京都 平安京を偲ぶ街歩き ⑦元慶寺 |
前回レポートした「坂上田村麻呂墓」から北へ、旧道らしき道をひたすら進みます。途中の道沿いには、石の道標があったり、地域の鎮守社があったり、とちょっとしたプチ寄り道も楽しめました。目指すは「元慶寺」。ですが、その少し手前の「遍照墓」にまず寄ります。
道に面していると思い込んでいたので、うっかり通り過ぎるところでした。現代的な住宅の間の細い路地をほんの1軒分入った所、民家のすぐ裏にひょっこりありました。
こんな感じ(↑)。住宅にすっかり取り囲まれてしまっていますね。一応、正式な宮内庁管轄の陵墓です。生垣に取り囲まれた円墳のような土饅頭。「桓武天皇皇孫・遍照僧正御墓」と記した石柱が立っています。
遍照僧正とは、④の「雲林院」の解説の中でもちょこっと触れたように、六歌仙の一人に数えられる名高い歌人。しかし、「桓武天皇の孫」といっても、厳密な意味での「皇族」ではありません。桓武帝に愛された祖母・百済永継(男みたいな名前ですが女です!)は渡来系氏族の低い身分の女性だったため、正式な妃とはなれずに一女官として終わり、彼女の生んだ子も臣籍降下されました(皇族の身分を離れ、姓を与えられて臣下となること)。そのまた息子が遍照こと俗名・良岑宗貞(よしみねのむねさだ)です。宗貞は仁明天皇(桓武天皇の孫)に仕え、左近衛少将(武官)、蔵人頭(天皇の筆頭秘書)等を歴任しますが、敬愛する主君・仁明天皇が亡くなると直ちに出家し、遍照と名乗ります。その後は天台宗の高僧に師事して仏道に励み、天皇の血を引く高貴な身ということもあって、ついには僧正(仏教界の最高官職の一つ)の地位にのぼりました。
これだけだと、単なる世渡り上手な人という感じですが、実際は、宮廷で急速に権勢を独占していく藤原氏を目の当たりにして、俗世での出世に絶望して出家したものと思われます。出家後も、常康親王や惟喬親王といった政治的敗者と交流していることからみても(←④の雲林院、玄武神社のくだりを参照)、胸の中にいろいろと屈折した思いを秘めていた人ではないかと思うのです。六歌仙は皆そんな人たちだという説もありますが・・・。屈折した思いを芸術に昇華させたのでしょうか。
それにしても、遍照の墓が宮内庁管轄の正式な陵墓であるのは意外でした。父の代で臣籍降下している人ですしね。同じ六歌仙の在原業平だって、父方からいっても母方からいっても天皇の孫というより一層のセレブながら、そんな扱い受けていないのに・・・。やはり僧正になっているのが大きいのかな。
さて、ここからさらに「元慶寺」を目指します。徒歩5~6分で到着。元慶寺はこじんまりとしたお寺ですが、西国三十三所巡礼の番外札所として有名です。シーズンオフの平日にもかかわらず、御朱印を求める参拝者が途切れません。西国三十三所ってこんなに人気あるとは驚きました。
上の写真は元慶寺の山門(境内から見たところ)。民家の建て込んだ細い道路の先に山門が口を開けています。外側からだと、迫った民家が邪魔してうまく写真が撮れないんだよね。そのくらい庶民的な感じのお寺です。その佇まいとは裏腹に、歴史的には大変重要な史跡なのですが・・・。
元慶寺(別名・崋山寺)の開基は上述の遍照僧正です。藤原高子(清和天皇の皇后。在原業平の恋人だったことでも有名)の発願で建立されました。当初の場所はもっと山寄り(西寄り?)で寺域も広かったとか。応仁の乱で焼失し、その後江戸時代後半に再興されたのが現在の伽藍と言われています。④で紹介した「雲林院」は、同じく遍照に託された寺院ですが、遍照はその雲林院を元慶寺の別院として管理運営したそうです。奇しくも遍照つながりで、兄弟的お寺を連チャンで一気に訪ねることができました。
そして元慶寺にも、雲林院にあったのと同様の遍照の歌碑が建っています。同じ代表歌「天つ風雲の通い路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」が刻まれています。宮中の行事で舞う美しい舞姫たちの姿を見て詠んだ歌だそうで、「風よ、強く吹いて天女が帰る道を閉ざしてくれないか。今しばらく彼女の姿を見ていたいから・・・」というような内容です。[※現代語訳は『うた恋い。』より] 僧にあるまじきロマンチックな恋歌! というか、在俗の頃に詠んだ歌なんでしょうね。出家前の遍照こと良岑宗貞は、在原業平に引けをとらない色男(モテモテの美男)だったそうです。小野小町の相手役、深草少将のモデルは宗貞だという説もあります。
現実の宗貞は小町に振られて再起不能になったわけではなく、出家後も小町と洒落た歌のやり取りをして楽しく(?)交流しています。小町「石の上に旅寝をすればいと寒し 苔の衣を我に貸さんむ」(=私とっても寒いの・・・あなたの服を私に貸してくださらない?) 遍照「世にそむく苔の衣はただ一重 貸さねば疎し いざ二人寝む」(=あいにくこれは一張羅だ。でも他ならぬ君の頼みなら、一つ服の下で温め合おうじゃないか)[※いずれも現代語訳は『うた恋い。』より] もちろん冗談のやり取りです。文学的バーチャル恋愛といったところでしょうか。真面目一辺倒ではない、洒脱な坊さんだったのかもしれませんね。
ところで、上の写真にも写っているように(小さいから見えるかな?)、本堂右手前に「花山院法皇 御落飾道場」と記された石碑が立っています。平安時代中期の天皇、花山帝が騙されて出家させられたという大事件が起こった舞台が、この元慶寺だというのです。(正確には、当時の元慶寺はここではなかったから、位置的にこの場所というわけではありませんが・・・。)
出ました! 平安朝の三大クレージー天皇(と私が勝手に決めている)の真打、花山天皇! 1人目の冷泉天皇の話題は以前に散々しましたし(→前ブログその1、その2)、2人目の陽成天皇についてもコミック『うた恋い。』紹介の中でちらっと触れました(→前ブログ)。3人目の花山天皇に言及する機会がやっと来たぞ~。
花山天皇は冷泉天皇の長男なので、親子2代のクレージー。といっても、何らかの病(脳か精神の)だった冷泉天皇とは異なり、こちらは性格に問題があったようです。熱しやすく冷めやすい、衝動的で思慮に欠ける、といった感じ。満16歳目前で即位したものの、わずか2年足らずで退位、その後は法皇として過ごし、満39歳で亡くなりました。
在位中もいろいろありましたが、何と言ってもその退位のいきさつが異常でした。当時の実力者は藤原兼家(道長の父)でしたが、彼は外孫の懐仁親王(のちの一条天皇)を早く帝位につけようと一計を案じます。折しも花山天皇溺愛の女御(きさき)が急死し、天皇が身も世もなく嘆き悲しんでいたのを利用して、天皇と同じ年頃の自分の息子・道兼を使って、一緒に出家しようと持ちかけたのです。衝動的な天皇はすっかり乗せられてしまい、誰にも知らせずに道兼と二人こっそり御所を抜け出して崋山寺(元慶寺)へ。一方、御所では天皇が行方不明になって大騒ぎになりましたが、側近が崋山寺へ駆けつけた時には、すでに天皇は髪をおろした後でした。しかも一緒だった道兼は出家もせずにさっさと逃げ帰っていた・・・。騙されたと知った天皇は大変悔しがったそうですが、今更どうしようもなく、皇位は一条天皇に移って思惑通り兼家の天下となりました。この政変(「寛和の変」という)で、花山天皇側近の有力者たちは一転涙の退場となり、宮廷の勢力地図は激変したそうです。
上皇となった花山法皇は、熱しやすい性格ゆえか、しばらくは仏道に没頭し、巡礼や修行に熱中しました。この時花山法皇が巡った観音霊場の数々が、のちに西国三十三所となって現在に至っているとのことです。つまり今も盛んな西国三十三所巡礼のプロデューサーは花山帝なのです(丸々史実というより、伝説半分入っているようですが・・・)。特に花山法皇にゆかりの深い元慶寺では、御朱印には麗々と「花山法皇」と墨書きされます。花山帝って仏教界ではとっても偉い人だったんだ! 実際、元慶寺はじめ西国三十三所のお寺は、御朱印をもらいに来る参拝者で結構うるおっているわけだから、功労者として敬われるのも当然ですね。
しかし、やがて仏教修行にも飽きてしまったのか、花山法皇は都で相変わらずのお騒がせを連発します。出家したというのに女遊びしまくるわ、使用人たちを使って往来で喧嘩をふっかけるわ・・・。特に大騒動となったのは「長徳の変」とも呼ばれる花山法皇襲撃事件。ある晩、恋人の屋敷の前で男物の牛車と鉢合わせした若き内大臣・藤原伊周は、すわ恋敵!と勘違いし、牛車に矢を射かけたところ、なんと牛車に乗っていたのは花山法皇(法皇が通っていたのは伊周の恋人の妹のほうでしたが)。矢は法皇の袖を貫いたそうです。藤原道長のライバルで、エリート公卿だった伊周はこのため不敬罪で地方へ左遷、結局失脚しました。ラッキーな道長はその後栄花の道を突き進むことに・・・。花山法皇の軽率な行動のせいで、またまた政局が変わってしまったというエピソードです。
冷泉天皇も陽成天皇も、奇行エピソードは枚挙にいとまがないけれど、どちらかというと実害ないというか、政治的社会的に直接影響を与える類のものではなかったようです。それに対し、花山天皇はいろいろやらかしてしまいましたねぇ。それによって泣いた公卿・官人はどれほどいたことか。でも本人はケロッとしていて、何となく憎めないようなところがありますね。
というわけで、遍照僧正と花山天皇にあれこれ思いを馳せながら、元慶寺を後にしました。このあと徒歩でJR山科駅へ向かい、今回の京都旅は無事終了。
ああ、レポートもやっと終わりました。長々とお付き合いくださいまして(そんな奇特な方がいらっしゃったのなら)、ありがとうございました。