2014年 11月 08日
柳川交差点の「ロッヂ稲荷」 |
柳川ロータリービルに行ったついでに、以前『街歩きノオト』第4号の時にちょこっと取材した“可愛いタイル張りのお稲荷さん”に寄ってみました。ロータリー交差点の北東角、いくつかのビルが立ち並ぶすぐ裏手に、人知れず鎮座しているちっぽけなお稲荷さんです。住居表示でいうと、岡山市北区蕃山町。
『ノオト』第4号を作っていた6年ほど前、通りがかりに偶然発見しました。当時、ロータリーに面したビルの一つがたまたま建て替えで更地になっていたのですが、その後ろに赤い鳥居がちらりと覗いているのが目に留まり、えっ!こんな所に神社が?!とにわかに興味を掻き立てられたのがきっかけ。さっそく路地を入ってみて見つけたという次第です。柳川交差点はよく歩いて通りますが、建物の一筋裏にこんな通り抜けられる路地があったことも、そこに小さなお稲荷さんがあったことも、それまで全く気付いていませんでした。
↓ 柳川ロータリー北東角うらのお稲荷さん(2008年撮影)

そういう意外性もさることながら、このお稲荷さん、造りがとってもユニークなんです。祠は小さいながら木製の伝統的な形態なのですが(屋根は檜皮葺というなかなかのもの)、それが乗っている台がコンクリートブロックに上面タイル貼りという、妙に現代的というか洋風レトロモダンというか、とにかくかなりのミスマッチ。そのタイルも小さめの角タイルで、ピンクと水色で市松模様状に貼られている。そう、一昔前のレトロ洗面台みたいな感じで、けっこう可愛い。この、一般的神社様式からは離れたセルフメイド感が何とも言えず、気に入ってしまいました。どういう神社なのか、近所のお店で聞いてみましたが、その時は分からずじまい。ま、とりあえず、おもしろプチ・スポットということで、『ノオト』第4号に小さく載せました。

その後、前側のビルが建って大通りからは見えなくなってしまった上に、ここしばらくはわざわざ路地を入ってまでは訪ねていなかったので、どうなっているかちょっと心配になり、一昨日、通りかかったついでにふらりと寄ってみたわけです。すると路地に入った途端、そのお稲荷さんの前からすっと立ち去ろうとしている地元の人らしき人影が見えました。チャ~ンス!! こういうローカル祠は、お世話するなり拝むなりしている地元の信者さんにお話を伺うに限ります。6年前経ってようやくそういう機会が巡ってくるとは!
早足で近付きながら、「すいませ~ん!」と呼びかけたら、やや年配の女性が立ち止まってくれました。お稲荷さんのすぐ隣の家屋で居酒屋を営んでいる方だそうです。質問すると、いろいろ詳しく教えてくださいました。このお稲荷さんは、今はお世話をする人もほとんどおらず、隣で店をやっている自分と、その大家さん(家屋のあるじ)であるお年寄りの男性Kさんが気にかけているくらいなのだとか。より詳しい当事者というそのKさんまで呼び出してくださり、さらに詳細なお話を聞くことができました。

それによると、このお稲荷さんは戦前からある町内守護の神様なのだそうです。この辺は飲食店など商売をしている人たちが多かったので、商売繁盛の神様を町内で祀ろうということになり、高松最上稲荷から分霊してもらってお祀りした、と伝えられているとのこと。それは戦前のいつ頃のことなのか、明治なのか大正なのか、はたまたもっと古いのかは聞いていないので分からないそうですが。(古くとも明治以降でしょう。江戸時代のこの辺りは町人地ではないようですから。)
しかし、第二次世界大戦の岡山大空襲で一帯が焼野原となり、お稲荷さんも焼失。当時のお稲荷さんの位置は、今より交差点の中央寄りだったそうです。表通りに面した家々のすぐ裏という、今と同じような位置関係ではありましたが、当時、桃太郎大通りは今より道幅が狭く、柳川交差点も普通の角ばった(角を削っていない)交差点だったので、家並みのラインがずっとせり出していたのです。今、ロータリーの幅の広い歩道にある櫂の木の植え込み辺りが、当時の稲荷の位置だったかな、とのこと。今より一回り大きい境内で、狐の石像なども備えていましたが、その狐像も空襲で破壊されたそうです。
↓ 柳川ロータリー交差点、北東角の現状

焼けた家々はすぐにバラックのような形で再建され、商売を始めましたが、岡山市が戦後の都市計画に着手し、桃太郎大通りの道幅を広げ、交差点はロータリー状に角を削ることを決定。すぐさま町内に通告が来ました(昭和22~23年頃)。お稲荷さんも立ち退き該当エリアだったので、どうするか・・・となった時に、その新しい桃太郎大通り沿いに日本生命の大きなビルが建つ話も出てきた。現在は「岡山県開発公社ビル」になっている建物です(柳川交番が入っているビル)。このビルは敷地が面白い形になっていて、ビルが建っている四角い敷地の他に、その西奥に細長い三角形の敷地が延びているのです。この裏庭のような部分は、現在「花食」というガーデンカフェになっています。
Kさんはじめ当時の町内代表者は、このビルの関係者(日本生命の岡山支店長や建設会社)に掛け合って、その三角形敷地の先っぽに稲荷を置いてもらうことに成功したのだそうです。これが現状の稲荷の場所というわけ。ビル関係者も地元町内に配慮して折れたのだと思います。経費持ちで建ててくれたそう。その際、裏庭部分の塀に使ったコンクリートブロックの余りを利用したので、こんな台座になったのだとか。上面のタイルは、当時Kさんの家が経営していた銭湯の余り資材を使ったから。なるほど!これでブロック&タイルの訳が分かりました。昭和の銭湯のタイルか・・・。レトロ洗面台みたいと思ってたけど、道理でね!

銭湯は、稲荷の路地を北に抜けた先、河内屋という酒屋さんの東隣りにありました。現在は駐車場になっている所。Kさんの父親が戦後すぐ(昭和21年)に始めた銭湯で、焼野原にいち早く建てたのが大当たり、大いに繁盛したとか。昭和40年ごろまで営業。廃業後も建物は15年ほど前までは2011年頃までは残っていたそうです。とはいえ、改装して小さく区切り、飲食店をいくつも入れていたとのことで、元銭湯とは分かりにくい状態だったようです。このあたりは昔からよく歩いていたけど、そんなのあったっけ?と一瞬思いましたが、なるほどね、気付かなかったはずだ。それにしても、昔は至る所に銭湯があったのですね。
Kさん自身は、昭和35年に、路地沿いの稲荷のすぐ隣に「トリスバー・ロッヂ」(のちに「ニューロッジ山小屋」と改名)を開業し、しばらく経営していたそうです。この手のバーとしては岡山では戦後初だったそう。その評判の店「ロッジ」の隣の稲荷なので、人々はこのお稲荷さんを「ロッヂ稲荷」と呼んだとか。酔客がよく立小便をしたので、口の悪い人は「ロッヂのしょんべん稲荷」とも・・・。思えば、特に名前のないお稲荷さんなんですね。私は勝手に「タイルの稲荷」と呼んでいたけど、「ロッヂ稲荷」いい通称だなぁ、ちょっとレトロな響きで。
なお、この当初のバー「ロッヂ」はすでに閉店していますが、最初に稲荷で出会った女将さんが、ロッヂの名称を引き継いだ「居酒屋ロッヂ」を、同じ家屋の隣の間口で現在も営んでいます。だから、今でも「ロッヂ稲荷」という通称は充分当てはまるのです。

この稲荷は、最上稲荷から分霊してもらったということですが、厳密に言うと「冨吉稲荷大明神」と「浄光稲荷大明神」の2柱の御霊が祀られているそうです。扁額にもちゃんとこの2つの名称が列記されているとか。今は全く読めない状態ですが。なぜ、町内がよりによってこの稲荷神2柱を選んで勧請したのかは、伝えられていないので不明とのこと。「冨吉稲荷」は商売繁盛のご利益の神様、「浄光稲荷」は女性の守り神で、一説には拝むと美人になるそうですよ。おおっ、すごいご利益ですね!
最上稲荷は、仏教系の稲荷でれっきとした寺院です。神仏混淆が色濃く残っている珍しい宗教施設ですが・・・。なので、メインは仏教のお堂ですが、その周りに境内末社としてたくさんの神様が祀られています。その中から2柱を選んで分霊してもらった、ということのようです。
昔は毎年夏祭りも開催され、山車も出ていたそうですが、地域に子供が少なくなって廃止。ところが、近年また中心街にマンションが増え、町内の子供人口も急増したので、昨年から祭りが再開されたそうです。稲荷は幟や提灯で賑やかに飾られ、子供50人が山車を引いたとか。天神町の甚九郎稲荷(オリエント美術館裏にあるけっこう有名な稲荷)の祭礼に合わせ、7月14・15日が開催日だそう。もっとも、祭りはそれなりに盛大に催されたものの、肝心のお稲荷さんが分かりにくい立地なため、地域の人でもどの神社の祭りなのか分かっていない人が多いとか。
戦後消えそうになった稲荷を町内で何とか救ったいきさつを詳しく知る人も、今やKさんくらい。そのKさんも近頃は足腰が弱ってあまり動き回れないので、居酒屋ロッヂの女将さんに今はもっぱらお世話を任せているとのことです。草取りや掃除、お供え物やお賽銭箱の管理などを居酒屋の女将さんがして、あとは時々酒屋「河内屋」の奥さんがお供え花の世話をする、という感じらしい。町内のたった2~3人で、なんとか頑張って稲荷を維持しているのですね。本当に頭が下がります。世話をする人が高齢化したり、神社の由来を分かる人がいなくなったりして、消えた街角の祠をいくつも見ているだけに・・・。こういう小祠は、若い世代にとってはワケのわからない存在なうえ、単なる負担、邪魔物にしか映らないので、あっさりなくしてしまいがちなのですよ。

私がこの稲荷に気付くきっかけとなった赤い鳥居(木製)も、今はポッキリ折れて放置されたまま。同じようにまた鳥居を建てるには10万円くらいはかかるので、今の状況ではできない、と言います。次に続く世代に関心を持つ人が現れて、町内全体でお稲荷さんを盛り立てていけるようになることを、切に祈らずにはいられません。
こんなちっぽけな無名のお稲荷さんだけど、すごい由緒があるわけでもないけれど、戦前戦後の街の人々のつましくもたくましい暮らしぶりを反映したかのようなブロック&タイルのお稲荷さん。街角の物言わぬ(しかし姿で雄弁に語る)語り部として、ぜひとも末永く残っていって欲しいものです。
『ノオト』第4号を作っていた6年ほど前、通りがかりに偶然発見しました。当時、ロータリーに面したビルの一つがたまたま建て替えで更地になっていたのですが、その後ろに赤い鳥居がちらりと覗いているのが目に留まり、えっ!こんな所に神社が?!とにわかに興味を掻き立てられたのがきっかけ。さっそく路地を入ってみて見つけたという次第です。柳川交差点はよく歩いて通りますが、建物の一筋裏にこんな通り抜けられる路地があったことも、そこに小さなお稲荷さんがあったことも、それまで全く気付いていませんでした。
↓ 柳川ロータリー北東角うらのお稲荷さん(2008年撮影)

そういう意外性もさることながら、このお稲荷さん、造りがとってもユニークなんです。祠は小さいながら木製の伝統的な形態なのですが(屋根は檜皮葺というなかなかのもの)、それが乗っている台がコンクリートブロックに上面タイル貼りという、妙に現代的というか洋風レトロモダンというか、とにかくかなりのミスマッチ。そのタイルも小さめの角タイルで、ピンクと水色で市松模様状に貼られている。そう、一昔前のレトロ洗面台みたいな感じで、けっこう可愛い。この、一般的神社様式からは離れたセルフメイド感が何とも言えず、気に入ってしまいました。どういう神社なのか、近所のお店で聞いてみましたが、その時は分からずじまい。ま、とりあえず、おもしろプチ・スポットということで、『ノオト』第4号に小さく載せました。

その後、前側のビルが建って大通りからは見えなくなってしまった上に、ここしばらくはわざわざ路地を入ってまでは訪ねていなかったので、どうなっているかちょっと心配になり、一昨日、通りかかったついでにふらりと寄ってみたわけです。すると路地に入った途端、そのお稲荷さんの前からすっと立ち去ろうとしている地元の人らしき人影が見えました。チャ~ンス!! こういうローカル祠は、お世話するなり拝むなりしている地元の信者さんにお話を伺うに限ります。6年前経ってようやくそういう機会が巡ってくるとは!
早足で近付きながら、「すいませ~ん!」と呼びかけたら、やや年配の女性が立ち止まってくれました。お稲荷さんのすぐ隣の家屋で居酒屋を営んでいる方だそうです。質問すると、いろいろ詳しく教えてくださいました。このお稲荷さんは、今はお世話をする人もほとんどおらず、隣で店をやっている自分と、その大家さん(家屋のあるじ)であるお年寄りの男性Kさんが気にかけているくらいなのだとか。より詳しい当事者というそのKさんまで呼び出してくださり、さらに詳細なお話を聞くことができました。

それによると、このお稲荷さんは戦前からある町内守護の神様なのだそうです。この辺は飲食店など商売をしている人たちが多かったので、商売繁盛の神様を町内で祀ろうということになり、高松最上稲荷から分霊してもらってお祀りした、と伝えられているとのこと。それは戦前のいつ頃のことなのか、明治なのか大正なのか、はたまたもっと古いのかは聞いていないので分からないそうですが。(古くとも明治以降でしょう。江戸時代のこの辺りは町人地ではないようですから。)
しかし、第二次世界大戦の岡山大空襲で一帯が焼野原となり、お稲荷さんも焼失。当時のお稲荷さんの位置は、今より交差点の中央寄りだったそうです。表通りに面した家々のすぐ裏という、今と同じような位置関係ではありましたが、当時、桃太郎大通りは今より道幅が狭く、柳川交差点も普通の角ばった(角を削っていない)交差点だったので、家並みのラインがずっとせり出していたのです。今、ロータリーの幅の広い歩道にある櫂の木の植え込み辺りが、当時の稲荷の位置だったかな、とのこと。今より一回り大きい境内で、狐の石像なども備えていましたが、その狐像も空襲で破壊されたそうです。
↓ 柳川ロータリー交差点、北東角の現状

焼けた家々はすぐにバラックのような形で再建され、商売を始めましたが、岡山市が戦後の都市計画に着手し、桃太郎大通りの道幅を広げ、交差点はロータリー状に角を削ることを決定。すぐさま町内に通告が来ました(昭和22~23年頃)。お稲荷さんも立ち退き該当エリアだったので、どうするか・・・となった時に、その新しい桃太郎大通り沿いに日本生命の大きなビルが建つ話も出てきた。現在は「岡山県開発公社ビル」になっている建物です(柳川交番が入っているビル)。このビルは敷地が面白い形になっていて、ビルが建っている四角い敷地の他に、その西奥に細長い三角形の敷地が延びているのです。この裏庭のような部分は、現在「花食」というガーデンカフェになっています。
Kさんはじめ当時の町内代表者は、このビルの関係者(日本生命の岡山支店長や建設会社)に掛け合って、その三角形敷地の先っぽに稲荷を置いてもらうことに成功したのだそうです。これが現状の稲荷の場所というわけ。ビル関係者も地元町内に配慮して折れたのだと思います。経費持ちで建ててくれたそう。その際、裏庭部分の塀に使ったコンクリートブロックの余りを利用したので、こんな台座になったのだとか。上面のタイルは、当時Kさんの家が経営していた銭湯の余り資材を使ったから。なるほど!これでブロック&タイルの訳が分かりました。昭和の銭湯のタイルか・・・。レトロ洗面台みたいと思ってたけど、道理でね!

銭湯は、稲荷の路地を北に抜けた先、河内屋という酒屋さんの東隣りにありました。現在は駐車場になっている所。Kさんの父親が戦後すぐ(昭和21年)に始めた銭湯で、焼野原にいち早く建てたのが大当たり、大いに繁盛したとか。昭和40年ごろまで営業。廃業後も建物は
Kさん自身は、昭和35年に、路地沿いの稲荷のすぐ隣に「トリスバー・ロッヂ」(のちに「ニューロッジ山小屋」と改名)を開業し、しばらく経営していたそうです。この手のバーとしては岡山では戦後初だったそう。その評判の店「ロッジ」の隣の稲荷なので、人々はこのお稲荷さんを「ロッヂ稲荷」と呼んだとか。酔客がよく立小便をしたので、口の悪い人は「ロッヂのしょんべん稲荷」とも・・・。思えば、特に名前のないお稲荷さんなんですね。私は勝手に「タイルの稲荷」と呼んでいたけど、「ロッヂ稲荷」いい通称だなぁ、ちょっとレトロな響きで。
なお、この当初のバー「ロッヂ」はすでに閉店していますが、最初に稲荷で出会った女将さんが、ロッヂの名称を引き継いだ「居酒屋ロッヂ」を、同じ家屋の隣の間口で現在も営んでいます。だから、今でも「ロッヂ稲荷」という通称は充分当てはまるのです。

この稲荷は、最上稲荷から分霊してもらったということですが、厳密に言うと「冨吉稲荷大明神」と「浄光稲荷大明神」の2柱の御霊が祀られているそうです。扁額にもちゃんとこの2つの名称が列記されているとか。今は全く読めない状態ですが。なぜ、町内がよりによってこの稲荷神2柱を選んで勧請したのかは、伝えられていないので不明とのこと。「冨吉稲荷」は商売繁盛のご利益の神様、「浄光稲荷」は女性の守り神で、一説には拝むと美人になるそうですよ。おおっ、すごいご利益ですね!
最上稲荷は、仏教系の稲荷でれっきとした寺院です。神仏混淆が色濃く残っている珍しい宗教施設ですが・・・。なので、メインは仏教のお堂ですが、その周りに境内末社としてたくさんの神様が祀られています。その中から2柱を選んで分霊してもらった、ということのようです。
昔は毎年夏祭りも開催され、山車も出ていたそうですが、地域に子供が少なくなって廃止。ところが、近年また中心街にマンションが増え、町内の子供人口も急増したので、昨年から祭りが再開されたそうです。稲荷は幟や提灯で賑やかに飾られ、子供50人が山車を引いたとか。天神町の甚九郎稲荷(オリエント美術館裏にあるけっこう有名な稲荷)の祭礼に合わせ、7月14・15日が開催日だそう。もっとも、祭りはそれなりに盛大に催されたものの、肝心のお稲荷さんが分かりにくい立地なため、地域の人でもどの神社の祭りなのか分かっていない人が多いとか。
戦後消えそうになった稲荷を町内で何とか救ったいきさつを詳しく知る人も、今やKさんくらい。そのKさんも近頃は足腰が弱ってあまり動き回れないので、居酒屋ロッヂの女将さんに今はもっぱらお世話を任せているとのことです。草取りや掃除、お供え物やお賽銭箱の管理などを居酒屋の女将さんがして、あとは時々酒屋「河内屋」の奥さんがお供え花の世話をする、という感じらしい。町内のたった2~3人で、なんとか頑張って稲荷を維持しているのですね。本当に頭が下がります。世話をする人が高齢化したり、神社の由来を分かる人がいなくなったりして、消えた街角の祠をいくつも見ているだけに・・・。こういう小祠は、若い世代にとってはワケのわからない存在なうえ、単なる負担、邪魔物にしか映らないので、あっさりなくしてしまいがちなのですよ。

私がこの稲荷に気付くきっかけとなった赤い鳥居(木製)も、今はポッキリ折れて放置されたまま。同じようにまた鳥居を建てるには10万円くらいはかかるので、今の状況ではできない、と言います。次に続く世代に関心を持つ人が現れて、町内全体でお稲荷さんを盛り立てていけるようになることを、切に祈らずにはいられません。
こんなちっぽけな無名のお稲荷さんだけど、すごい由緒があるわけでもないけれど、戦前戦後の街の人々のつましくもたくましい暮らしぶりを反映したかのようなブロック&タイルのお稲荷さん。街角の物言わぬ(しかし姿で雄弁に語る)語り部として、ぜひとも末永く残っていって欲しいものです。
by machiarukinote
| 2014-11-08 15:50
| 街歩きレポート
|
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