また京都 ⑤西陣北エリア |
船岡山南側の鞍馬口通りは昨年・一昨年と三度目の訪問ですが、一段とお洒落な店が増えた感じ。欧米人観光客の姿も目立ちます。いまや京都のトレンディエリアなのかな。といっても、祇園周辺や嵐山のような大混雑には程遠いので、まだ落ち着いた印象です。入り組んだ路地裏にも隠れ家のような専門店があったりして、面白いです。
さて、そんなエリアを通り抜けてさらに南に進み、「櫟谷七野(いちいだにななの)神社」(上京区社横町)に到着。今は地味な無人のローカル神社といった佇まいですが、ここには平安時代~鎌倉時代初期に、上下両賀茂神社に奉仕する未婚の皇女「斎王」が暮らした住まい「斎院」があったことで知られています。往時は150m四方ほどの広さを持つ大邸宅だったとか。斎王は日常的にはここで清浄な生活を送って、祭祀に備えたのだそう。中でも有名な賀茂祭(現在の葵祭)では行列の主役を務めるなど、重要な役割を演じました。斎王には才媛も多く、選子内親王や式子内親王など名歌人として鳴らした女性もおり、斎院は華やかな文芸サロンのイメージも帯びています。
ところで、浮気封じ・復縁祈願の発祥エピソードに使われている宇多天皇夫妻ですが、ちょっと不思議に思って調べてみたら、宇多天皇には皇后(中宮)に当たるきさきは存在しないのですよ。一応実質的に正妻扱いのきさきは女御の藤原胤子と藤原温子ですが、胤子はいわば糟糠の妻で、後に醍醐天皇となった敦仁親王をはじめ多くの子を産んで最期まで仲睦まじかったようなので、この人じゃなさそう。温子は関白・藤原基経の娘でいわば政略結婚。宇多天皇と関白・基経の関係はギクシャクしていたので、温子は形だけのきさきに近く、子供も皇女が一人いただけです。するとこの人のことかな。胤子はわりと若死にしたので、温子は敦仁親王の母代りとなり、醍醐天皇即位後は皇太夫人の称号を贈られて宮廷で敬われたそう。やっぱり、終わり良ければ・・・ということで、エピソードの〝正妻”はこの人っぽい。夫の愛を取り戻せたかは微妙だけど。
宇多天皇は艶福家できさきも多かったので、確かにやきもきする正妻というイメージは湧いてきやすそう。宇多天皇は面白エピソード満載で興味深い人物です。日記にペットの黒猫への首ったけぶりを綴ったり、政治的苦悩が原因の若年性EDを赤裸々告白したり、陽成上皇に「今の帝はかつて私の臣下だった者ではないか」と厭味を言われたり、源融の幽霊に愛妃を奪われそうになった説話が伝えられていたり・・・。学者・菅原道真を政界ブレーンに登用したのもこの天皇です。道真の突然の大宰府左遷に驚いて内裏に駆け付けたけれど、規則を盾に締め出され(この時宇多は退位・出家して法皇だった)一晩中寒空のもと待たされた(が、結局入れなかった)なんていうエピソードもあります。大変優秀でやり手な天皇だった反面、人間臭さも伝わっていて面白い。
少々話が脱線しましたが、まあ、あれこれと平安の昔に思いを馳せながら、神社を後にしました。次に向かうのは雨宝院ですが、その手前でこんなレトロ建築を発見。ちょうどこの建物の主らしい人が車で帰ってきたところだったので、聞いてみると、ここは西陣織の織物会社だったそうで、大正時代末期の建物とのこと。京都にはこんな建物が普通にあちこちにあってテンションあがります。
さて、「雨宝院」(上京区聖天町)ですが、ここは聖天さんこと歓喜天を祀る珍しいお寺で、「西陣聖天」という通称で知られています。花のお寺としても有名で、桜の季節(少し過ぎかけているけど)のせいか、こじんまりとした境内は意外にも来訪者でかなりの賑わいでした。観光的に超有名というほどのお寺ではないと思うのですが、さすが京都だけあって、こういう情報は知れ渡っているのですね。みんな懸命に花にカメラを向けていました。桜やしだれ桜はかなり散ってしまっていて、八重桜はやや盛りを過ぎ、御衣黄という黄緑色の桜がズバリ見頃でした。
雨宝院の近くの街角には、「岩神さん」というのが祀られています(上京区大黒町)。岩上神社とも呼ばれていますが、神社というほどでもない祠です。祀られているのは人の背丈ほどの大きな岩。巨石信仰ですね。言い伝えによると、元々は現在の二条城付近にあったとか。江戸時代の初めに貴人の庭でたびたび怪異を起こして持て余され、遺棄されたのを僧侶が貰い受けて現在地に祀ったといいます。当時は岩神寺という寺の形をとっていましたが、それも衰退して明治維新頃に廃寺に。その後紆余曲折を経て、現在のような状態になりました。街角と書きましたが、私有地(西陣織関係の会社の所有地)で、その会社が管理しています。この地域の守り神みたいな存在だそう。
さて、そのあと、昨日「松永稲荷神社」で出会った男性から勧められた「京都市考古資料館」へ行こうと、南東を目指しました。適当に歩いていたら、きれいに整備された広めの公園に遭遇。レトロ公園でもないし、通り過ぎようとした時に公園名が目に留まりました。「桜井公園」 桜井?どこかで聞いたような。奥に深い形の公園には、手前に池、そこから奥に向かって人工の小川が延びているようです。公園名の「井」が気になって、その水路をたどってみました。すると案の定、公園の最奥部に石の井桁が鎮座し、そこからコンコンと清水が湧いているではありませんか。井桁は新しそうだし、特に説明板も見当たらないので、これは何か謂れのある井戸のレプリカかもしれない、と推察しました。公園名の「桜井」がそれかな?
公園の隣に首途八幡宮が確かにありました。それなりに知られている神社だけど、意外に小さいんだなぁ、と印象に残ったので。時間がなかったので境内には入りませんでしたが・・・。なお、桜井公園は平成13年(2001年)に完成した公園だそうです。井戸から流しているのはポンプアップした地下水でしょうか。井桁の真ん中から細かい気泡と共にプクプク湧きあがる様子は、本当の湧水のようでとてもきれいでした。
ちょっと寄り道しましたが、ようやく「京都市考古資料館」(上京区元伊佐町)へ。ここは建物外観もカッコいい。この建物は、モダニズム建築の先駆者・本野精吾の設計により大正3年(1914年)に「西陣織物館」として建てられたもの。これ自体が貴重な近代建築です。西陣織の製品を展示・陳列する西陣織物同業組合の施設でしたが、後に京都市に寄贈され、昭和54年(1978年)に京都市埋蔵文化財研究所による「京都市考古資料館」として再オープンしました。
余談ですが、これらのマップによると、今回私が泊まったゲストハウスは、聚楽第本丸に位置すると同時に、平安京内裏の内教坊(舞姫に音楽や舞踊を教習させた所)に当たるらしい。幼き日の紀貫之「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」ちゃんがいた所かもしれない・・・と思うと萌えますなぁ。(←漫画『うた恋。』、小説『逢坂の六人』を読んだ人なら分かる!)