また京都 ④常盤井 |
船岡山の西部を占める船岡山公園から建勲神社境内脇の遊歩道を通って山の東側へ。そこから「常盤(ときわ)井」(北区紫野下築山町)という伝説の井戸に向かいました。船岡山を下りた地点(東の鳥居)から北西に直線距離で150mくらい、道なりに歩いてもほんの2~3分です。
常盤井は「常盤化粧井」とも呼ばれ、源義経の母、常盤御前が化粧の際に使った井戸と伝えられています。さらに井戸の脇から民家の間を入っていくと、常盤御前が衣を掛けたという木が立つ「衣掛(きぬかけ)塚」なるものもあるそうな。義経伝説には特に強い思い入れはありませんが、もともと井戸好きですし、古い墳墓かもしれないという塚も気になったので、機会があったら寄ってみたいと以前から思っていたのです。
道端にある井戸はすぐに分かりました。道路脇の小さな窪みといった感じで、水は涸れています。「常槃井」と彫られた石碑が立ち、何やら漢文が。井戸の説明ではなく、仏教の教えみたいな内容に思えました。寛文十二年(1672年)十月十五日との建立年月日も入っています。少なくとも江戸時代の比較的早い時期には、顕彰すべき伝説の井戸として認識されていたのですね。
女性いわく「あの塚は、昔は天皇様のお墓とも言われたそうよ。」 そう、私も確かにそんな話を読んだことがあります。『文化山陵図』という、江戸時代の文化年間(1804~1817年)における天皇陵調査を記した記録には、この衣掛塚が後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇いずれかの天皇の陵墓候補として図示されているそうです。その図では、塚は田畑のただ中にあり、盛り上がった墳丘の周囲には水をたたえた溝、塚の上には大きな木が生えている、という様子なのだとか。天皇陵候補になるくらいなのだから、実際けっこう目立っていたのでしょう。しかし、明治時代の天皇陵治定では候補から外され、以後、そういう方面では顧みられなくなったそうです。一度は天皇陵候補になったものの結局選ばれなかったために忘れ去られ、消滅した墳墓は多いと聞きます。そんな中、曲がりなりにも現存している衣掛塚は貴重な存在と言えるかも。常盤御前の伝説のおかげですね。
声を掛けてくれた女性は、「すく近くには、弁慶の腰掛石もあるのよ。知ってる?」と言います。知らないと答えると、すぐそばだから、と自ら案内してくれました。その石はお米屋さんの家の中にあるとのこと。常盤井のある道の一本北の小道、ちょうど衣掛塚を挟んで背中合わせになるような所にお米屋さんがあり、女性は店の戸を開けて、居合わせた女将さんに、見学したい人がいる、と取り次いでくれました。突然なのにもかかわらず、女将さんも快く応じてくれて、家に上げてくれました。店の奥の生活スペースに小さな中庭というか坪庭があり、その端に黄みがかった大きめな石が置かれています。これが「弁慶腰掛石」だそう。
このお米屋さんは比較的新しい建物のようですが、建て替えた時も、わざわざこの石を残すような形で坪庭を作ったのだとか。NHK大河ドラマで『義経』が放送された時(2005年)には、にわかに義経ブームが起こって、地元新聞が取材に来たり、見学者が団体で訪れたりしたそうです。知らなかった~!
それにしても、常盤井の所で出会った女性といい、お米屋さんといい、行きずりの物好きな見学者にこうまで親身に史跡ガイドしてくれるとは! 前日の聚楽第史跡でも同様だっただけに、またも嬉しい驚き。よそよそしいと言われる京都人のイメージが一変しました。やはり、歴史ある土地に住むという誇りから、ついついお節介して教えたくなっちゃうのかもしれません。こういうご当地自慢なら大歓迎です。
これらとは少し離れた所にある「常盤井」や「衣掛塚」に関しては、常盤御前の再婚相手の貴族・一条長成の邸宅がここにあり、常盤御前が暮らした地であることによる、と説明されています。そして鞍馬山から母に会いに来た牛若丸が、近くの御所の橋で弁慶に出会ったのだとか。しかし、せっかくの伝説に水を差すようではありますが、この常盤井は、常盤御前の常盤ではなく、鎌倉時代前期の太政大臣、西園寺実氏(通称、常盤井相国)から来ている、という説もあるとのこと。実氏の邸宅「常盤井殿」がここにあり、その井戸が現在の常盤井であるという記述が、江戸時代の地誌に載っているそうです。
とはいえ、伝説に真偽を求めるのも野暮というもの。聚楽第遺祉と信じられてきた「梅雨の井」と同様、厳密にはそうでないかもしれないけれど、伝説のおかげで何百年も生き残ってきたのですから、良しとしましょう。消滅してもおかしくない小さな塚が残ったのも、常盤御前のパワーですよね。本当は誰の墓なんだろう、なんて考えるとさらにロマンが広がります。見た目超地味史跡ですが、とっても楽しめました。