2019年 02月 25日
岡山の道祖神①~「別所の賽の神」とその界隈 |
先日、奉還町4丁目の「ラウンジカド」で開催された『8ミリフィルム映像鑑賞会:岡山駅西口編』に参加してきました。これは、カドが主体となって一般家庭から募集した古い8ミリフィルムを、皆で見て語り合うという活動の一環です。フィルムの多くは、家族(主に子ども)を写したホームムービーですが、背景に当時の街並みや施設が写り込んでいて、大変貴重な記録資料でもあります。今回は奉還町を中心に、岡山駅前や池田動物園などで撮った1970年台の映像が上映されました。映像に写っている本人をはじめ、当時を知る地元の方々も参加され、貴重なコメントも次々に飛び出して興味深いひとときでした。
中でも池田動物園に関しては、カド店長の成田さんが調べたり取材された「池田動物園のあゆみ」を紹介するミニ解説タイムもあり、印象的でした。池田動物園の界隈は歴史散歩的にも充実したエリアです。動物園には子どもたちが幼い頃によく行きましたが、もちろん当時はそういう目では見ていなかったので、いつか改めて見に行かねば、とずっと私の中で課題になっていました。尾針神社&磐座や岡山工業高校の軍施設遺構については、レトロ公園調べをしていた頃に(ラジオ塔のある上伊福西公園から近いので)何度も訪問し、じっくり見ることができましたが、それ以外にも見どころはまだあったはず。
今回、池田動物園の話題に触れたのをきっかけに、その周辺エリアに急に行ってみたくなりました。確か昔図書館で読んだ本によると、近くに石造道祖神があるとか。動物園前の寂しい田舎道を進むとある、と書いてあったような・・・。多分その本自体もわりと古い本だったんだと思います。今あの界隈はそう田舎ではないですから。果たして今も残っているだろうか・・・。
まず、『岡山県性信仰集成』(1964年)という本で知った「カサ神様」を目指しました。池田動物園近くの「別所」と呼ばれる地区の山麓にある神社で、付近に男女併坐の才の神(道祖神)もある、と本には書いてあり、路地の先に鳥居と石段が写っている小さな白黒写真が添えてあります。正確な住所や地図は載っていないので、地図で池田動物園近くの山麓を探してみました。すると、動物園入口広場から南へほんの一角行った所に「日之神社」という表記があるのを発見(岡山市北区京山1丁目12番地)。神社名は異なるけれど、これかもしれないと思い、向かってみることに・・・。
路地の入口に到達し、そこから山のほう(西)を眺めると、本に載っていた写真とまったく同じ鳥居と石段の光景。やったね!
↓ 路地の突き当りに見える日之神社(カサ神様)の鳥居と階段
が、その前に、逆方向(東)目の前にある、ブロック塀に囲まれた小さな一画が気になります。なんか、石造物が祀られてるような・・・。これぞ道祖神か!と色めき立ちましたが、よく見てみると、題目石と大覚大僧正の石碑(いずれも日蓮宗関係の石碑)と地神・水神の石碑があるだけでした。どう見ても道祖神ではない・・・。念のためその近辺もぐるりと見てみましたが、道祖神らしきものは見当たりません。
気を取り直して、とりあえずは日之神社へ。神社鳥居わきの民家の庭先にシニアご夫妻がおられたので、声を掛けてみました。確かにこの神社が「カサ神様」とのこと。皮膚病を治す神様で、かつては油揚げで患部をぬぐって供えるという祈願の風習があったとか。本に書いてあったこととぴったり同じ! 日之神社=カサ神様で間違いないようです。
さらに、道祖神についても聞いてみました。それらしき場所として、先ほどの題目石などが並ぶ場所と、その南2~3角先を入った所にあるスポットを紹介されました。そして、自分らは比較的新しい住人なのであまり詳しくないが、尋ねるならあの家がいい、と近所の別のお宅を薦めてくれました。
せっかく教えてくれたのですから、カサ神様は後回しにして、道祖神探しへ。題目石のスポットを念のためもう一度覗いてから(やはり無い!)、道を南へ進みます。2角目を覗いてみたけれど、それらしきものは無し。3角目(「連塾」という施設のある角)まで来て東を眺めると、あれ?それらしきものが・・・。先ほどのご夫婦の話では、以前はシイの大木が目印だったそうですが、最近切ってしまったため、切り株は残っているものの、あまり目立たないかも、ということでした。
↓ 賽の神が祀られている一画(岡山市北区京山1丁目2番地)
シイの木は切られたとはいえ、ある程度幹が残されているので、また芽吹くかも。
近づいてみると、低いブロック塀に囲まれた小さな一画があり、確かに切り株があります。その横の石クド(石を組み上げて作った祠状のもの)に道祖神が祀られているようで、石クドの天井石正面には「賽の神」と文字が彫られています(右→左の横書き)。
そして、石クドの中を覘くと、ありました!石に浅く浮彫りされた双体道祖神。坐った形の人物像が二体並んでおり、左の人物には髷があるように見えます。男女を描き分けているのかな?
↓ 石クドの中に祀られている賽の神(道祖神)
石クドの右には、やや新しめの石碑が設置されており、「賽の神/ 悪魔を防ぎ 足の病を治す 二神体は 夫婦和合を示す」と説明文が刻んであります。
道祖神とは、賽の神、どうろくじん、くなどの神などとも呼ばれる素朴な民間信仰の神様です。元々は集落の境界を守る(悪の侵入を防ぐ)神とされ、お地蔵さんのようにしばしば路傍に祀られます。男女が仲良く並ぶ姿で表現されることが多いため、夫婦和合や縁結びのご利益にも結び付けられました。また、そこから発展して、旅人の守り神、足(脚)の神、疫病除けの神、子授けの神、性神とされるパターンもよく見られるそうです。関東地方や中部地方の主に内陸部に多く存在し、なぜか西日本ではあまり見かけません(例外的に鳥取県と島根県には多いそう)。東京に住んでいた頃は、長野県辺りに旅行することが多かったので、私としてはそう珍しいものではないという認識でいました。ところが、岡山では見たことがない・・・これは貴重な一例と言えるでしょう。
日之神社へ戻る道すがら、先ほどのご夫婦に紹介された家へ。いきなりピンポンするのも少々ためらわれ、様子を見ていたら、庭に面した掃出し窓に人影が見えたので、すかさず声を掛けると、ありがたいことに、奥様がにこやかに応じてくれました。あの賽の神は、詳しい謂れは知らないけれど、ここではもっぱら足の神様として拝まれている、と言います。この地区の住民たちがお世話しており、傍らのシイの木は大きくなり過ぎたので最近思い切って切ったとのこと。
実は後日、図書館で調べてみたところ、この賽の神(「別所の賽の神」と呼ばれているそう)が載っている新聞記事スクラップと書物を見付けました。どうやら岡山ではそれなりに知られている神様らしい・・・。新聞記事は『土俗の神々』と題する山陽新聞の連載記事で、1973年に書かれたもの。書物は1998年・山陽新聞社発行の『岡山のご利益さん』という単行本。どちらも以前別件の調べもので目を通した覚えはあるのですが・・・。
それらによると、足の病や痛みに悩む人がこの賽の神を拝むと治ると言われており、わらじを供えるという風習があったとのこと。1998年の時点でも、石クドの中にわらじが多数供えられていたとレポートされています。今はさすがに一足も見当たらないけれど。
また、賽の神が祀られている位置について、地元の人による説明も紹介されています。いわく、昔は賽の神がある所が山すそで、別所集落の端だった。明治の末に津倉へ抜ける切通し道ができて町が広がったので、端ではなくなったが・・・ということです。つまり本来は道祖神として集落の端で境界を守っていたというわけですね。
山すそというイメージがちょっとつかめなかったので、昔の地図をネットで探してみました。
これ(↑)は、既に切通し道が完成している昭和初期(1936年)の地図ですが、「山」の部分が緑色になっていて分かりやすい。切通し道で分断されている緑の部分が本来はつながっていて、尾針神社に向かって伸びていたらしいことが判ります。尾針神社は現在も小高い所にあります。その南側の緑の部分(現在は「岡山県自治研修所」などがある)も少し高くなっています。以前、尾針神社について調べた時に、尾針神社の南の「栗山」という小高い地にあった「栗岡大明神」(祭神:オオゲツヒメ)を当社は合祀している、との解説を読みました。そんな場所あったっけ?と気になり、尾針神社を訪ねた際に現地を確かめつつ歩いたので、印象に残っていたのです。なるほど、昔の地図を見ると「栗山」がよく分かりますね(賽の神の東に横たわる緑色の所)。施設等を建てる際に平らにならしたでしょうから、昔はもっと高さがあったのかもしれません。
話が少し脱線しましたが、以前からのプチ疑問(栗山の件)が面白いように解けて嬉しかったので、ついくどくど書いてしまいました。
話を戻して・・・、賽の神について教えてくださったご婦人に、カサ神様(日之神社)についても聞いてみました。昔はけっこうお参りが盛んで、花柳界の女性(遊女のこと)もよく訪れていたとのこと。縁日の日には、神社に至る小道に屋台がずらりと並んで賑やかだったそうです。神社参道から東に延びる道は「別所銀座」とも呼ばれていたとか。現在はその一本北の道(池田動物園入口へ至る道)のほうが太い通りですが、上の地図を見ると、その道は描かれておらず、「別所銀座」らしき道のほうが描かれています。銀座と呼ぶほど賑やかだったかどうかはともかく、古くからの道なのでしょう。
ちなみに、カサ神様の「カサ(瘡)」とは、できものを伴う皮膚症状を意味し、皮膚病と説明されることもしばしばですが、狭義には梅毒を指します。だから、遊女たちが盛んに参拝したのです。職業病ですからね。もちろん、今ではそういうご利益を目当てに訪れる参拝者はおらず、単に別所地区の地元の神様としてお守りされているもよう。神事や管理は、近くの尾針神社が担っているそうです。
↓ カサ神様こと日之神社の石鳥居と参道階段
ご婦人に礼を言って、カサ神様こと日之神社へ向かいました。入口の石鳥居には「文政六年三月」(1823年)と建立の年月が刻まれています。参道階段を上ると、お百度石がポツンと立つささやかな平地があり、そこから石段を10段ほど上った段上に簡素な拝殿が建っています。
↓ 日之神社の拝殿。建物は簡素だが、玉垣等の石造物は意外と立派。
本殿はその後ろの斜面上にありますが、屋根にはシートが掛けられ、倒木が何本も倒れかかっているという悲惨な状況で、拝殿前にはこんな(↓)看板が立っていました。そういえば鳥居わきのお宅のご夫婦が、社殿の屋根が壊れているので近々修理する予定、と話していましたっけ。
↓ 日之神社(カサ神様)の社殿修理を告知する看板
これを見ると、当神社は尾針神社の境外末社となっていますね。初めから尾針神社に所属するお宮だったのか、独立する別箇のお宮だったけれど専任の神職がいないので有力神社に吸収されてしまったのか・・・。尾針神社に聞けば分かるでしょうね。また後日改めて聞きに行こうと思っています。
拝殿を囲む玉垣は、小規模ながらなかなか立派で古そう。建立は石鳥居と同じくらいの時代でしょうか。石鳥居の奉納者は萬町(現在の岩田町と奉還町1丁目辺り)の人々でしたが、玉垣にも、萬町をはじめ、上之町(表町のシンフォニーホール周辺)、富町、津倉など、かなり幅広い町名が見られます。
境内は決して掃除が行き届いているとは言い難いけれど、足の踏み場もないほど草ぼうぼうというわけではないので、それなりに手入れもされているのでしょう。先ほど訪ねたご婦人の話によると、昔は拝殿下の小さな広場で、地元の盆踊りも開催されていたとのこと。えっ、こんな場所で?と思いましたが、別所地区の戦前の人口は30世帯余りだったそうですから、こじんまりした盆踊りだったのかな。
↓ 拝殿下の小広場。夏は日陰になっていいかもしれない。
梅毒にご利益がある神様という、普通ならちょっと大きな声では言いにくい神様であるにもかかわらず、昔から我らがお宮として地元の人々に愛着を持たれている様子が何となく伝わってきます。ちょうど倉敷の穴場神社みたいな感じ。昔はどんな病気でも治りにくく、足の病気でも目の病気でも性病でも、同じ難儀なものとして人々はわりとフラットにとらえていたのかな、なんて想像しました。何の病気であろうとも、ご利益の評判を聞いた大勢の参拝者がわざわざ遠方から訪れ、神社が賑わうことは、地元の人にとって単純に嬉しいことだったのかもしれません。
しかし、前述の新聞記事『土俗の神々』にも単行本『岡山のごりやくさん』にも日之神社は載っていません。別所の賽の神は載せているというのに・・・。やはり、新聞という“健全な”メディアでははばかられる話題だったからでしょうか。ちなみに、専門書『岡山県性信仰集成』では「このカサ神様は岡山地方では有名なのであるから(中略)一度詣でることをお奨めする」と特に強調しています。当時はまだ油揚げの風習が見られたのかもしれませんね。
日之神社はこれくらいにして、次の目的地「津倉古墳」へ向かいました。津倉古墳はここ1~2年、岡山大学による発掘で重要な発見が相次ぎ、考古学好きの間では話題になっている遺蹟です。以前、レトロ公園調べで上伊福西公園を訪れた際、津倉町内会の方に、歴史好きなら津倉古墳にも行ってみるといいよ、としきりに勧められました。その時はそういう余裕もなかったのと、一人で不慣れな山中の古墳を探すなんて無理と思い込み、諦めましたが、今回、改めて調べてみると、そんな山奥というわけではないようです。どうやら日之神社の背後の山のてっぺんにあるらしい。この山の主に南斜面は広大な霊苑になっており、墓地伝いに行けば、わりと楽にたどり着けるらしいのです。
日之神社からは、すぐ北側の道(池田動物園わきを緩やかに登る舗装道路)を使えば、多少大回りになるにせよ確実に行けそうです。しかし、あれこれ調べていたら、日之神社裏から直接山へ入る小道があり、それで頂上まで行けるらしいことが分かりました。
拝殿の向かって右から急な山道に入ります。一瞬不安になりますが、急坂はすぐに終わり、あとは広めの緩やかな土道になります。道端のあちこちに古い墓石が並んでおり、この辺りはどうやら地元住民の古くからの墓域となっているらしい。墓参りする人もいるので道がよく整えられているのでしょう。
↓ 日之神社から登る山道。苔むした古墓と木漏れ日がいい感じ。
5~6分も歩いたところで、鉄塔のある開けた場所に出ます。ここら辺は現代的な墓地が一面に広がっていますが、鉄塔から北方向の小高い部分に向かってその墓地の間を適当に抜けていくと、頂上にたどり着きます。ここが前方後方墳の後方部です。
↓ 南側(鉄塔のほう側)から津倉古墳後方部を眺めた図。
後世の階段と頂上に立つ数基の石碑や墓石が目印。
後方部から北を眺めると、少し低くなった尾根が北に伸びているのが見えますが、これが前方部。古墳の全長は40m余りだそう。発掘現場は埋め戻されているようなので、石室等の具体的な遺物を見ることはできませんが、修復整備されているわけでもないのに、いかにも古墳らしい形が外から眺めて分かるというのは、それだけでスゴイ。こんな市街地の真っただ中に、保存状態のいい古墳が現存するとは! 岡山ってつくづく古墳の宝庫だなぁと感じます。
↓ 津倉古墳後方部から前方部を眺めた図
↓ 津倉古墳前方部から後方部を眺めた図
あれこれ寄り道して話が長くなったので、この辺で一旦区切ります。あと2ヶ所、徒歩圏内に道祖神があります。後半はそのレポートです。
↓ 山頂の南西に拡がる現代の墓地から津倉古墳のある方角を望む。
鉄塔の左の少し高い所が古墳の後方部。
中でも池田動物園に関しては、カド店長の成田さんが調べたり取材された「池田動物園のあゆみ」を紹介するミニ解説タイムもあり、印象的でした。池田動物園の界隈は歴史散歩的にも充実したエリアです。動物園には子どもたちが幼い頃によく行きましたが、もちろん当時はそういう目では見ていなかったので、いつか改めて見に行かねば、とずっと私の中で課題になっていました。尾針神社&磐座や岡山工業高校の軍施設遺構については、レトロ公園調べをしていた頃に(ラジオ塔のある上伊福西公園から近いので)何度も訪問し、じっくり見ることができましたが、それ以外にも見どころはまだあったはず。
今回、池田動物園の話題に触れたのをきっかけに、その周辺エリアに急に行ってみたくなりました。確か昔図書館で読んだ本によると、近くに石造道祖神があるとか。動物園前の寂しい田舎道を進むとある、と書いてあったような・・・。多分その本自体もわりと古い本だったんだと思います。今あの界隈はそう田舎ではないですから。果たして今も残っているだろうか・・・。
まず、『岡山県性信仰集成』(1964年)という本で知った「カサ神様」を目指しました。池田動物園近くの「別所」と呼ばれる地区の山麓にある神社で、付近に男女併坐の才の神(道祖神)もある、と本には書いてあり、路地の先に鳥居と石段が写っている小さな白黒写真が添えてあります。正確な住所や地図は載っていないので、地図で池田動物園近くの山麓を探してみました。すると、動物園入口広場から南へほんの一角行った所に「日之神社」という表記があるのを発見(岡山市北区京山1丁目12番地)。神社名は異なるけれど、これかもしれないと思い、向かってみることに・・・。
路地の入口に到達し、そこから山のほう(西)を眺めると、本に載っていた写真とまったく同じ鳥居と石段の光景。やったね!
↓ 路地の突き当りに見える日之神社(カサ神様)の鳥居と階段

が、その前に、逆方向(東)目の前にある、ブロック塀に囲まれた小さな一画が気になります。なんか、石造物が祀られてるような・・・。これぞ道祖神か!と色めき立ちましたが、よく見てみると、題目石と大覚大僧正の石碑(いずれも日蓮宗関係の石碑)と地神・水神の石碑があるだけでした。どう見ても道祖神ではない・・・。念のためその近辺もぐるりと見てみましたが、道祖神らしきものは見当たりません。
気を取り直して、とりあえずは日之神社へ。神社鳥居わきの民家の庭先にシニアご夫妻がおられたので、声を掛けてみました。確かにこの神社が「カサ神様」とのこと。皮膚病を治す神様で、かつては油揚げで患部をぬぐって供えるという祈願の風習があったとか。本に書いてあったこととぴったり同じ! 日之神社=カサ神様で間違いないようです。
さらに、道祖神についても聞いてみました。それらしき場所として、先ほどの題目石などが並ぶ場所と、その南2~3角先を入った所にあるスポットを紹介されました。そして、自分らは比較的新しい住人なのであまり詳しくないが、尋ねるならあの家がいい、と近所の別のお宅を薦めてくれました。
せっかく教えてくれたのですから、カサ神様は後回しにして、道祖神探しへ。題目石のスポットを念のためもう一度覗いてから(やはり無い!)、道を南へ進みます。2角目を覗いてみたけれど、それらしきものは無し。3角目(「連塾」という施設のある角)まで来て東を眺めると、あれ?それらしきものが・・・。先ほどのご夫婦の話では、以前はシイの大木が目印だったそうですが、最近切ってしまったため、切り株は残っているものの、あまり目立たないかも、ということでした。
↓ 賽の神が祀られている一画(岡山市北区京山1丁目2番地)
シイの木は切られたとはいえ、ある程度幹が残されているので、また芽吹くかも。

近づいてみると、低いブロック塀に囲まれた小さな一画があり、確かに切り株があります。その横の石クド(石を組み上げて作った祠状のもの)に道祖神が祀られているようで、石クドの天井石正面には「賽の神」と文字が彫られています(右→左の横書き)。

そして、石クドの中を覘くと、ありました!石に浅く浮彫りされた双体道祖神。坐った形の人物像が二体並んでおり、左の人物には髷があるように見えます。男女を描き分けているのかな?
↓ 石クドの中に祀られている賽の神(道祖神)

石クドの右には、やや新しめの石碑が設置されており、「賽の神/ 悪魔を防ぎ 足の病を治す 二神体は 夫婦和合を示す」と説明文が刻んであります。
道祖神とは、賽の神、どうろくじん、くなどの神などとも呼ばれる素朴な民間信仰の神様です。元々は集落の境界を守る(悪の侵入を防ぐ)神とされ、お地蔵さんのようにしばしば路傍に祀られます。男女が仲良く並ぶ姿で表現されることが多いため、夫婦和合や縁結びのご利益にも結び付けられました。また、そこから発展して、旅人の守り神、足(脚)の神、疫病除けの神、子授けの神、性神とされるパターンもよく見られるそうです。関東地方や中部地方の主に内陸部に多く存在し、なぜか西日本ではあまり見かけません(例外的に鳥取県と島根県には多いそう)。東京に住んでいた頃は、長野県辺りに旅行することが多かったので、私としてはそう珍しいものではないという認識でいました。ところが、岡山では見たことがない・・・これは貴重な一例と言えるでしょう。
日之神社へ戻る道すがら、先ほどのご夫婦に紹介された家へ。いきなりピンポンするのも少々ためらわれ、様子を見ていたら、庭に面した掃出し窓に人影が見えたので、すかさず声を掛けると、ありがたいことに、奥様がにこやかに応じてくれました。あの賽の神は、詳しい謂れは知らないけれど、ここではもっぱら足の神様として拝まれている、と言います。この地区の住民たちがお世話しており、傍らのシイの木は大きくなり過ぎたので最近思い切って切ったとのこと。
実は後日、図書館で調べてみたところ、この賽の神(「別所の賽の神」と呼ばれているそう)が載っている新聞記事スクラップと書物を見付けました。どうやら岡山ではそれなりに知られている神様らしい・・・。新聞記事は『土俗の神々』と題する山陽新聞の連載記事で、1973年に書かれたもの。書物は1998年・山陽新聞社発行の『岡山のご利益さん』という単行本。どちらも以前別件の調べもので目を通した覚えはあるのですが・・・。
それらによると、足の病や痛みに悩む人がこの賽の神を拝むと治ると言われており、わらじを供えるという風習があったとのこと。1998年の時点でも、石クドの中にわらじが多数供えられていたとレポートされています。今はさすがに一足も見当たらないけれど。
また、賽の神が祀られている位置について、地元の人による説明も紹介されています。いわく、昔は賽の神がある所が山すそで、別所集落の端だった。明治の末に津倉へ抜ける切通し道ができて町が広がったので、端ではなくなったが・・・ということです。つまり本来は道祖神として集落の端で境界を守っていたというわけですね。
山すそというイメージがちょっとつかめなかったので、昔の地図をネットで探してみました。

これ(↑)は、既に切通し道が完成している昭和初期(1936年)の地図ですが、「山」の部分が緑色になっていて分かりやすい。切通し道で分断されている緑の部分が本来はつながっていて、尾針神社に向かって伸びていたらしいことが判ります。尾針神社は現在も小高い所にあります。その南側の緑の部分(現在は「岡山県自治研修所」などがある)も少し高くなっています。以前、尾針神社について調べた時に、尾針神社の南の「栗山」という小高い地にあった「栗岡大明神」(祭神:オオゲツヒメ)を当社は合祀している、との解説を読みました。そんな場所あったっけ?と気になり、尾針神社を訪ねた際に現地を確かめつつ歩いたので、印象に残っていたのです。なるほど、昔の地図を見ると「栗山」がよく分かりますね(賽の神の東に横たわる緑色の所)。施設等を建てる際に平らにならしたでしょうから、昔はもっと高さがあったのかもしれません。
話が少し脱線しましたが、以前からのプチ疑問(栗山の件)が面白いように解けて嬉しかったので、ついくどくど書いてしまいました。
話を戻して・・・、賽の神について教えてくださったご婦人に、カサ神様(日之神社)についても聞いてみました。昔はけっこうお参りが盛んで、花柳界の女性(遊女のこと)もよく訪れていたとのこと。縁日の日には、神社に至る小道に屋台がずらりと並んで賑やかだったそうです。神社参道から東に延びる道は「別所銀座」とも呼ばれていたとか。現在はその一本北の道(池田動物園入口へ至る道)のほうが太い通りですが、上の地図を見ると、その道は描かれておらず、「別所銀座」らしき道のほうが描かれています。銀座と呼ぶほど賑やかだったかどうかはともかく、古くからの道なのでしょう。
ちなみに、カサ神様の「カサ(瘡)」とは、できものを伴う皮膚症状を意味し、皮膚病と説明されることもしばしばですが、狭義には梅毒を指します。だから、遊女たちが盛んに参拝したのです。職業病ですからね。もちろん、今ではそういうご利益を目当てに訪れる参拝者はおらず、単に別所地区の地元の神様としてお守りされているもよう。神事や管理は、近くの尾針神社が担っているそうです。
↓ カサ神様こと日之神社の石鳥居と参道階段

ご婦人に礼を言って、カサ神様こと日之神社へ向かいました。入口の石鳥居には「文政六年三月」(1823年)と建立の年月が刻まれています。参道階段を上ると、お百度石がポツンと立つささやかな平地があり、そこから石段を10段ほど上った段上に簡素な拝殿が建っています。
↓ 日之神社の拝殿。建物は簡素だが、玉垣等の石造物は意外と立派。

本殿はその後ろの斜面上にありますが、屋根にはシートが掛けられ、倒木が何本も倒れかかっているという悲惨な状況で、拝殿前にはこんな(↓)看板が立っていました。そういえば鳥居わきのお宅のご夫婦が、社殿の屋根が壊れているので近々修理する予定、と話していましたっけ。
↓ 日之神社(カサ神様)の社殿修理を告知する看板

これを見ると、当神社は尾針神社の境外末社となっていますね。初めから尾針神社に所属するお宮だったのか、独立する別箇のお宮だったけれど専任の神職がいないので有力神社に吸収されてしまったのか・・・。尾針神社に聞けば分かるでしょうね。また後日改めて聞きに行こうと思っています。
拝殿を囲む玉垣は、小規模ながらなかなか立派で古そう。建立は石鳥居と同じくらいの時代でしょうか。石鳥居の奉納者は萬町(現在の岩田町と奉還町1丁目辺り)の人々でしたが、玉垣にも、萬町をはじめ、上之町(表町のシンフォニーホール周辺)、富町、津倉など、かなり幅広い町名が見られます。
境内は決して掃除が行き届いているとは言い難いけれど、足の踏み場もないほど草ぼうぼうというわけではないので、それなりに手入れもされているのでしょう。先ほど訪ねたご婦人の話によると、昔は拝殿下の小さな広場で、地元の盆踊りも開催されていたとのこと。えっ、こんな場所で?と思いましたが、別所地区の戦前の人口は30世帯余りだったそうですから、こじんまりした盆踊りだったのかな。
↓ 拝殿下の小広場。夏は日陰になっていいかもしれない。

梅毒にご利益がある神様という、普通ならちょっと大きな声では言いにくい神様であるにもかかわらず、昔から我らがお宮として地元の人々に愛着を持たれている様子が何となく伝わってきます。ちょうど倉敷の穴場神社みたいな感じ。昔はどんな病気でも治りにくく、足の病気でも目の病気でも性病でも、同じ難儀なものとして人々はわりとフラットにとらえていたのかな、なんて想像しました。何の病気であろうとも、ご利益の評判を聞いた大勢の参拝者がわざわざ遠方から訪れ、神社が賑わうことは、地元の人にとって単純に嬉しいことだったのかもしれません。
しかし、前述の新聞記事『土俗の神々』にも単行本『岡山のごりやくさん』にも日之神社は載っていません。別所の賽の神は載せているというのに・・・。やはり、新聞という“健全な”メディアでははばかられる話題だったからでしょうか。ちなみに、専門書『岡山県性信仰集成』では「このカサ神様は岡山地方では有名なのであるから(中略)一度詣でることをお奨めする」と特に強調しています。当時はまだ油揚げの風習が見られたのかもしれませんね。
日之神社はこれくらいにして、次の目的地「津倉古墳」へ向かいました。津倉古墳はここ1~2年、岡山大学による発掘で重要な発見が相次ぎ、考古学好きの間では話題になっている遺蹟です。以前、レトロ公園調べで上伊福西公園を訪れた際、津倉町内会の方に、歴史好きなら津倉古墳にも行ってみるといいよ、としきりに勧められました。その時はそういう余裕もなかったのと、一人で不慣れな山中の古墳を探すなんて無理と思い込み、諦めましたが、今回、改めて調べてみると、そんな山奥というわけではないようです。どうやら日之神社の背後の山のてっぺんにあるらしい。この山の主に南斜面は広大な霊苑になっており、墓地伝いに行けば、わりと楽にたどり着けるらしいのです。
日之神社からは、すぐ北側の道(池田動物園わきを緩やかに登る舗装道路)を使えば、多少大回りになるにせよ確実に行けそうです。しかし、あれこれ調べていたら、日之神社裏から直接山へ入る小道があり、それで頂上まで行けるらしいことが分かりました。
拝殿の向かって右から急な山道に入ります。一瞬不安になりますが、急坂はすぐに終わり、あとは広めの緩やかな土道になります。道端のあちこちに古い墓石が並んでおり、この辺りはどうやら地元住民の古くからの墓域となっているらしい。墓参りする人もいるので道がよく整えられているのでしょう。
↓ 日之神社から登る山道。苔むした古墓と木漏れ日がいい感じ。

5~6分も歩いたところで、鉄塔のある開けた場所に出ます。ここら辺は現代的な墓地が一面に広がっていますが、鉄塔から北方向の小高い部分に向かってその墓地の間を適当に抜けていくと、頂上にたどり着きます。ここが前方後方墳の後方部です。
↓ 南側(鉄塔のほう側)から津倉古墳後方部を眺めた図。
後世の階段と頂上に立つ数基の石碑や墓石が目印。

後方部から北を眺めると、少し低くなった尾根が北に伸びているのが見えますが、これが前方部。古墳の全長は40m余りだそう。発掘現場は埋め戻されているようなので、石室等の具体的な遺物を見ることはできませんが、修復整備されているわけでもないのに、いかにも古墳らしい形が外から眺めて分かるというのは、それだけでスゴイ。こんな市街地の真っただ中に、保存状態のいい古墳が現存するとは! 岡山ってつくづく古墳の宝庫だなぁと感じます。
↓ 津倉古墳後方部から前方部を眺めた図


あれこれ寄り道して話が長くなったので、この辺で一旦区切ります。あと2ヶ所、徒歩圏内に道祖神があります。後半はそのレポートです。
↓ 山頂の南西に拡がる現代の墓地から津倉古墳のある方角を望む。
鉄塔の左の少し高い所が古墳の後方部。

by machiarukinote
| 2019-02-25 15:38
| 街歩きレポート
|
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