SUTOKU怨霊伝説 |
ところが、イベントが終わってから何気なく佐和さんのツイッターを覘いてみたら、「リバーシブル崇徳天皇チャーム」なるものが紹介されているではありませんか。妖怪とはちょっとジャンル違いだけど、母のおすすめ、だそう。・・・な、なんと、崇徳天皇とは! 写真を見て、もう一目ぼれ。さっそく斑猫軒店主・渡邉さんに連絡したところ、まだ売れていないとのことだったので購入予約し、今年3月の『小さな春の本めぐり』でめでたく受け取れたという次第です。
これが現物です。表は通常の天皇としての肖像。調べてみると、原画は「天子摂関御影」という鎌倉時代頃の肖像画集からのもの。
佐和さん母には、『ナンジャ・ジンジャ展』に来てくださった折にお会いできましたが、神社や歴史に大変造詣がお深く、実地訪問も数こなされていて、本当にすごい方でした。ちなみに作家活動を恒常的にされている方ではないので、気が向いた時しか作らないのだとか。レアな作品をわが物にできて本望至福でございます。
説明が前後しましたが、崇徳天皇とは平安時代末期の天皇で、百人一首にもその歌が採られている結構有名な歴史的人物です。時は院政期、武士の台頭著しい時代。政治的な派閥争いから「保元の乱」という武力衝突が起きましたが、崇徳上皇は負けた陣営のトップとして、讃岐(現在の坂出市)に流罪となり、その地で没しました。保元の乱を題材にした軍記物語「保元物語」によると、流刑の地で寂しく暮らす崇徳上皇は、屈辱と怒りから最後には身なりにも構わなくなって生きながら天狗のような姿となり、「日本国の大魔縁となって、社会秩序を転覆させてやる~!」と呪って憤死したとか。国芳の浮世絵はまさにその姿を描いたものです。
以来、崇徳上皇はわが国の代表的な最強怨霊とみなされ、「平家物語」や「太平記」、「雨月物語」や滝沢馬琴の「椿説弓張月」など、後世の物語にもしばしば登場しているとのこと。また、崇徳怨霊の処遇は皇室も気にしていたとされ、流刑の地に建てられていた崇徳上皇の霊を祭る神社から、天皇の命令によりわざわざ神霊と御神体を京都に招いて、明治維新直前に「白峯神宮」を創建したいうエピソードも知られています。
というわけで崇徳天皇は、怨霊とかオカルトに関心のある人なら誰もが知っている有名キャラクターなのです。私の場合、オカルトはさておき、吉備真備とか小野篁など、実在の歴史的人物で妖しの伝説を持つ人は大好物なので、その流れで大いに気になっています。
この本によると、歴史的資料(主に和歌のやり取り)に基づいて見た崇徳上皇はすごくまともです。流刑後も寂しがったり都の知人を懐かしがったりはしているけれど、和歌をうたったり後生を祈りながら平穏に余生を過ごしたようで、荒れ狂う怨霊と化す崇徳上皇というイメージは、あくまで保元物語の創作とのこと。保元物語が成立した時代は、武士の政権が確立した鎌倉時代初期。当時、都の上層階級の人たちは、平安時代盛期の天皇&貴族支配による平穏な時代を懐かしがり、かつ嘆いていたそうなのですが、保元の乱をきっかけに武士が台頭し、源平の争いが起きて鎌倉政権樹立に至ったという歴史認識から、保元の乱の敗者・崇徳上皇を天皇&貴族政権時代凋落の言い訳というかシンボルにしたかった、というのです。崇徳上皇の呪いのせいで、武士政権という嘆かわしい時代になってしまった、と。
これで、明治維新直前に京都に白峯神宮が創設された意味も分かりますね。崇徳上皇を丁重に祀ることで、その呪いから生じた武家の世(徳川幕府による江戸時代)を終わらせて天皇の世(明治時代)にするんだ!という政治的プロパガンダですね。
この本には、怨霊誕生のメカニズムも史料に基づいて詳細に示されており、興味深かったです。保元の乱の勝者である後白河上皇やその側近は、崇徳上皇を単なる罪人として初めは無視していたものの、やがて周辺で不幸が相次ぎ、また都で内裏も焼き尽くす大火が起きたり、平家の不穏な動きがあったりなどを経験するうちにだんだん怖くなり、慌てて流刑地にある崇徳天皇の墓を天皇陵として立派に整え、現地や都に崇徳上皇の菩提を弔う寺社を建てたり行事を執り行ったりして、怨霊の鎮魂に努め始めたのだそうです。まさに、怨霊は人の心の闇(後ろめたさ)が生み出す、というやつですね。もちろん、こういう現実の動きも保元物語の怨霊イメージに反映されているわけですが。
また、鎌倉時代初期に起こった承久の乱――後鳥羽上皇ら朝廷側が鎌倉武家政権に反旗を翻した兵乱――も保元物語に影響を与えたと同書は解説しています。後鳥羽上皇は敗れて隠岐の島に流されますが、気性の激しい後鳥羽上皇は最後まで政権復帰に執着していたと言われ、当時多くの怨霊譚が人々の噂に上ったそうです。この後鳥羽上皇怨霊のイメージが保元物語で描かれる崇徳上皇怨霊のモデルになったというのです。後鳥羽上皇の怨霊って、今はあまり聞きませんよね。一方、崇徳天皇の怨霊は物語化したために有名になって後世まで語り継がれたということでしょうか。
↓ 京都の「崇徳天皇御廟」。観光客で賑わう祇園の裏道にひっそりとある。
後白河上皇が整備した慰霊施設のひとつである「崇徳院御影堂」がかつてここにあった。
元々は、崇徳天皇の寵愛を受けた女官が故院を偲んで個人的に建てた草庵だったのを
後白河上皇が整備して勅願寺(皇室の寺)にした、という記録が残っている。
そしてこの本を読んでいて何より驚いたのは、崇徳上皇の怨霊譚に志度寺が登場するという点。つい先日訪れた香川県さぬき市の志度寺です。保元物語では、崇徳上皇が怨霊化するきっかけとして五部大乗経の書写というエピソードが出てきます。流刑の地で崇徳上皇は信仰心から五部大乗経という大分量の経典を書写して都へ送り、どこか京都近辺の寺にでも納めて自分の後生を祈って欲しいと伝えるのですが、無情にも突き返されてしまいます。激怒した崇徳上皇は、自らの舌先を噛み切り、その血で写経の奥書(巻末スペース)に「日本国の大悪魔とならん」云々の呪いの誓文をしたため、その後は髪も整えず爪も切らずに天狗(鬼)のような姿となり生霊と化した、とされています。
保元物語の古いバージョンではこんな感じでわりとシンプルな描写なのですが、時代が下るにつれ、だんだんストーリーに尾ひれがついて(昔は著作権的発想がなかったので、書写する人が勝手に書き加えたりアレンジしたりして、同じ物語でも少しずつ文章が変化することがザラだった)、後のバージョンになると、呪いの誓文を書き加えた五部大乗経は、志度の沖に沈められて龍宮に安置された、という話になるのだとか。龍王のパワーが加わって呪いがより強力になるというイメージらしいです。そういう話の行きがかり上、崇徳上皇の流刑地を志度とするバージョンもあるのだそう。
実際の崇徳上皇の流刑地は讃岐の国府の近く、すなわち現在の坂出市で、現に崇徳天皇陵があるのも坂出市です。しかし、当時の都人にとっては、漠然と讃岐と聞いているだけで細かい地理は分からないから、坂出でも志度でも大差なかろうというザックリした認識だったのでしょう。実際には結構離れていますがね。当時、志度寺は修業道場として有名になってきており、志度の海には龍宮があるだの死後の世界に通じているだのといったオカルトチック(?)な話も知られていたので、崇徳上皇の怨霊譚もちゃっかりそれに便乗したものと考えられるそうです。
それにしてもあの志度が藤原四兄弟・房前だけでなく、崇徳上皇ゆかりの地でもあるとは(もちろんどちらもフィクションの世界で、ではありますが)、本当に驚きです。あの世に通ずる「死渡(しど)の道場」とも呼ばれたという志度寺が、ダークヒーロー崇徳上皇の登場で、一気にそれらしく思えてきました。閻魔様や奪衣婆さんもおられるしね。あの荒涼たる朽ちかけた供養塔群(いわゆる「海女の墓」)の光景も思い出されます。やはり、志度には近いうちにもう一度行かねば・・・。ここに呪いの五部大乗経が沈められている(ということになっている)、という思いで志度の海を眺めてみたくなりました。
↓ 「海女の墓」と呼ばれる石塔群。志度寺境内にある。
しかし、まずその前に白峯御陵(崇徳天皇陵)などの史跡がある坂出市に行くべきかなと考え、坂出市の観光情報をネット検索してみたところ、なんと、崇徳上皇の足跡めぐりツアーなるものがあるのを発見しました。坂出市観光協会が主催する毎月1回(第3日曜日)の催しで、JR坂出駅に集合し、バスや徒歩で半日かけて崇徳上皇関連史跡を見て回るグループツアーとのこと(参加費2000円、ガイド付、昼食付)→詳しくはコチラ。崇徳上皇史跡は交通不便な田園地帯に散在しているらしいので、バスで回ってもらえるのはありがたい。
というわけで、さっそく5月20日(日)の回に予約の電話を入れました。ネットには最少催行人数5人と書いてありましたが、電話口の職員さんからは、ツアー不成立になってキャンセルの可能性もあります、と念を押されました。何だか、その可能性が高いような口ぶりに聞こえましたが・・・。そんなに不人気なツアーなんだろうか。心配になってきました。せっかくいいツアーを見つけたと思ったのに・・・。
ちなみにこのツアー企画は、崇徳天皇も登場していた大河ドラマ『平清盛』が放映された2012年頃に始まったようです。当時、私は既に崇徳上皇には関心を持っていましたが、大河は見ておらず・・・(テレビドラマはあまり見ないほうなので。毎週見るのが面倒くさい!)。う~ん、時にはブームに乗り遅れると損することもあるんだなぁ、と後悔。
もしこのブログを読んでいて、5月20日に坂出まで行ける方がおられましたら、崇徳上皇ツアーにご一緒しませんか。何とか人数が揃って成立してほしいものです。