2014年 01月 15日
阪神の吉備真備ゆかりの地(その1) |
この連休を利用して、阪神エリアの真備ゆかりの地を訪ねてきました。
まずは尼崎市の「吉備彦神社」。ごく最近、偶然知ったスポットです。実はこの神社の名、昨年10月に、清心温泉が参戦する「ニッポン銭湯王国inひょうご」を見に、尼崎を訪れた際に見掛けていました。ちょうどこの神社の例祭の時期だったらしく、JR尼崎駅周辺で「吉備彦神社」と書かれたのぼりを沢山見掛けました。バスの車窓からだったので、その神社自体を確かめることもなく通り過ぎましたが、意外な場所で目にした「吉備」という文字に思わず反応した次第です。吉備津彦を祀っているのかなぁ、とぼんやり考えたりしながら…。
今年に入って、何気なく吉備真備をググっていた時、偶然出てきたのが「吉備彦神社」。祭神は吉備真備と書かれています。場所は尼崎…って、あれじゃん!と飛びあがりました。あの神社、吉備津彦じゃなくて真備を祀っていたんですね! それにしても、こんな所に真備を祀る神社があるなんて初耳です。私が訪ね歩いている真備関連史跡は、真備を扱った大抵の書物で紹介されているものばかりです。鳥取の賀露神社も、姫路の広峯神社も、橿原市の御厨子観音も、京都の金戒光明寺も。しかし、尼崎の吉備彦神社を紹介している本や文献はまだ見たことがありません。やったね~、大発見!
ということで、さっそく現地へ。もちろん前回同様、山陽本線の普通列車を延々乗り継いで向かいました。吉備彦神社はJR尼崎駅から歩いて行けます。徒歩15分くらいだったかな。バス通りから一筋入った静かな住宅街の中、新しいきれいな家と古い木造家屋が混在しているような地域です。玉垣が廻らされた境内はまずまずの広さで、いかにも地域の氏神様というのどかな雰囲気。
↓ 吉備彦神社 全景

↓ 吉備彦神社 社殿

地元ではありふれたローカル神社という扱いなのか、特に神社の歴史を記した解説板などは見当たらず。ただ、敷地から貝塚が発見され発掘調査されたというのがこの地域では有名らしく、その貝塚(金楽寺貝塚)の説明図はありました。境内に掲げられている簡単な神社案内によると、「祭神吉備大神は、天文、暦学、産業繁栄、音楽、囲碁、災害除けの守護神として鎮座せらる。」とのことです。
それらのご利益は、まさにおなじみ真備伝説の定番トピック。そしてご丁寧にも、拝殿正面の軒下には、こんな(↓)吉備大臣入唐絵巻ばりの奉納絵馬まで掲げられています。
↓ 吉備彦神社の拝殿軒下に掲げられている奉納絵馬

↓ その中央部分拡大図(ピンボケ気味なのは、絵の表面に保護の透明板があるため)

上の方から、太陽と月を術で隠す真備、囲碁対決、阿倍仲麻呂の霊と出会う真備、といった場面が見てとれますね。ボストン美術館所蔵のあの有名な絵巻とは全く違う、オリジナルな絵画表現なのが目を引きます。古びてボロボロになった江戸時代あたりの古い絵馬を、比較的新しい時代(額の下部に「皇紀貳千六百年」とあるので昭和15年?)に模写復元したものじゃないかと推測しているのですが、元々の絵馬を描いた人は、たぶんあの入唐絵巻を見たことなかったんだろうなぁ。絵巻は殿様や豪商クラスのレベルで伝来されており、一般人は見られなかっただろうから。高楼で大見栄切って術を施す真備が芝居絵風だったり、仲麻呂の霊が鬼ではなく幽霊の姿だったり、となかなか面白い。「江談抄」などに記されているストーリーのほうから直接、画家が独自で構想して描いたものなのか…。
遣唐使船で真備が帰国するシーンでしょうか、真備の横の洋上に男女二人の幽霊がいる、という何の場面だか分からない絵もあって、興味をそそられます(↓)。そんな伝説あったっけ? 知られざる1エピソード??

神社の歴史や言い伝えなどいろいろ聞きたかったのですが、無人の神社なので尋ねる相手も見当たりません。尼崎市の神社組織HPでは、近くの別の神社が問合せ先になっていたので、その神社に行ってみました。突然にもかかわらず、宮司さんが丁寧に対応してくれましたが、HPに載せている以上のことは知らないのです、とのこと。
それらの解説を合わせると、由来は次の通り。吉備真備が当地方を領せられた時、錦の袋に入れて持ち帰った唐の土をこの地に埋めて錦楽寺という寺を建てた。一方、土地の人は寺の脇に「一品天神」として真備を祀った。のち寺は廃れたが、真備を祀った祠のほうは残って、これが吉備彦神社となった・・・のだそうです。
↓ 拝殿の屋根瓦に刻まれている「吉備大臣」と「一品宮」の文字

このあたりの町名は「金楽寺」というのですが、これは真備の建てたという「錦楽寺」から来ているそう。地名に名を残しているのですね。吉備彦神社東隣の「金楽寺愛郷会館」(地域の集会所?)の玄関脇にある小さな祠が、その「錦楽寺」の唯一の名残りだそうです。まあ、昔はたいてい神仏混淆で神と仏はセットで祀られていたから、たまたまここは神のほうが残って発展したということなのでしょう。
しかし、真備がこの地方を領したことなんて、あったっけ? 瀬戸内海の港町なので遣唐使の帰路にでも寄った、っていう話なのかなと、てっきり思っていたのですが??(姫路の広峯神社はそういうことになっている。) 実際のところ、どういう縁でここに真備が祀られているのか? このあたり尼崎市には牛頭天王を祀った寺社が多いそうですが、それと関係ある? 牛頭天王信仰は真備が唐から伝えたことになっていて、広峯神社はまさにそれを創建の由来にしています。この吉備彦神社はそのローカルミニ版なのでしょうか?
ちなみに、なんで吉備「彦」なんだろう? 「吉備津彦」と紛らわしいな~、どこかの時点で混線しちゃってるんじゃないの、例えば、本来は吉備津彦信仰だったのが、周囲の牛頭天王信仰に引きずられて真備信仰になっちゃったとか…、という考えも頭をよぎりました。しかし、正面の石鳥居の扁額は「吉備彦神社」でしたが、拝殿内に掲げられている扁額は「吉備神社」でした。もともとは「吉備神社」だったのが、有名な吉備津彦につられて「吉備彦」になったのか?? そもそも尼崎は摂津の国なのに、なんで吉備なの? 吉備出身者コミュニティでもあった?それとも、陰陽師集団でもいた? とにかく謎だらけの神社です。
まずは尼崎市の「吉備彦神社」。ごく最近、偶然知ったスポットです。実はこの神社の名、昨年10月に、清心温泉が参戦する「ニッポン銭湯王国inひょうご」を見に、尼崎を訪れた際に見掛けていました。ちょうどこの神社の例祭の時期だったらしく、JR尼崎駅周辺で「吉備彦神社」と書かれたのぼりを沢山見掛けました。バスの車窓からだったので、その神社自体を確かめることもなく通り過ぎましたが、意外な場所で目にした「吉備」という文字に思わず反応した次第です。吉備津彦を祀っているのかなぁ、とぼんやり考えたりしながら…。
今年に入って、何気なく吉備真備をググっていた時、偶然出てきたのが「吉備彦神社」。祭神は吉備真備と書かれています。場所は尼崎…って、あれじゃん!と飛びあがりました。あの神社、吉備津彦じゃなくて真備を祀っていたんですね! それにしても、こんな所に真備を祀る神社があるなんて初耳です。私が訪ね歩いている真備関連史跡は、真備を扱った大抵の書物で紹介されているものばかりです。鳥取の賀露神社も、姫路の広峯神社も、橿原市の御厨子観音も、京都の金戒光明寺も。しかし、尼崎の吉備彦神社を紹介している本や文献はまだ見たことがありません。やったね~、大発見!
ということで、さっそく現地へ。もちろん前回同様、山陽本線の普通列車を延々乗り継いで向かいました。吉備彦神社はJR尼崎駅から歩いて行けます。徒歩15分くらいだったかな。バス通りから一筋入った静かな住宅街の中、新しいきれいな家と古い木造家屋が混在しているような地域です。玉垣が廻らされた境内はまずまずの広さで、いかにも地域の氏神様というのどかな雰囲気。
↓ 吉備彦神社 全景

↓ 吉備彦神社 社殿

地元ではありふれたローカル神社という扱いなのか、特に神社の歴史を記した解説板などは見当たらず。ただ、敷地から貝塚が発見され発掘調査されたというのがこの地域では有名らしく、その貝塚(金楽寺貝塚)の説明図はありました。境内に掲げられている簡単な神社案内によると、「祭神吉備大神は、天文、暦学、産業繁栄、音楽、囲碁、災害除けの守護神として鎮座せらる。」とのことです。
それらのご利益は、まさにおなじみ真備伝説の定番トピック。そしてご丁寧にも、拝殿正面の軒下には、こんな(↓)吉備大臣入唐絵巻ばりの奉納絵馬まで掲げられています。
↓ 吉備彦神社の拝殿軒下に掲げられている奉納絵馬

↓ その中央部分拡大図(ピンボケ気味なのは、絵の表面に保護の透明板があるため)

上の方から、太陽と月を術で隠す真備、囲碁対決、阿倍仲麻呂の霊と出会う真備、といった場面が見てとれますね。ボストン美術館所蔵のあの有名な絵巻とは全く違う、オリジナルな絵画表現なのが目を引きます。古びてボロボロになった江戸時代あたりの古い絵馬を、比較的新しい時代(額の下部に「皇紀貳千六百年」とあるので昭和15年?)に模写復元したものじゃないかと推測しているのですが、元々の絵馬を描いた人は、たぶんあの入唐絵巻を見たことなかったんだろうなぁ。絵巻は殿様や豪商クラスのレベルで伝来されており、一般人は見られなかっただろうから。高楼で大見栄切って術を施す真備が芝居絵風だったり、仲麻呂の霊が鬼ではなく幽霊の姿だったり、となかなか面白い。「江談抄」などに記されているストーリーのほうから直接、画家が独自で構想して描いたものなのか…。
遣唐使船で真備が帰国するシーンでしょうか、真備の横の洋上に男女二人の幽霊がいる、という何の場面だか分からない絵もあって、興味をそそられます(↓)。そんな伝説あったっけ? 知られざる1エピソード??

神社の歴史や言い伝えなどいろいろ聞きたかったのですが、無人の神社なので尋ねる相手も見当たりません。尼崎市の神社組織HPでは、近くの別の神社が問合せ先になっていたので、その神社に行ってみました。突然にもかかわらず、宮司さんが丁寧に対応してくれましたが、HPに載せている以上のことは知らないのです、とのこと。
それらの解説を合わせると、由来は次の通り。吉備真備が当地方を領せられた時、錦の袋に入れて持ち帰った唐の土をこの地に埋めて錦楽寺という寺を建てた。一方、土地の人は寺の脇に「一品天神」として真備を祀った。のち寺は廃れたが、真備を祀った祠のほうは残って、これが吉備彦神社となった・・・のだそうです。
↓ 拝殿の屋根瓦に刻まれている「吉備大臣」と「一品宮」の文字

このあたりの町名は「金楽寺」というのですが、これは真備の建てたという「錦楽寺」から来ているそう。地名に名を残しているのですね。吉備彦神社東隣の「金楽寺愛郷会館」(地域の集会所?)の玄関脇にある小さな祠が、その「錦楽寺」の唯一の名残りだそうです。まあ、昔はたいてい神仏混淆で神と仏はセットで祀られていたから、たまたまここは神のほうが残って発展したということなのでしょう。
しかし、真備がこの地方を領したことなんて、あったっけ? 瀬戸内海の港町なので遣唐使の帰路にでも寄った、っていう話なのかなと、てっきり思っていたのですが??(姫路の広峯神社はそういうことになっている。) 実際のところ、どういう縁でここに真備が祀られているのか? このあたり尼崎市には牛頭天王を祀った寺社が多いそうですが、それと関係ある? 牛頭天王信仰は真備が唐から伝えたことになっていて、広峯神社はまさにそれを創建の由来にしています。この吉備彦神社はそのローカルミニ版なのでしょうか?
ちなみに、なんで吉備「彦」なんだろう? 「吉備津彦」と紛らわしいな~、どこかの時点で混線しちゃってるんじゃないの、例えば、本来は吉備津彦信仰だったのが、周囲の牛頭天王信仰に引きずられて真備信仰になっちゃったとか…、という考えも頭をよぎりました。しかし、正面の石鳥居の扁額は「吉備彦神社」でしたが、拝殿内に掲げられている扁額は「吉備神社」でした。もともとは「吉備神社」だったのが、有名な吉備津彦につられて「吉備彦」になったのか?? そもそも尼崎は摂津の国なのに、なんで吉備なの? 吉備出身者コミュニティでもあった?それとも、陰陽師集団でもいた? とにかく謎だらけの神社です。
by machiarukinote
| 2014-01-15 16:59
| 街歩きレポート
|
Comments(2)
初めまして。僕も吉備真備公に興味を持って調べていたらこのblogにたどり着きまして、楽しく読ませて頂きました(*^^*)
確かにここの神社さん、祀られるまでのご縁が謎ですね。陰陽師といえば、芦屋道満がいた民間陰陽師集団がお隣の播磨国なので、もしかするとそちらで何らかの関係があった…のかも??僕も一度吉備彦神社さんに足を運んでみたいと思います!
確かにここの神社さん、祀られるまでのご縁が謎ですね。陰陽師といえば、芦屋道満がいた民間陰陽師集団がお隣の播磨国なので、もしかするとそちらで何らかの関係があった…のかも??僕も一度吉備彦神社さんに足を運んでみたいと思います!
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コメントありがとうございます。
この6月に訪ねた和歌山県有田川町の吉備大臣伝説は、ブログにも書きましたが、もともとは吉備津彦信仰から始まったようです。岡山の吉備津彦神社に、そっちに分霊したという記録があるとか。そんなことから、尼崎の吉備彦神社もそのパターンかな、と思い始めています。有田川町は、その後、都からの御霊信仰の影響を受けて吉備大臣に変化したようですが、尼崎の場合、確かに民間陰陽師の勢力の強い一帯らしいから、その影響があったのでしょうか。
岡山の吉備津彦神社・吉備津神社にも行かなくては、と思っています。調べれば調べるほど謎が深まって大きな話になってしまい、いつになったらまとめられるのやら、という感じです。
この6月に訪ねた和歌山県有田川町の吉備大臣伝説は、ブログにも書きましたが、もともとは吉備津彦信仰から始まったようです。岡山の吉備津彦神社に、そっちに分霊したという記録があるとか。そんなことから、尼崎の吉備彦神社もそのパターンかな、と思い始めています。有田川町は、その後、都からの御霊信仰の影響を受けて吉備大臣に変化したようですが、尼崎の場合、確かに民間陰陽師の勢力の強い一帯らしいから、その影響があったのでしょうか。
岡山の吉備津彦神社・吉備津神社にも行かなくては、と思っています。調べれば調べるほど謎が深まって大きな話になってしまい、いつになったらまとめられるのやら、という感じです。

