東京レトロ公園② 大塚公園 |
次の目的地「大塚公園」(文京区大塚4丁目)は同じ文京区内ですが、少々離れているので地下鉄で移動しました。丸の内線・新大塚駅からはあっという間。
ここも歴史ある公園としてレトロ好きの間ではわりと知られているようです。そして何より『ラヂオ塔大百科』の一幡公平さんによると、限りなくラジオ塔と思われるモノが園内に現存しているのだとか。せっかく文京区に来てここを外す手はないでしょう!
事前に少し調べたところでは、開園は昭和3年(1928年)。関東大震災後、東京都(当時は東京市)がこの一帯に病院や婦人授産場などの公共福祉施設を総合的に整備する際、窪地&崖地で使いにくい部分を公園として整備したのがこの大塚公園ということです。当時としては画期的な本格的欧米流造園法を取り入れた公園だったのだとか。昭和63年~平成3年(1988~1991年)に大規模な改修が行われているというのが気になりますが、一応特徴的な古いデザインはそれなりに残されている模様。
さて、地下鉄出口からほんの少し歩き、公園北口から入ります。すぐに現代的な噴水施設が目に入り、少々不安な気持ちに。が、その向こうにはレトロな雰囲気のパーゴラ風の東屋(休憩所)がありました。公園中央を占める広場(グラウンド)に面して、一段高くなった部分に建っています。ちょうど京都で見た船岡山公園みたいな感じ。だた東屋の材質が全体的にきれいで新しめに見えるので、大幅に改修されているものかもしれません。
↓ 大塚公園の東屋
このドーム部分の材質は明らかに人造石研ぎ出しに見えるので、オリジナルでしょうか。手摺や土台を細かく見ていくと、石材と人研ぎが入り混じっているようですが、こういう場合、石材は新しく補った部分ということが多いように常々感じています。ということは、だいぶ改修の手が入っているかな?
船岡山公園では、東屋から見て広場を挟んだ真向かいにテラスや壁泉がありました。一方、ここ大塚公園では地形の関係上、東屋から見て広場の右(西)方向にテラスやカスケードがあります。そのテラスはこんな感じ(↓)。
↓ 大塚公園の大テラス。せり上がった後方にカスケードと上段テラスもちらりと見える。
かなり大規模なものですが、そのわりにはどことなく殺風景な感じ。どうもかなり改修されているようです。特に下段前面の部分が。煉瓦の壁面の真ん中に石材がアーチ形に組まれていますが、煉瓦も石も改修時にあとから貼りつけたものらしく、元々はアーチ形の部分が壁龕(ニッチ)状にえぐれていて、そこにライオンの顔の吐水口が設置されていたとのこと。恐らくその下前方には浅い池のような水盤があったものと思われます。いわゆる「壁泉」というやつですね。広場に張り出した水盤が邪魔なので撤去してしまったのでしょうか。
参考までに船岡山公園の壁泉の写真を挙げておきます。ラジオ塔が置かれているテラス下の壁面を利用して造られた泉水です(写真の上方中央に黒っぽく写っているのがラジオ塔)。水も涸れかなりボロくなってはいるものの、旧状を良く残しているのではないかと思われます。泉水の両脇にある階段からテラス上に上がれるようになっている造りは大塚公園と似ています。
↓ 船岡山公園(京都市):テラス下に設置されている壁泉
船岡山公園の壁泉下部に使われているのは煉瓦ではなく、スクラッチタイルのようです。大塚公園内には、明らかに新設したと思われる新しそうな煉瓦の装飾柱がいくつかありましたが(最上段テラスの両脇あたり)、レトロ=煉瓦みたいな発想があったのか、改修時にやたら煉瓦を使っているようです。違和感の源はこれかな。明治時代ならともかく、昭和初期にはコンクリート&人研ぎやスクラッチタイルのほうが主流だったと思います。先ほど見てきた元町公園も、コンクリ&人研ぎ尽くしでしたよね。煉瓦は無かったと思う。
老朽化を心配して改修してくれるのはありがたいのですが、どうしてオリジナルを尊重してくれないのでしょうか。コンクリート&人研ぎで複雑な形を造るのは技術的にかなり難しく手間がかかるからかな。そのわりには、コンクリートむき出し感は現代人にはあまり好まれないらしいし。石造りや煉瓦造りのほうが高級感あると感じる人が多いのかも。コンクリ&人研ぎ萌えの私としては、コンクリ人気をもっと世間に広めたい!
話が脱線しましたが、大塚公園に戻ります。大テラスの上には、上に挙げた写真にも写っているように、中央にこのような(↓)カスケード(階段状の人工滝)があります。最上部にはライオンの顔の吐水口も残されています。人研ぎ仕上げの素材感から言って、ここは丸ごとオリジナルのようです。ただし各段には土が入れられて花壇のようになっており、もはや水は流せませんが。
↓ 大塚公園のカスケード(階段状の人工滝)
オリジナルとはいえ、元町公園にあった同様の物と比べると、デザインがちょっと単調かもな~、などと若干残念に思いながらさらに上の段に上ったところ、その残念気分を吹き飛ばすすごいモノが待ち構えていました。ステージ状の建造物です。これもテラスと呼ぶのかな?
↓ 大塚公園 最上段のテラス
背後のスパニッシュな壁がやけに新ピカなのが気になりますが、当初からこのようなデザインだったとのこと。改修したにせよ、ここはオリジナルに忠実に仕上がっているようです。人研ぎ仕上げの手摺や壺型の装飾、前面の半円形花壇などもオリジナルそのままだと思われます。見るとすぐ脇に解説板が立っており、この露壇(テラス)は昭和3年に造られたもので、老朽化が進んだため平成元年に開園当時の形に復元した旨が説明されていました。多分この公園でもっとも自信のある部分なのでしょうね。
実は帰宅後ネットでいろいろ情報を集めている時に、次のようなブログに行き当たりました(→「Clocks & Clouds」大塚公園1~5)。筆者は東京在住の方らしくご自身の過去の記憶と改修前に撮った貴重な写真、図書館等で見付けた資料などを駆使して大塚公園の歴史や変遷を詳しく綴っておられます。改修前がどのような姿であったかは、このブログを参考にさせてもらって書いております。ただ残念なことに、ブログにアップされているはずの画像がなぜか私のパソコンでは見られません。なので文章のみから判断しています。
↓ 最上段のテラスの親柱上に載っている壺型の装飾。
これ(↑)、いいですね~。しっかり人研ぎ仕上げです。手が込んでいるな。前掲ブログによると、元々はこれと同じものが、下段大テラスの手摺(親柱?)上にも載っていたそうです。上の空間と下の空間との連続性が感じられて良かったのに、改修でそれが失われてしまった、と筆者は嘆いておられます。
これらの情報から判断すると、下段テラスの手摺全体も新しいものの可能性大ですね。同じ壺型の装飾が載っていたのなら、手摺自体も上下のテラスとも同じデザインだったと考えたほうが自然でしょう。赤白煉瓦の親柱、石製の笠木(上部横材)、シンプルな円柱の手摺子(親柱の間に並ぶ小さめの支柱)という現状の造りは、先ほど見た東屋の手摺とほとんど同じですが、これらはすべて改修時の新しいものかもしれません。
公園のレトロ建造物にすっかり心を奪われてしまいましたが、目指すラジオ塔もどきも探さねば・・・。最上段テラスから左(南)へ進んでいった所にそれはありました。
↓ 大塚公園に建つ謎の塔。ラジオ塔か? 高さ1.8mくらい。
一幡さんの本で見た通りの姿です。確かに限りなくラジオ塔っぽい。前面のやや下のほうに開口部があるところも。そこを覗いてみると、こんな感じでした(↓)。
↓ 謎の塔の腹の部分にある穴の中。奥に木製の板、下に電気の端子っぽいもの。
四隅の痕跡は、一幡さんの本に掲載されている写真のほうが分かりやすいです。
元々は上部に、灯篭の火袋に当たるスピーカーを納める部分があったのが、破壊され失われてこのような姿になった、と推理したくなります。開口部の構造や残存物からいって、電気仕掛けだったのも明らか。しかもこの公園、ラジオ体操発祥の地として猛アピールしているのですよ。ラジオ体操の盛んな公園だったのなら、ラジオ塔があったっておかしくないですよね。
↓ ラジオ体操発想の地を謳う立て看板と銅像。
銅像のプレートをよく読むと、文京区でのラジオ体操発祥の地という意味のよう。
ところが、前述のブログの中に、この塔に触れた部分がありました(→大塚公園4)。それによると、この塔は元々北側にある噴水(現在の噴水とは全く違うものだが位置は同じらしい)のそばに立っていたそうで、電灯が点るようになっていたと思う、とのこと。この方は「灯篭」と呼んでいます。そして、出版物から探し出した「灯篭」が写り込んだ古写真と、改修前の1983年にご本人が撮影した写真も載せているようなのですが、画像が出ない(涙)! そして現状の写真(これも見られないのですが)には、上部を壊されてしまい、何だか墓標のようで気の毒・・・とコメントを添えておられます。貴重な証言です。
ラジオ塔ではなく、電灯の灯篭なのでしょうか。でも、「電灯が点るようになっていたと思う」とやや自信なさげな表現なので、思い違いということもあり得ます。ラジオ塔という存在を知らない人だったなら、なおさら・・・。私が桑田公園のラジオ塔のことを地元の方々に尋ねた時も、音なんか出ていなかった、ただの灯篭だ、とはじめは皆さん言い張っておられましたから。このブログによると、大塚公園の塔は1983年頃にはまだ本来の場所にあって、上部も健在だったようですね。地元の人に聞けば昔の様子もいろいろ分かるかもしれない。
さて、謎の塔以外にも、まだ他にいろいろ興味深いものがありました。
まずは、レトロ公園には付き物のコンクリート製の滑り台。斜面に直接造り付けた滑り台です。そう新しくはないようですが、開園当初からのものでしょうか。
↓ 斜面を利用したコンクリート滑り台。
南入口に立つ門柱も気になるアイテムです。左側(西側)のコンクリ球が載っているやつ。こういう球体を頭に載せるのって、この時代の流行りですよね。ここの門柱、左右のデザインが全く異なっているのも気になるんですけど。右側の門柱はもっと幅広で上に何も載せていません。もしかして、改修する時に道幅(入口の幅)を広げる都合か何かで右側だけ造り直した? いろいろ気になります。
↓ 大塚公園 南入口の門柱。こちら側だけ球が載っているデザイン。
春日通りに面した西入口も凝っています。大通り沿いなのでこちらが正面入口なのかもしれません(そのわりに、ここから出入りする人はあまりいなかった)。半円形の小広場の真ん中あたりに女性のブロンズ像が立ち、それを取り囲むように、回廊のように半円形状のパーゴラが配置されています。ツートンカラーの人研ぎ仕上げが施された造り付けベンチや円柱が目を引きます。このパーゴラ周辺はオリジナルなのでは。公園の中からは死角になって直接見えにくい、見落とされがちな部分ですが、すごく気に入りました。
↓ 大塚公園西入口。引いた写真が撮れなかったため
グーグルマップストリートビューより転載。
また、園内の一画には、赤鳥居を備えた稲荷や複数の石仏も。公共施設である公園内に宗教がらみのものを置くのは本来ならNGなはずなのですが、古い公園には時々こういうのが見られます。昔はゆるかったのかなぁ。園内に堂々と祠等があるのを見ると、たとえ公園自体はリニューアルされていたとしても、古い公園なんだろうなぁ、なんてつい思ってしまいます。例えば岡山市だったら、桑田公園とか下田町公園とか国富東公園とか。公園に祠ってなんかほほえましくて好きです。
ちなみに、大塚公園にある稲荷は「住好稲荷社」といって、現地説明板によると、江戸時代、この地にあった松平家下屋敷の邸内社に由来するものだそう。
↓ 大塚公園内にある住好稲荷社。小さいながら構えはいっぱしの神社。
また、別の一画にある石仏群は、元は別の場所に祀られていたのが戦災に遭ったため、戦後公園内に移設されたものだそうです。一番大型のものは「大塚子育地蔵尊」なる地蔵坐像、残りの4体は庚申塔、その他残欠のようなものが多数。
↓ 大塚公園内に置かれている石仏群。今も信仰の対象らしく、赤い幟が立っている。
大塚公園は、大きく改修されて多少残念な部分はあるものの、それでも細かく見ていくと昔っぽさが色々見つかって楽しめました。ラジオ塔の謎は依然残りますが・・・。