京都・奈良② ~薬師寺水煙/子嶋寺と田村麻呂~ |
この秋の奈良観光の最大の売り物といえば、薬師寺の「東塔水煙降臨展」(9月16日~11月30日)でしょう。薬師寺で唯一の創建当初からの建造物である東塔(国宝)は、現在大がかりな解体修理中で見ることはできません。その代わり、塔のてっぺんにあり、普段は遠くから眺めるしかない水煙(火災除けの願いを込めた金属製の装飾)が地上に降ろされ、間近に見られる、というのが今回の特別展です。薬師寺東塔はフェノロサが「凍れる音楽」と絶賛したとも言われる名塔で、中でもその水煙は、大勢の天女が舞翔ぶ繊細な意匠が超有名。教科書等で目にした覚えのある人も多いことと思います。この水煙が地上に降りるのは、前回の修理以来61年ぶりなのだとか。まさに一生に一回のチャンスです。迷わず見に行ってきました。
水煙降臨展は、白鳳伽藍の外の敷地内に仮設された巨大な倉庫みたいな会場で開催されていました。本来は修理に使う材木の保管庫だそうです。水煙のほか、宝輪(水煙の下に付く9つの輪)、塔内に安置されている四天王像なども展示されています。間近に見る宝輪は、一つ一つがタイヤみたいに大きくてびっくり。水煙(↓)は4つの面を十文字に組み合わせたものですが、一面だけでも小さめのドアくらいある。もっとも、こちらは細工が繊細なせいか、それほどバカでかい!という印象ではありませんでしたが。
やがて会場に薬師寺のお坊さんがやって来て、展示品の解説が始まりました。連休の祭日でしたが朝一番のせいか、まだそれほどの人出ではありません。少人数でじっくり解説を聞くことができました。名物管長だった高田好胤師以来の伝統か、お坊さん、話がとっても上手。おまけに特別展のパンフレットや御朱印、グッズ類の売り込みもしっかり・・・。イヤミでない程度に、しかし思わず欲しくなるような話術はさすがでした。ちなみに、この会場とは別の所で法話(薬師寺全体の解説など)をした若手のお坊さん(薬師寺で一番下っ端の20台半ば、だそうです)もユーモアたっぷりで話し上手でした。こちらもしっかり写経勧進の宣伝をしていた。好胤師の伝統は脈々と受け継がれているようです。
水煙に話を戻しますね。間近に見ると本当に良くできているのがいっそう分かります。約1300年も風雨に耐えてきたとは思えない。収蔵庫に大切に保管されてきたわけではなく、塔のてっぺんで雨ざらしだったのですから。奇跡だな~。 美術的な面でも、繊細な技術とアルカイック(古様)な造形との絶妙なバランスが何とも言えず、圧倒されました。舞い翔ぶ天人たちの姿は優雅でありながら、素朴な愛らしさも・・・。古代ギリシアの黒絵式の壺絵を連想しました。より洗練された赤絵式に比べると古拙なんだけど、単純化されたフォルムがかえってデザイン的にカッコいい、・・・あれと同じような魅力を感じます。
時間が経つにつれてだんだん見学者が多くなってきましたが、それでも京都の観光地や東京の展覧会などに比べれば全然ゆったりしている。連休の祭日なのにね。いかにも奈良基準って感じです。充分時間をかけてじっくり見学できました。
さて、奈良でもう一か所訪ねたのは、近鉄吉野線「壺阪山」駅近くの子嶋寺。昨年秋に一度行ったのに閉まっていて見学できなかった、いわくつきのお寺です(→前ブログ)。
↓ 子嶋寺(高市郡高取町)
子嶋寺は、備前四十八ヶ寺で知られた(←岡山では)報恩大師ゆかりのお寺。報恩大師が創建して、最晩年を過ごした所と言われています。『街歩きノオト』第11号で報恩大師を取りあげた縁もあり、ぜひ拝観したいと思っていました。詳しくは前ブログをご覧いただくとして、このお寺はまあいろいろあって、現在は週1回火曜日にしか開けていないとのこと。今回ちょうど火曜日に当たっていたので、やった~!と訪問を決めたわけですが、少々不安もあったので、念のため事前に、ここを管理している橿原市の久米寺に電話で確認しました。こちらが訪問を希望する日時を告げると、えーっと、その日なら人を遣れますので大丈夫です、と言います。必ずしも毎週火曜日に開けているわけではなさそう。あとで聞いたら、一応火・木を公開日としているが、開けてもまったく人が来ない時があるので、拝観は基本予約制、とのことでした。子嶋寺に行く人は気を付けてね!
久米寺の関係者と思われる中年の女性が、本堂を開けてくれていました。もともとこのお寺の人ではないので、子嶋寺についてはあまり詳しくないよう。ちょっと残念ですが、たった一人の拝観者のためにわざわざ車で来て待機していてくれたのですから、贅沢は言えません。
子嶋寺の最大の寺宝といえば、なんといっても国宝(!)の両界曼荼羅図。濃い紺地に金泥で細密に描かれた、2幅の巨大な曼荼羅図の名品です(約3mx3.5m)。が、これは現在、奈良国立博物館に寄託されていて、ここでは見ることができません。奈良国立博でも常時展示されているわけではないので、なかなかお目にかかれる機会はないのですが、実はつい最近、今年8月20日~9月16日に特別展「みほとけのかたち」の中で出展されていたのです。この時期にうまいこと奈良に行く機会を得られず、見逃しました(涙~!)。
もう一つの寺宝は、国重文の木造十一面観音立像。2mを超える一木造りの堂々たる名品ですが、やはりここにはなく、東京国立博物館に寄託されています。でも、こちらは常設展の常連なので、私もたびたび実物を拝見しています。寺伝では、桓武天皇の念持仏で、報恩大師が自ら彫ったとされているそうです。学術的には平安時代9世紀の作とか。
そんなわけで、すごいモノは持ち出されてしまっているため、お堂に残っているのは雑多なローカル仏ばかりですが、これが結構面白い。中腰のような珍しい立ち姿の大国天をはじめ、雨乞い用の龍の木像、二代目住職・延鎮の像、不動明王と脇侍、高取城主の念持仏だったという観音様、秘仏の聖天様(厨子に入っていて中は見えない)などなど。中でも驚いたのは、坂上田村麻呂の木像。田村麻呂が自ら彫ったとされています。
↓ 子嶋寺所蔵の坂上田村麻呂の像(絵葉書より)
六道珍皇寺で小野篁に“会って”きたばかりだというのに、思いがけず田村麻呂にも出会うとは、まるで小説『鬼の橋』をたどるような旅になってきました! しかも、田村麻呂像の脇をよくよく見れば、何やら新聞記事の切り抜きが大事そうに置いてあるではありませんか。ざっと眼を通して、ええっ!とコーフン。全然知らなかったけど、ここ高取は田村麻呂ゆかりの地だったのですね。しかも、伝承が史実として実証されつつあるという。
その新聞記事によると、渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の一族である坂上氏は、高取町大字観覚寺(子嶋寺のある一帯)を本貫の地(本籍地)としており、ここに田村麻呂の邸宅があったとする伝承もあるが、2006年の発掘で実際に、渡来系の特徴を持つ奈良時代後半から平安時代初めにかけての建物の跡が発見された。田村麻呂の伝承と結び付く可能性もある、とのこと。
新聞記事ではさらに、普段は都に住んでいたであろう田村麻呂も、何かの折に里帰りでここを訪れたかも・・・、と歴史ロマンに思いを馳せています。奈良や京都とここはそう離れていないから、あり得るでしょうね。少なくとも、吉備真備が真備町に帰ったことがあるか論争よりかは、はるかに可能性高いかな。
しかし、田村麻呂像を目にするまでは失念していたけど、この子嶋寺が田村麻呂と縁深いのも、京都・清水寺の縁起を考えれば当然のことです。清水の舞台で有名な観光地・清水寺を開いたのは、この子嶋寺の二代目住職・延鎮(報恩大師の弟子)で、その創建には坂上田村麻呂も関わっているのです。
伝承よると、子嶋寺の延鎮は、夢のお告げに従って京都・音羽山で滝行をしていた時、不思議な老修行者(実は観音の化身)に出会い、庵と霊木を託されます。延鎮がその霊木で千手観音を刻み、庵に安置して修行を続けていると、そこへ偶然、狩猟中の坂上田村麻呂がやって来ます。病気の妻に与えようと、薬になる鹿の生き血を求めて山に入っていたのですが、延鎮に殺生をいさめられ、観音に深く帰依して、自邸を寺として寄進します。これが清水寺のはじまりで、のちに征夷大将軍として大成功を収めた田村麻呂は、延鎮と協力して本堂を本格的に造り直し、これが今につながる清水寺になったといいます。
子嶋寺の延鎮とこの地を本貫地とする田村麻呂、この二人によって開かれた清水寺は、そんなわけで、最初は子嶋寺の支坊という扱いだったとか。田村麻呂は古代の大英雄なので、彼が創建したといわれる寺社は各地にあるようですが、ほとんどが伝説に過ぎないのに対し、京都の清水寺だけは田村麻呂が関わっているのは史実であろう、と考えられているそうです。
延鎮と田村麻呂の組み合わせは、これまで何となく唐突に感じていたのですが、高取のこの地という共通点があったのですね。坂上一族の出身地なんて考えたこともなかったので、この子嶋寺を訪ねたおかげで大変勉強になりました。やっぱり来て良かった~!
↓ 子嶋寺の千寿堂(本堂横の小堂) 高取城主の念持仏や秘仏の聖天が祀られている。
霊感のある人に言わせると、すごいパワーを感じさせる所なんだとか。
↓ 子嶋寺のすぐ南にある龍王の池。ここの祠で雨乞いをしたという。