2018年 02月 23日
「野殿の池」の痕跡をたどる《その1》 |
毎日新聞岡山版で担当しているコラムに『岡山市郊外の三日月湖』というタイトルで文章を書きました(本日2月23日掲載)。コラムでは字数の制限もあり、詳しく書けなかったので、ここで補足します。
かつて岡山市西郊外の笹ヶ瀬川に近い所に大きな沼がありました。ちょうどJR大安寺駅と北長瀬駅の中間くらいの位置です。西北に口を開けた馬蹄形(英文字の「C」のような形)をした、細長い沼(池)でした。
この沼の存在を初めて知ったのは、10年少し前くらい。岡山シティミュージアム(当時はデジタルミュージアム)で開催された岡山空襲についての展示の中で。空襲前後の岡山市を撮った航空写真が大きく引き伸ばされてパネル展示されていたのですが、そこに見知らぬ大きな三日月湖のようなものを見付けて、驚きました(展示の趣旨とは関係なく!)。帰宅してからすぐに地図を広げてみましたが、それらしい痕跡は見当たらず。完全に消滅した池のようです。あんなに目立つ池なのに、その存在を耳にすることがないのも不思議。歴史散歩情報にはけっこうアンテナを張っているほうなのですが・・・。
ずっと頭の隅に引っかかったまま過ごしていたところ、昨年秋に坪田譲治の随筆を読んでいて、「あっ!」という叙述に出会いました。『かっぱとドンコツ』という随筆集(講談社文庫、1977年)収録の「子ども十二ヵ月」という随筆です。自分の幼少年時代(つまり明治時代後期)を回想しているエッセーなのですが、旧暦の雛祭り翌日の男の子だけの行事を描いている箇所にそれは出てきます。雛祭りの御馳走の残り物を弁当にして、村の少年たちが小舟に乗って「大川」(能登川用水)を、道草を食いながらのんびり下っていくと、1時間ほどで「野殿の池」という大きな池に出るというのです。位置からいって、これはあの三日月湖に違いありません!
ここで少年たちは舟で競走したり、舟を揺らして波を立て互いに相手の舟を脅かしたり、という遊びに興じ、また岸辺に上がって弁当を食べたり、歌ったり昼寝したり、と気ままにピクニックを楽しむのです。だれも話題に上げない忘れ去られた三日月湖と思っていましたが、文豪が名文の中にしっかり書き留めてくれていたことに感動しました。
確認のために、坪田譲治の大人向けの随筆を調べてみたところ、「故園の情」という随筆(『坪田譲治全集12』新潮社に収録)にも書かれていました。同じ舟遊びについて綴っているのですが、こちらのほうがやや詳しい。村から池までの距離は1里(=約4km)ほど、周囲20町(=約2km)はあろうかという大きな細長い池で、青黒い水面には菱や水草がいっぱいに生えていて、ところによっては操船棹も届かないくらい深い、とのことです(ちなみに、池の周囲総距離は実際にはもっとある)。譲治の住んでいた村(現在の島田本町2丁目)からの距離や池の形からいって、もう、あの三日月湖で確定ですね。

上の図は、1947年の岡山市西郊外の航空写真(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)を基にしています。坪田譲治の時代からは半世紀近く経っているわけですが、一面の田んぼで家はまばら、明治後期から大して変わっていないんじゃないか、という印象です。見事な逆C形の三日月湖(沼)の姿がしっかり見て取れますね。
こちら(↓)は、沼の埋め立て工事が進行中の1964年の航空写真(同じく国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)。

まだ山陽新幹線も県道242号巌井川入線も通っていません。家は相変わらずまばら。岡山駅近くのエリアにはだいぶ増えているようですが。三日月湖の南端湾曲の内側に大安寺高校の敷地が造成されつつあるのが見て取れます。それでも沼全体の輪郭はまだよく分かりますね。
比較のために、まったく同じ範囲の現代の地図を掲げます(ゼンリン地図より)。三日月湖は跡形もなし。

新幹線の線路や車両基地、新しい幹線道路などが目立ちますが、山陽本線や操車場、吉備線は当然ながら同じですし、よく見ると細かい道や用水路もほとんど変わっていません。三日月湖の位置もかなり正確に特定できそうです。
ということで、現在の地図に今は無き池の位置を重ね合わせた図を作成してみました。

旧大安寺高校(現大安寺中等教育学校)敷地の南端と前の道路、大野小学校の敷地が、沼の跡地であることがよく分かります。
県立図書館に行って、この三日月湖について書かれている本がないか、探してみました。すると、『大野学区六十年のあゆみ』(2013年刊)という地元の連合町内会が発行した地域史の本に、池の埋め立てについての歴史がめちゃめちゃ詳しく書かれているのを見付けました。それによると、この池(沼)は地元では「大川」と呼ばれていて、確かに笹ヶ瀬川の旧流路なのだそうです。笹ヶ瀬川は、昔(江戸時代以前?)はこんな風に大きく蛇行して流れていたのだとか。しかし江戸時代にはいると、現在のような北から南への直線的なショートカット流路ができ、蛇行した以前の流路は次第に取り残されて三日月湖状の沼となったとのこと。
往時のこのエリアはいわば水郷地帯のような感じで、農作業の行き来や運搬は川舟で水路を伝いに、というのが日常風景だったそうです。低湿地なので、逆に道はあまり発達していなかったとのこと。大雨が降るとすぐ水浸しになるような地域だったといいます。昭和も戦後になると、このような地域の事情は、むしろ近代化を妨げる悪しき自然条件・地理条件とみなされるようになります。ろくな道もないため、機械化の進む時代だというのに、舟では耕運機などの農業機械も運べず、旧態依然の農業から脱せずにいたのです。岡山市街地の南方面・東方面に比べ、街としての発展が遅れているのも、「大川」が横たわり、低湿地であることが原因とみなされました。
また、下水道の整備が追い付かぬままに、岡山駅西エリアに工場や住宅が急増したため、そこから垂れ流される工場廃液や生活汚水などが用水路を伝って「大川」に流れ込み、急速な水質悪化をもたらしました。流入する農薬が生物を殺して自然の浄化作用を破壊し、死の池になったともいわれています。そんな昭和30年代の大川は悪臭と蠅・蚊の発生源として悪名高い存在だったそうです。
高度経済成長期はどこの川や海も超汚かったから、あのパターンですね。今は清流の西川用水や後楽園用水も濁ったひどい色だったとか。東京の掘割や神田川、隅田川なんかもとことん汚かったですよ。水彩絵の具の筆を洗う水の最終段階みたいな感じの色で・・・。実家の近所にあった掘割(浜町川)なんて、ぽこぽこメタンガス吹いていましたし。当時の岡山のことは知りませんが、あんな感じだったんだろうなぁ、と想像しました。
「大川」は無用の長物どころが厄介物となり、ついに1960年代半ばに埋め立てられました。同時に土地改良&区画整理事業も大々的に行われたので、かなりの年数を要したようで、1962年に埋め立て工事開始、すべての地区で完了したのが1967年と書かれています。これにより、このエリアには生活道路が碁盤の目状に走り、後には県道242号巌井川入線や山陽新幹線の線路と車両基地もこの地に建設されます。今では、県道沿いに岡山西警察署や西消防署、多くのロードサイド店が建ち並び、まさに筋書き通りの地域発展とあいなり、めでたしめでたし!といったところでしょうか。
「野殿の池」こと「大川」の説明だけで長くなってしまったので、ここで一旦区切り、実際の沼跡探索記は《その2》でお伝えします。
かつて岡山市西郊外の笹ヶ瀬川に近い所に大きな沼がありました。ちょうどJR大安寺駅と北長瀬駅の中間くらいの位置です。西北に口を開けた馬蹄形(英文字の「C」のような形)をした、細長い沼(池)でした。
この沼の存在を初めて知ったのは、10年少し前くらい。岡山シティミュージアム(当時はデジタルミュージアム)で開催された岡山空襲についての展示の中で。空襲前後の岡山市を撮った航空写真が大きく引き伸ばされてパネル展示されていたのですが、そこに見知らぬ大きな三日月湖のようなものを見付けて、驚きました(展示の趣旨とは関係なく!)。帰宅してからすぐに地図を広げてみましたが、それらしい痕跡は見当たらず。完全に消滅した池のようです。あんなに目立つ池なのに、その存在を耳にすることがないのも不思議。歴史散歩情報にはけっこうアンテナを張っているほうなのですが・・・。
ずっと頭の隅に引っかかったまま過ごしていたところ、昨年秋に坪田譲治の随筆を読んでいて、「あっ!」という叙述に出会いました。『かっぱとドンコツ』という随筆集(講談社文庫、1977年)収録の「子ども十二ヵ月」という随筆です。自分の幼少年時代(つまり明治時代後期)を回想しているエッセーなのですが、旧暦の雛祭り翌日の男の子だけの行事を描いている箇所にそれは出てきます。雛祭りの御馳走の残り物を弁当にして、村の少年たちが小舟に乗って「大川」(能登川用水)を、道草を食いながらのんびり下っていくと、1時間ほどで「野殿の池」という大きな池に出るというのです。位置からいって、これはあの三日月湖に違いありません!
ここで少年たちは舟で競走したり、舟を揺らして波を立て互いに相手の舟を脅かしたり、という遊びに興じ、また岸辺に上がって弁当を食べたり、歌ったり昼寝したり、と気ままにピクニックを楽しむのです。だれも話題に上げない忘れ去られた三日月湖と思っていましたが、文豪が名文の中にしっかり書き留めてくれていたことに感動しました。
確認のために、坪田譲治の大人向けの随筆を調べてみたところ、「故園の情」という随筆(『坪田譲治全集12』新潮社に収録)にも書かれていました。同じ舟遊びについて綴っているのですが、こちらのほうがやや詳しい。村から池までの距離は1里(=約4km)ほど、周囲20町(=約2km)はあろうかという大きな細長い池で、青黒い水面には菱や水草がいっぱいに生えていて、ところによっては操船棹も届かないくらい深い、とのことです(ちなみに、池の周囲総距離は実際にはもっとある)。譲治の住んでいた村(現在の島田本町2丁目)からの距離や池の形からいって、もう、あの三日月湖で確定ですね。

こちら(↓)は、沼の埋め立て工事が進行中の1964年の航空写真(同じく国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより)。

比較のために、まったく同じ範囲の現代の地図を掲げます(ゼンリン地図より)。三日月湖は跡形もなし。

ということで、現在の地図に今は無き池の位置を重ね合わせた図を作成してみました。

県立図書館に行って、この三日月湖について書かれている本がないか、探してみました。すると、『大野学区六十年のあゆみ』(2013年刊)という地元の連合町内会が発行した地域史の本に、池の埋め立てについての歴史がめちゃめちゃ詳しく書かれているのを見付けました。それによると、この池(沼)は地元では「大川」と呼ばれていて、確かに笹ヶ瀬川の旧流路なのだそうです。笹ヶ瀬川は、昔(江戸時代以前?)はこんな風に大きく蛇行して流れていたのだとか。しかし江戸時代にはいると、現在のような北から南への直線的なショートカット流路ができ、蛇行した以前の流路は次第に取り残されて三日月湖状の沼となったとのこと。
往時のこのエリアはいわば水郷地帯のような感じで、農作業の行き来や運搬は川舟で水路を伝いに、というのが日常風景だったそうです。低湿地なので、逆に道はあまり発達していなかったとのこと。大雨が降るとすぐ水浸しになるような地域だったといいます。昭和も戦後になると、このような地域の事情は、むしろ近代化を妨げる悪しき自然条件・地理条件とみなされるようになります。ろくな道もないため、機械化の進む時代だというのに、舟では耕運機などの農業機械も運べず、旧態依然の農業から脱せずにいたのです。岡山市街地の南方面・東方面に比べ、街としての発展が遅れているのも、「大川」が横たわり、低湿地であることが原因とみなされました。
また、下水道の整備が追い付かぬままに、岡山駅西エリアに工場や住宅が急増したため、そこから垂れ流される工場廃液や生活汚水などが用水路を伝って「大川」に流れ込み、急速な水質悪化をもたらしました。流入する農薬が生物を殺して自然の浄化作用を破壊し、死の池になったともいわれています。そんな昭和30年代の大川は悪臭と蠅・蚊の発生源として悪名高い存在だったそうです。
高度経済成長期はどこの川や海も超汚かったから、あのパターンですね。今は清流の西川用水や後楽園用水も濁ったひどい色だったとか。東京の掘割や神田川、隅田川なんかもとことん汚かったですよ。水彩絵の具の筆を洗う水の最終段階みたいな感じの色で・・・。実家の近所にあった掘割(浜町川)なんて、ぽこぽこメタンガス吹いていましたし。当時の岡山のことは知りませんが、あんな感じだったんだろうなぁ、と想像しました。
「大川」は無用の長物どころが厄介物となり、ついに1960年代半ばに埋め立てられました。同時に土地改良&区画整理事業も大々的に行われたので、かなりの年数を要したようで、1962年に埋め立て工事開始、すべての地区で完了したのが1967年と書かれています。これにより、このエリアには生活道路が碁盤の目状に走り、後には県道242号巌井川入線や山陽新幹線の線路と車両基地もこの地に建設されます。今では、県道沿いに岡山西警察署や西消防署、多くのロードサイド店が建ち並び、まさに筋書き通りの地域発展とあいなり、めでたしめでたし!といったところでしょうか。
「野殿の池」こと「大川」の説明だけで長くなってしまったので、ここで一旦区切り、実際の沼跡探索記は《その2》でお伝えします。
by machiarukinote
| 2018-02-23 15:04
| 街歩きレポート
|
Comments(2)
私も先日(2023.6)、岡山シティミュージアムでの岡山空襲展での航空写真が目に留まり、この川(?)に同じように疑問を持ち こちらにたどりつきました。こちらの記事で地元の歴史を知ることができました。ありがとうございます。
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> 45歳、男性さん
コメントありがとうございます。お返事遅れて済みません。
シティミュージアムに展示されている岡山空襲時の航空写真、いろんな点で興味深いですし、三日月湖は本当に目をひきますよね。疑問解決のお役に立てて嬉しいです。
コメントありがとうございます。お返事遅れて済みません。
シティミュージアムに展示されている岡山空襲時の航空写真、いろんな点で興味深いですし、三日月湖は本当に目をひきますよね。疑問解決のお役に立てて嬉しいです。

