この世とあの世の境「志度寺」 |
志度寺は四国八十八箇所霊場の一つで、そういう方面に詳しい人には知られているお寺だと思うのですが、私は不勉強でそれまで全く知りませんでした。3~4年前、RSKテレビの『イブニング5時』に出演させていただいていた時、ある女性スタッフが雑談の中で教えてくれて俄然興味を持ったのです。そのスタッフさんはたまたま志度寺を取材したばかりで、とても印象強烈だったらしく、志度寺に伝わる「海女の玉取り伝説」を中心に、志度寺について詳しく話をしてくれました。
「海女の玉取り伝説」とは、乙巳の変(大化の改新)で有名な藤原鎌足の娘が唐(中国)の皇帝に嫁いだところから始まります。彼女は父の死に際し、その供養のために唐の宮廷に伝わる貴重な宝物3点を日本に送りますが、志度付近の海で宝物を積んだ船が難破し、宝物の一つである宝玉が龍神に奪われてしまいます。志度へ宝玉探しにやって来た鎌足の息子、不比等は現地の娘と恋仲になり、3年間夫婦として暮らして一男をもうけます。しかし、不比等は都へ帰ることになり、事情を現地妻に打ち明けると、海女である彼女は「自分が命を賭して玉を取り戻すので、その代わり、幼いわが子はあなたの跡継ぎとして大切に遇して欲しい」と言い残し海へ。海女は体に長い綱を結び付けて海に潜って行きましたが、打ち合わせ通り、合図があったので素早く綱を手繰り寄せると、手足を食いちぎられて変わり果てた海女の体が上がってきました。遺体を調べると、乳房の下に大きな傷があり、その中に宝玉が隠されていました。死を覚悟した海女がとっさに自らの体を切り裂いて宝玉を守ったのです。不比等は海女を志度寺に丁重に葬り、幼い息子を連れて都へ帰還。その息子、房前(ふささき)は成長すると、名僧・行基と共に志度を訪れ、志度寺の伽藍を整備し石塔千基を建てて、母の菩提を弔いました。房前は不比等の跡取りとして大臣に出世した、というお話です。
その時聞いた話は、実際に今回私が志度寺で説明してもらった話と、固有名詞も含めて寸分違わず、改めてRSKスタッフ女性の記憶力と歴史知識の確かさには感服しています。
それにしても、確かにトンデモビックリな初耳の内容です。もちろん史実ではありえませんが、長屋王を死に追い込んだり、妹・光明子をごり押しで皇后の地位につけたりと、歴史的に何かと悪役(陰謀家)のイメージの強い藤原四兄弟の二男・房前にこんな〝感動的な”伝説があろうとは! そもそも、藤原房前なんてマニアックな人物の名前が出てきたところからして驚きました。もっとも房前は藤原北家(藤原道長など藤原氏の中でも最も栄えた家系)の祖なので、ヒーロー化したい人はたくさんいたのかもしれませんが(戦国時代に志度寺を支援した武将・生駒親正も藤原北家の末裔という)。
ちなみに、唐に嫁いだ鎌足の娘なんていませんし、房前の母も本当は不比等の正妻である蘇我氏の女性とされています。唐から藤原氏に贈られたという宝物「華原磬」「泗濱浮磬」(いずれも楽器の一種)は、現在も奈良の興福寺(藤原氏の氏寺)に所蔵されており、国宝に指定されています。志度寺の伝説に登場する宝玉「面向不背の玉」も、かつては興福寺に収められていたものの火災で焼失したと伝えられてきましたが、昭和51年に琵琶湖竹生島の宝厳寺で発見されたのがそれだとのこと(こちらは国重文)。宝物のモデルは実在するのですね!
前置きが長くなりましたが、志度寺に行きたいと思ったのは、房前にまつわるこのトンデモ伝説に惹かれたのに加え、この寺には知る人ぞ知る閻魔大王と奪衣婆の像があると知ったからです。私の閻魔様&その仲間たち愛♡については、これまで何度もブログに書いてきました。関西や東京、時には岡山でそんな像があると知ると(そして行ける範囲内だと分かると)、赴いて拝観したり御朱印をいただいたりしています。ただ、志度寺の閻魔様はいつでも拝観できるわけではないようで、ネットで調べてみると毎月17日に開帳されているらしい、と判明。そこで急きょ4月17日に訪問しました。
岡山からマリンライナーで四国の高松へ。さらにJR高徳線に乗り換えて志度駅で下車。志度寺は駅から徒歩10分程度です。両脇に塔頭寺院を従えたアプローチと堂々たる山門(国重要文化財)は、静かな田舎町にしては予想外の立派さ。山門の中に安置されている仁王さんもなかなかの迫力(県指定文化財)。かつては四国指折りの港町だった志度の名物寺院だけのことはあります。
仁王門をくぐって左側に主に堂宇が配置されているらしく、道順に沿って進んでいくと、まず「奪衣婆堂」が目に入ります。しかし、まず本堂にお参りするのが先かな、と考え、奥の本堂へ。しかし、あとで知ったところによると、お参りする順番は道順の通り、奪衣婆堂→本堂→大師堂→閻魔堂、なのだそうです。志度寺はかつて「死渡道場」とも呼ばれ、この世とあの世の境と考えられていたそうです。志度の海は極楽浄土に続いているとされ、ここで死を疑似体験して再生するというコンセプトなのだとか。三途の川でまず奪衣婆に出会い、観音様(本堂)、お大師様(大師堂)に功徳をいただいたのち、閻魔様の裁きで再生する、というストーリーでしょうか。
境内は草木がワイルドに茂っていて独特の雰囲気。かなりの大寺ではありますが、京都あたりの整然とした寺院とは異なる鄙びた雰囲気がいい感じです。ちょっとミステリアスな感じだし。
↓ 奪衣婆堂と五重塔。奪衣婆堂は江戸中期の建立で県指定文化財。
五重塔は昭和50年(1975年)に建てられた新しいもの。
↓ 本堂。江戸時代の寛文10年(1670年)建立。国重文。
大きな建物で全体像を撮るのが難しかった。
↓ 閻魔堂。寛文11年(1671年)建立。県指定文化財。
さて、お待ちかねの閻魔様ご対面! 御開帳の日なので、お堂の中まで上がって拝観できます。檀家さんらしき解説の人が一人待機しておられました。お堂の内部は手の込んだ彩色が施され、意外と華やか。お堂を大々的に修理した記録はないので、今見られるのは当初の彩色ではないか、とのこと。
さて、お次は奪衣婆さん。ワクワク。奪衣婆がこのように主役として立派なお堂に祀られているのはわりと珍しいです。特に西日本では・・・。こちらも月一回の御開帳日なので、お堂の中に上がって拝観できます。奪衣婆堂の内部はきらびやかだった閻魔堂とは一変、渋いモノトーン寄りの世界。像に彩色は残っていますが、それも控えめで、お堂自体は色味の無いシンプルな内装です。中央の厨子に奪衣婆。この像だけは白塗りのお顔や体に加え、ワンポイント的に使われている青と赤が鮮やか。
奪衣婆というのは、三途の川のほとりに待ち構えていて、亡者から衣を剥ぎ取り、その重さで三途の川の渡り方(楽なのからハードなのまで)を決めるという役割のお方。閻魔様の妻という俗説もあるそうです。亡者が真っ先に出会うあの世スタッフであるため、民間信仰の世界では重要視されるようになったと考えられています。
閻魔様も奪衣婆さんも、以前は特に御開帳はしていなかったのだそうです。2014年の四国霊場開創1200年記念行事の一環として、閻魔堂を戦後初めて御開帳したところ好評だったため、JRの四国キャンペーンがあった2016年には奪衣婆堂も合わせて御開帳し、その後、毎月17日で定番化したようです。
志度寺では閻魔大王の御朱印や御札がいただけますが、これも3~4年前の特別御開帳をきっかけに始まったものだそうです。御朱印は納経所でいただきますが(300円)、閻魔様の御札は閻魔堂でいただけます(500円)。その同じ御札が納経所ではなぜか1000円になっていました。別の御札とセットにでもなっているのかな?? ともあれ、御札は閻魔堂でいただいたほうがお得です!
奪衣婆に関する御札や御朱印はありませんが、今後そういう要望が増えたらできるかも、とお堂におられた方は話していました。今までの経緯を考えればありえますね。ちなみに、納経所で奪衣婆堂を参拝したと用紙に記名すれば、奪衣婆さんの御影(お像を印刷した紙)をいただけます。閻魔様の御影は御朱印をお願いしたらいただけました。
その他にも、志度寺は見どころ盛り沢山です。五重塔の北側には、藤原房前が建立した石塔の一部と伝えられる「海女の墓」があります。房前が母である海女の冥福を祈って、行基と共に石塔千基を建立したという伝説に基づくものです。木製の柵で物々しく囲われた一画に、古びた石の五輪塔や経塔、石造五重塔が所狭しと建ち並んでいる光景は、なかなか迫力があって鬼気迫るものが・・・。どの石塔もかなり大きなものですし。
たくさんあるうち、どれが海女の墓?と思い、閻魔堂にいた例の物知りおじさんに聞いてみたところ、全体を海女の墓と称しているとのことでした。「海女の墓五輪塔群」として市の文化財(史跡)に指定されていますが、学術的に見た建立年代等の説明は見当たらず。見た目、かなりボロボロで古そうな感じではありますが・・・。
山門を入って右側、納経所や庫裏・書院のある境内南側の奥には二種の庭園もあります。一つは曲水式庭園で、室町時代に志度寺を継続的に経済援助した四国管領・細川氏が寄進したものだそう。曲水といっても現在は水は入っておらず、岩が意味ありげに配されたワイルドな枯山水といった印象です。
さすが四国霊場だけあって、平日にもかかわらすお遍路さんの装束を着た人がそこそこコンスタントに訪れていました。特に午前中は団体というかグループのお遍路さんが来ていて、閻魔堂や奪衣婆堂も一時は人でいっぱいだったようです。私が訪れたのはたまたまそれより少し後の時間だったので、ちょうど入れ替わりでゆっくり拝観できましたが・・・。一対一でじっくり解説もしていただけました。写真撮影を許してくれたのも、そんな状況だったからかもしれません。
納経所には、志度寺縁起絵図(国重文、本物は博物館に寄託してあるそう)のレプリカがパネル展示されていて、解説文も備え付けられていました(ただし、持ち帰れるようなリーフレットや有料解説書等は無し)。とにかく、たくさんある文化財や史跡それぞれの奥が深いので、丁寧に見ていったらいくらでも時間をかけられそうなくらい、興味の尽きないお寺でした。
じっくり見たつもりだったのに、帰ってきてから、屋根瓦を見るのを忘れていたことに気付きました。お堂の屋根の装飾瓦に海女の玉取りのモチーフがいろいろ使われているそうなのです。毎年7月16日・17日には本尊の十一面観音(国重文)の御開帳があるとのことなので、その折にでも再訪したいと思っています。今回の訪問日はどんよりと曇った日で、海の風景も冴えませんでしたが、次は晴れて欲しいな、と祈りながら。