼の隣の)和洋菓子店も当時から営業していたとのこと。他に寿司屋やうどん屋もあったそう。もちろん料理屋も。それからダンスホールも。
↓ 元ダンスホールだったという建物。
↓ この建物は料理屋だったそう。
↓ ここは妓楼。上掲の、エビスさんの鬼瓦がある建物とは棟続きの一つの店。
奥側にも棟が続いていて、大規模な妓楼だったそう。
この角地部分の2階には、宴会もできる広い座敷があったという。
短時間ではありましたが、幸運にも大変貴重なお話を伺うことができました。まさに生き証人ですね。私は単なる旅人ですが、どなたか地元福知山で、じっくりお話を聞いて記録する作業をしてくれる人がいるといいのだけれど・・・。
↓ これも妓楼っぽい。奥行きもあるかなり大規模な建物。
建物1階側面には、すりガラスで塞いではあるが和風の丸窓もある。
↓ 旧遊廓エリアではお定まりのようによく見られる木造三階建て。
↓ 最初にあげた赤い壁&唐破風の妓楼の裏側。奥行きもある大きな建物なのが分かる。
↓ 妓楼かどうかは分からないが、趣きある和風家屋。建具の細工が小粋。
↓ こちらも同様、絵になる和風家屋。2階の建具や手摺に注目。
↓ 洋風看板建築の妓楼の奥隣(北隣)の空き家。ここは見るからに妓楼っぽい。
裏路地伝いに行くしかなく、表通りには面していない。ひょっとして洋風妓楼の続き棟?
洋風妓楼が建っている所から坂道になって、猪崎城跡へと登る遊歩道のような道となります。旧遊廓地区を見下ろせるかな、と思って登ってみました。が、木々が茂っていて見晴らしは今一つ・・・・。しかし、少し進むと、小さなお稲荷さんの社が見えてきました。
↓ 猪崎城跡の一画にある「福本稲荷大明神」
遊廓エリアにある神社には、遊廓関係者の奉納物がある可能性が高いのを思い出して、石造物の銘をよく見てみました。やはりあった!
↓ 石造狛犬の台座に「大正十年 遊廓」と彫られているのが見える。
↓ 石灯籠の竿にも「大正十年九月 遊廓中」とある。
↓ 別の石灯籠には、妓楼の店名・女性の源氏名と思われる奉納者の名が刻まれている。
旧猪崎遊廓のレポートは以上ですが、再び音無瀬橋を渡って対岸の旧城下エリアへと戻り、こちら側を散策する中で、「御霊神社」へも立ち寄りました。福知山で一番目立っている神社だったので。するとここにもありました!遊廓関係者の奉納物が・・・。引退して脇に寄せられている頭部のない石灯籠一対に、遊廓関係者と思われる複数の名前が刻まれています。
↓ 御霊神社の石灯籠の銘。「昭和三年四月 寄附者 猪崎新地」とあり、
そのあとに妓楼経営者と思われる男性名が続く。
↓ それと対をなすもう一基。こちらは女性名が並ぶ。女性経営者か?
はじめ「御霊神社」と聞いた時、京都府だし、てっきり例の早良親王や吉備真備ら八所御霊を祀る神社かと思いましたが、こちらの御祭神は明智光秀でした(ウガノミタマ=稲荷神と合祀)。そりゃ、光秀も無念の死と遂げた政治的敗者だから、“御霊”でおかしくないわけですよね。“ご当地ヒーロー”光秀を祀る神社だけに、構えも立派で街の一等地に鎮座し、福知山で最も親しまれている神社のようでした。
遊廓の話題だけでかなり長くなったので、レトロ工場については項を分けます。福知山④に続く・・・。