京都 平安京を偲ぶ街歩き ⑤随心院 |
2日目は山科を歩きます。二条城近くのゲストハウスに泊まったので、徒歩で地下鉄「二条城前」駅へ。ここから、随心院近くの「小野」駅までは地下鉄東西線で1本。乗り換えなしの楽々移動です。さらに小野駅から随心院までは、歩いて5分もかからないくらい。一日中雨降りだった第1日目とは打って変わって、第2日目は寒いながらも晴れて気持ちもリラックス気味。スムーズに来れたので、到着したのは午前9時の開門(拝観開始)と同時でした。シーズンオフの朝一ゆえ拝観者は私一人の貸し切り状態!
随心院は、平安時代中期創建と伝えられる真言宗一派の大本山で、鎌倉時代からは門跡寺院(親王などの皇族が住職を務める寺院)となった大変格式のある大寺院です。が、何よりもここが有名なのは、小野小町ゆかりのスポットであるから。「小野」という名のこの地は小野氏の本拠地の一つだったと言われ、宮中を辞した小町はここに隠棲して余生を過ごした、と伝えられているのです。小町ゆかりの地はそれこそ全国各地にゴマンとありますが(岡山県の倉敷市や旧清音村にも!)、ここは京都に近いだけに本物感強そう。『街歩きノオト』第16号で倉敷周辺の小町伝説の地を訪ねて以来、こういう方面にも関心があるので訪ねたわけです。もっとも、小町は歴史的実体が全く判らない謎の人物なので、本物も偽物もないのですが・・・。
建物の拝観入口のすぐ外には、写真(↑)のような小町の歌碑が立っています。百人一首にも採られている代表歌「花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に」が刻まれています。この歌のイメージから、小町は絶世の美女だったけれども老いて美貌を失い不幸な晩年を過ごした、とする伝説が生まれました。絶世の美女とされたのは、紀貫之が彼女の和歌を「衣通姫の流れ(=美女っぽい作風)」と評したのが発端だそうで、実際本人がすごい美人であったかどうかは分からないようです(アーテイストの営業用キャラと素の本人イメージが違うってこと、今でも多いからね)。
拝観受付のある建物(庫裏)も大きくて立派ですが、それに続いて表書院、大玄関、能の間、奥書院と、さらに立派ないくつもの棟が連なり、一番奥に本尊等の仏像を安置した本堂があります。書院には華麗な襖絵がびっしり。さすが門跡寺院だけあって、品の良い豪勢さ。建物は応仁の乱でほとんどが焼失し、現在のものは桃山時代から江戸時代初期の建物だそうです。そんな貴族のお屋敷みたいなリッチな空間を、たった一人で独占的にうろつけるのですから何という贅沢感! いつもは、どちらかというとこじんまりとした庶民的なお寺を訪問することが多いので、これは得難い体験でした。
本堂手前の「能の間」という建物には、晩年の小町を表したという「卒塔婆小町像」や小町ゆかりの「文張地蔵像」が安置されていました。中世になると仏教的無常観に影響されて、晩年の小町は零落して乞食女として放浪した、という伝説が広まります。また、若い頃の小町は美貌と才能を鼻にかけた驕慢な女で、言い寄るあまたの男たちをことごとく袖にした、とも。中でも、特に執心だった深草の少将は、百晩通ってくれたら貴方のものになりましょう、と小町に言われ、連日のハードウォーキングを重ねた挙句に、九十九日目に過労で死んでしまった。非情な女だ・・・ということになりました。このような小町像も、絶世の美女だったというのと同じく、現実の彼女とは全く関係のないフィクションですが、中世には広く信じられるようになって、しばしば能(謡曲)の題材にもなりました。
写真中央のお地蔵さまが「文張地蔵」。受け取った数多くの恋文を内貼りにして小町自身が作ったとされている張子の地蔵像です。写真左の立膝をした坐像が「卒塔婆小町像」。老いさらばえた晩年の小町の姿だそうです。小町老衰像としては京都市北部の補陀落寺のものも有名ですが、それ(写真で見たもの)に比べればだいぶ穏やかな作風に見えます。このテの小町像は奪衣婆像が転じたのではないか、とも言われています。この小町像を見ているうちに、倉敷・法輪寺で見た奪衣婆像が思い浮かびました。奪衣婆としては穏やかテイストの像だったけど、あれとよく似ているような・・・。ちなみに、その法輪寺は倉敷の小町伝説スポット。奪衣婆を含む閻魔大王&地獄メンバー群像は比較的最近、別の寺から移されたもので、小町とはまったく関係ないそうですが・・・。でも、不思議な縁ですよね。
※ 小町像を見付け、わーい、あった~!とばかりシャッターを切ってしまったけど、撮影禁止だったかもしれない(汗)。この後、本堂や襖絵を見学している時に「撮影禁止」と書いてあるのを見て、あっ!と思いましたが、後の祭り・・・。(建物や風景はいいみたいですが。) すみません、バチが当たるかな? 小町愛に免じて許してください。
別の部屋には、こんな小町ゆかりの品も展示されていました。深草少将が通って来る回数を数えるのに、小町が使ったという榧(かや)の実です。九十九個あるのかな? 深草少将があと一晩のところで非業の死を迎えた後、小町は少将を偲んでこの榧の実を少将の通い路に撒いた、という伝説もあり、その実が育って今もこの地には何本かの榧の木が残っているのだとか。となると、ここに実が保存されているのは矛盾ですね。ま、伝説だから・・・ね。そもそも深草少将というのは、能作者たちが創造した全くの架空の人物だそうです。つまり百夜通いの事件そのものが存在しなかったことになる!
まあ、そう言ってしまえば身も蓋もなくなりますが・・・。伝説はウソだから価値がないとは毛頭思いません。何百年も人々がそう信じ、思い入れを重ねれば、それはそれでもう立派な一つの“歴史”ですから。そういう点で、ここの小町伝説は舞台も小道具も揃っていて、リアルさ満点、見応えあります。何百年もの間に、小町を慕った地元の人々が微に入り細にわたってお膳立てしていったのでしょうね。深草少将が住んでいたとされるのは伏見のあたりだそうです。そこから東へ山を越えて、ここまで毎晩通うのだから確かにハードだ・・・って、架空にしてもよくできているわ~。
随心院の外にも、小町伝説スポットがいくつもありました。随心院のぐるり周囲も林というか緑地になっていて、「史跡・小町庭苑」となっています。塀に囲まれた随心院敷地内は拝観料の要るエリアですが、この「小町庭苑」は誰でも入れるフリースペース。そこに「小野小町化粧の井戸」や「文塚」などの史跡が点在しているのです。
他にも、「小町塚」「侍女の塚」とされる小さな一石五輪塔が竹林の中にありました。古くから寺域にある小野小町伝承の古石だとか。一種の供養塔でしょうか。
さらに調べたら、街なかにはもう1本「小町榧」があることが判りました。水路際の榧から北へほんの150mほど行った所。こちらもなかなか立派な姿で、ちゃんと説明版も備わっているらしい。それなりに下調べはしたつもりでしたが、もっと丁寧に調べておけばよかった・・・。知っていれば、近いのだから行ったのに・・・。残念。
まあ、また行く機会もあるかもしれません。実は、随心院から南に1.5kmくらい進んだ所にある「善願寺」というお寺にも小町榧があって、それにちなんだ縁起物を授与していると聞いたのですが、今回は巡りたいルートから外れてしまうため訪問は断念しました。そちらとセットで、また違う季節に訪れてみたいものです。
・・・ということで、京都旅第2日目、山科歩きはまだまだ続きます。次回へ・・・。