2013年 01月 07日
矢掛町~真備町“吉備真備伝説エリア”新春の再訪 |
初詣、行って来ました。ここ数年、恒例になっている番町(岡山市北区)の伊勢神社へ。これまた恒例の、温かいふるまい甘酒もありがたくいただきました。ウチのエリアの氏神様は本当は岡山神社(岡山市北区石関町)なのですが、新年はいつも混んでいるここより、落ち着いた佇まいの伊勢神社のほうが居心地良くて、ついここへ足が向いてしまうのです。伊勢神社のレポートは昨年のお正月に書いているので、ここでは省略。関心のある方は、2012年1月5日付けの当ブログをご覧ください(→コチラ)。
さて、三が日は過ぎましたが、久々に岡山の吉備真備エリアを詣でようということで、1月5日に小田郡矢掛町~倉敷市真備町へ行ってきました。東京にいる甥っ子が今年、大学受験なので、合格祈願のお守りでも送ろうと思って。恐らく信心深い祖母(つまり私の母)が湯島天神か亀戸天神で天神様こと菅原道真にしっかり祈願していることでしょうが、もう一人の古代の偉大なる学者大臣・真備さんにもお祈りしとかなくちゃ片手落ちでしょ。東京の人には吉備真備なんてピンとこないかもしれないし、余計なお節介でしょうけど、まあ私の自己満足というか訪問の口実ということで・・・。
矢掛町~真備町あたりの地元の人たちにとっては、吉備大臣はポピュラーな受験の神様だと聞いています。お正月頃はちょうど受験シーズン前ということもあり、その方面の祈願者がけっこう訪れるのだとか。真備町側の「まきび公園」も矢掛町側の「吉備真備公園」も普段はひっそりしているので、たまには賑やかな時に訪れてみたい、という思いもありました。
井原鉄道の三谷駅で降りて、まず「吉備真備公園」に向かいました。徒歩で15分くらいでしょうか。何度目かの道なので意外に近く感じました。公園に隣接した(というかその一画にある)「吉備大臣宮」にまず直行すると、やった~!社務所が開いています。いつ行っても開いていた試しがないんだよね。三が日を過ぎていたのでどうかな…と心配していたのですが、よかった。さっそくお守りを求めます。ほとんどのお守りが300円~500円というありがたい価格設定!お守りはビニールケース入りのわりと簡単な造りのものが主流でしたが、合格祈願の肌守だけは錦のお守り袋入りの見栄えのするものでした。やはりこの祈願に訪れる人が多いせいで、特にここに力を入れているのかな。ビニールケース入りのも、それぞれ鮮やかな緑・紫・赤の3種類の台紙のものが用意されていて、シンプルな割にナイスな見た目。毎年来て色違いを揃えようかな、なんて思わず考えてしまった・・・。
↓ 吉備大臣宮のお守り。左は通常の肌守、右は合格祈願用。
下に敷いているのは初詣のチラシ。

置いてあった初詣用のチラシによると、大晦日から三が日にかけては、それなりに盛大なイベントがあった模様。ただし、「館址亭」のうどんは休業だったそうな。ということは、今日はやっているんだ!公園内のお休み処「館址亭」のうどんはこの辺りでは評判らしく、吉備真備とは関係なく、うどん屋として認識されて大人気なのだそうです。実際、以前訪れた時も、公園は閑散としているのに、この店だけ繁盛していて驚きました。しかしその時は、そんな人気店とは知らずお弁当持参だったので食べそびれ、別の時は閉店後だったので入れず、と今まで一度も食べたことがありません。今回はあてにして手ぶらで来たので、開いててホントに良かった。他に飲食店やコンビニはありそうもないエリアだし。
とはいえ、開店の11時までには少し時間があったので、公園をぶらつきました。
中央の高台にそびえる真備の巨像。以前の印象では、ご多分に洩れずこれまた老人の姿でちょっとね~、という感じでしたが、改めてよくよく見ると、そんなに悪くない。真備町側の銅像やイラストはいかにも学者っぽい枯れた老人風ですが、こちらは老人とはいえ堂々とした身体つきで力強い感じ。二度も渡唐し、度重なる九州左遷にもめげず、70代にして右大臣に上り詰め、80歳を超えるまでしぶとく生きた真備は、単なる青白い学者だったとは思えないから、このイメージはなかなか的を得ていると思います。
産湯の井戸といわれる井戸も一応再確認。今回、井戸を覆う竹簾がずれているのを見てふと思いつき、竹簾をちょっとのけて中を覗いてみました。外は四角く切り石を組んでいますが、中は丸く石を積んだ構造でした。それほど深い井戸ではないものの、澄んだきれいな水をたたえています。四角い枠は公園ができた後に整備した形で、元々は地面にぽっかり丸い口を開けただけの素朴な井戸だったと、地元の人が教えてくれたのを思い出しました。外側だけ見ると、切り石の枠と竹簾が整然としすぎて何だか庭園の新しい飾り井戸みたいだけど、こうして中を見るといかにも古井戸って感じで雰囲気あります。
地元の言い伝えによると、「吉備真備公園」のある地は、真備の出身氏族・下道氏の邸宅があった場所で、この井戸は、真備誕生の前夜に流れ星が落ちるという奇瑞が起こった所なのだそうな。真備は大和で生まれた可能性のほうが強いので、根も葉もない伝説と一蹴されてしまいそうですが、吉備大臣は「入唐絵巻」の説話でも分かるように、すぐ後の平安時代には既に「伝説の巨人」化が始まります。西日本の広い範囲に真備伝説が伝えられている中、とりわけ真備ゆかりのこの地に語り伝えられている伝説には心惹かれるものがあり、史実じゃなくてもありがたみを感じます。お守りもご利益あるかな?
11時になったので「館址亭」に戻り、一番乗りで注文しました。きつねうどん(小)で350円。普段、外食でうどんを食べることがない私には(蕎麦派なので)これが高いのか安いのかは分かりませんが・・・。麺は手打ちだそうで、少し柔らかめ。讃岐うどんのもちもちしこしこしたハード感が苦手な私には美味しくいただけました。
と、そういううちにも後からお客さんが、開店を待っていたかのように次々やって来る。常連さんなのか、店の人と「おめでとう!」と新年の挨拶を交わす人も。まち興し用に自治体が無理やり作った施設ってあんまり成功しない例が多いけど、ここは順調なようです。今や吉備真備は吹っ飛んでただのうどん屋になっているところが御愛嬌ですが。店を切り盛りしているのは地元の女性たちだそうで、ここの売上で「吉備大臣宮」の社殿改修ができた、と以前訪ねた時、店のおばちゃんが誇らしげに語っていました。
ただし、吉備真備公園でなんで「うどん」かというと、ちゃんとした能書きはあるのです。国政を担った真備が、凶作時の備えとして麦作を奨励したという記録がその根拠です。麦作→小麦粉→うどん、ってかなり飛躍ですが、堅いことは言いますまい。古くから伝わる小麦粉のお菓子を、真備伝来の菓子として売り出している店も京都にあるくらいですから(→前ブログ)。奨励した小麦食が、約1250年後に先祖に地のささやかなまち興しに役立っていると知ったら、真備さんも喜んでくれるでしょう!
さて、矢掛町側の真備スポットを満喫したあとは、真備町(倉敷市)側へ。以前の訪問では、対岸の琴弾岩経由で移動しましたが、それだと遠回りで歩く距離も多くなってしまうので、今回は小田川北岸のこちら側をずっとたどって向かうことにしました。以前なら井笠バスの矢掛~倉敷線がそこそこ使えたのに、昨年11月に突然廃止になってしまい、ガッカリ。が、よくよく調べたら、吉備真備公園から東に600mほど進めば、真備町のコミュニティバスのバス停があると判りました。バスが来る頃合いも良さそうです。
このあたりの旧山陽道(国道486号線)は初めて歩きますが、歩道も無くなって超危険な感じ。すぐわきをトラックや乗用車がビュンビュン通り過ぎて行きます。この道、果たして人が歩いていい所なのか・・・。でもまあ、そんな長い距離じゃないので、すぐにバス停が見えてきました。ふと見ると、その手前の山際に「吉備公琴弾遺迹在南」と刻まれた石碑が立っています。道路を渡って土手の上から対岸を眺めてみました。あるある!琴弾岩が。ちょうど正面に、小さくではあるけれど、草木に隠れることなくいい具合に見えます。
↓ 小田川対岸から眺めた「琴弾岩」
こういう角度から見るのもいいですね。遠くからでも目立つ名物岩だということが実感できます。伝説では、隠居後の真備が老後の楽しみにこの上で琴を弾いた、ということになっている。その真偽はともかく、もともとイワクラ的な聖なる岩だったんでしょうね。
コミュニティバス、というかワゴン型タクシー車両は時間通りにやって来ました。以前はミニバスでしたが、昨秋、委託されていた井笠バスが廃業し、別のタクシー会社が引き継いだのを機にこうなったようです。タクシー型でも予約制ではなく定時運行なのはありがたい!お客は私一人で貸切状態でした。このままずっと乗っていけば「まきび公園」まで行けますが、もうひとつ寄りたい所があったので、井原鉄道「備中呉妹」駅と熊野神社の中間あたりの地点(倉敷市真備町尾崎の石田集落)で降ろしてもらいました。ここを山のほうに入ったところにある「石槌山石造毘沙門天立像」を見るためです。
この毘沙門天の磨崖仏は、倉敷市の文化財案内などにもよく載っているもので、以前から見たいと思っていました。が、けっこう険しい山の上にあるとのこと。このあたりを通るたびに、あの山だろうと見当をつけて眺めるのですが、見た目かなり高い山に見えます。聞くところだと、10~15分くらいで登れるそうですが・・・。ホントかな?
今回は時間の余裕をもって訪れたし、靴も鞄もしっかりウォーキング仕様。意を決して向かいました。すごく大雑把な位置しか分からずに来ましたが、あちこちに倉敷市教育委員会が立てた道案内の立て札があるので助かりました。山際の民家の裏から山道に入ります。その民家の脇に案内板が立っていて、こんな文章が…。「頂上近くにはロープが張ってあり、ロープにつかまって登ります。軍手があると便利ですので、お持ちでない方はどうぞお使いください。ご使用後は、左のボックスにお返しください。」見ると、蓋つきのケースに入れられた軍手が用意されていました。杖も何本か置いてある。親切なのには感動しましたが、それにしてもちょっとビビる内容だな~。よほどスゴイ山道なのか?
・・・のわりには、山道はそれほどきつくなく、ほっとしたのもつかの間、登山で言うと8合目あたりからそのロープが登場し、一気に気が引き締まりました。ロープはせいぜい1~2か所くらいだろうとタカをくくっていたのに反し、立て続けに6~7か所はあったでしょうか。ロッククライミングというほどは切り立っていませんが、滑りやすい砂地様の土質ということもあり、手掛かりがなくてはとても怖くて登れません。
そしてついに最終地点の岩場が見えてきました。実際、山道に入って10分少々の道のり。案外短かったけれど、そのわりにけっこうな高さに来たという印象です。
頂上にはひときわ大きな角ばった(立方体様の)巨岩があり、その正面(小田川方向)にこんな毘沙門天像が・・・。かなり残っている赤い彩色も色鮮やか。
見事な磨崖仏! わざわさ登ったかいがあるというものです。どことなくマンガ的な(?)温かみのある作風ですが、活き活きとした力強さも備えていて魅力的です。ユーモラスな邪鬼もいい味出している。しかし、毘沙門天の岩の前にはあまり広いスペースがなく、写真を撮るのに夢中になっていると後ろの崖に落ちてしまいそうで怖かった!高い所は苦手なもんで・・・。この岩の左側にはさらにロープが垂れていて、これを手掛かりに毘沙門天像の上、本当の山頂に登れるようになっています。せっかくここまで来たのだから、と登りかけましたが、一歩目でくじけました。高所が平気な人は試してみてください。このてっぺんは、初日の出の隠れたる名所だそうですよ。岩の上まで登らなくとも既に充分、小田川の大パノラマ眺望は楽しめましたが。
この毘沙門天磨崖仏がいつ誰の手で何の目的で彫られたのかは、正確には判っていません。室町時代後期の作ではないかとされているようです。毘沙門天は武運長久の守護神なので、群雄割拠の時代にこの地の武将(毛利氏系?)が造らせたものかも、というのが有力な説だそうです。岡山の備中エリアには多くの優れた毘沙門天磨崖仏が残っていますが、その中でもこの毘沙門天像は、知名度はやや低めなものの、出来はトップクラスだとか。帰りに、軍手&杖のスポットをもう一度よく見てみたら、新聞記事のコピー等を綴じた手作りの資料(持ち帰り可)も用意されていました。本当に何から何までお世話くださり、ありがたいことです。地元の方がしてくれているらしい。
ここから真備町箭田の「まきび公園」までは1kmほどなので、途中、熊野神社の古墳跡を見学したりしながらのんびり歩きました。「まきび公園」や隣接する「吉備公墳」(神社のような形で祀られている)には、まだ新年松の内のせいか、そこそこ来訪者・参拝者がいましたが、矢掛町の「吉備真備公園」&「吉備大臣宮」と違って、お休み処は閉まっているし、神社も無人で素っ気なかった・・・。1月13日の井原鉄道ワンコインデーに合わせて合格祈願祭や物産市などの大イベントをするそうなので、今は力を温存しているのかな。でも13日じゃ、センター試験終わっちゃうよ~。 ※ スミマセン。1週間間違えてました。大学入試のセンター試験は19日(土)・20日(日)。ちゃんと間に合うようにしているんですね!
訪れたタイミングのせいか、いまいち印象薄かった真備町側の真備スポットではありましたが、ここでちょっと気付いたことが・・・。吉備公墳というのは、昔から真備の墓と言い伝えられている墳墓で、上に古い石塔(宝篋印塔)が立っています。この石塔が見慣れぬ新ピカの切り石の台座に乗っていて、その前方両脇の石灯籠の火袋部分(笠の下の石)も新品の石に、さらに玉垣が立つ神域の縁石も新しくなっているではありませんか。脇にあった記念碑によると、平成24年5月に石材店などの協力で改修したらしい。
↓ 真備公墳の石塔の現状。以前の写真(下)と見比べてください。

石灯籠の火袋は確かにボロボロ(仮の木製?)だったので仕方ないにしても、石塔の台座はいいのかねぇ、昔からの史跡をこんな風に改変しちゃって。大切な郷土の史跡をピカピカにしたい気持ちは分かるけど、ちょっとやり過ぎでは? もともとの古い石と白くてツルッとした新しい石とがとっても違和感。以前の状態のほうが見るからに年季が入っていて、ありがたみあったけどなぁ。現在この墳墓は、学問的には真備の墓でないと判定されていますが、それでも昔から地元民にはそう信じられてきたものだし、何より江戸時代のこの地の藩主が並々ならぬ熱意でこれを祀ったという歴史もあります。そういう意味では何百年にも渡る歴史が込められた史跡であることには変わりなく、軽々しくいじってはいけないと思うのですが、どうなんでしょうかね?
さて、三が日は過ぎましたが、久々に岡山の吉備真備エリアを詣でようということで、1月5日に小田郡矢掛町~倉敷市真備町へ行ってきました。東京にいる甥っ子が今年、大学受験なので、合格祈願のお守りでも送ろうと思って。恐らく信心深い祖母(つまり私の母)が湯島天神か亀戸天神で天神様こと菅原道真にしっかり祈願していることでしょうが、もう一人の古代の偉大なる学者大臣・真備さんにもお祈りしとかなくちゃ片手落ちでしょ。東京の人には吉備真備なんてピンとこないかもしれないし、余計なお節介でしょうけど、まあ私の自己満足というか訪問の口実ということで・・・。
矢掛町~真備町あたりの地元の人たちにとっては、吉備大臣はポピュラーな受験の神様だと聞いています。お正月頃はちょうど受験シーズン前ということもあり、その方面の祈願者がけっこう訪れるのだとか。真備町側の「まきび公園」も矢掛町側の「吉備真備公園」も普段はひっそりしているので、たまには賑やかな時に訪れてみたい、という思いもありました。
井原鉄道の三谷駅で降りて、まず「吉備真備公園」に向かいました。徒歩で15分くらいでしょうか。何度目かの道なので意外に近く感じました。公園に隣接した(というかその一画にある)「吉備大臣宮」にまず直行すると、やった~!社務所が開いています。いつ行っても開いていた試しがないんだよね。三が日を過ぎていたのでどうかな…と心配していたのですが、よかった。さっそくお守りを求めます。ほとんどのお守りが300円~500円というありがたい価格設定!お守りはビニールケース入りのわりと簡単な造りのものが主流でしたが、合格祈願の肌守だけは錦のお守り袋入りの見栄えのするものでした。やはりこの祈願に訪れる人が多いせいで、特にここに力を入れているのかな。ビニールケース入りのも、それぞれ鮮やかな緑・紫・赤の3種類の台紙のものが用意されていて、シンプルな割にナイスな見た目。毎年来て色違いを揃えようかな、なんて思わず考えてしまった・・・。
↓ 吉備大臣宮のお守り。左は通常の肌守、右は合格祈願用。
下に敷いているのは初詣のチラシ。

置いてあった初詣用のチラシによると、大晦日から三が日にかけては、それなりに盛大なイベントがあった模様。ただし、「館址亭」のうどんは休業だったそうな。ということは、今日はやっているんだ!公園内のお休み処「館址亭」のうどんはこの辺りでは評判らしく、吉備真備とは関係なく、うどん屋として認識されて大人気なのだそうです。実際、以前訪れた時も、公園は閑散としているのに、この店だけ繁盛していて驚きました。しかしその時は、そんな人気店とは知らずお弁当持参だったので食べそびれ、別の時は閉店後だったので入れず、と今まで一度も食べたことがありません。今回はあてにして手ぶらで来たので、開いててホントに良かった。他に飲食店やコンビニはありそうもないエリアだし。
とはいえ、開店の11時までには少し時間があったので、公園をぶらつきました。
中央の高台にそびえる真備の巨像。以前の印象では、ご多分に洩れずこれまた老人の姿でちょっとね~、という感じでしたが、改めてよくよく見ると、そんなに悪くない。真備町側の銅像やイラストはいかにも学者っぽい枯れた老人風ですが、こちらは老人とはいえ堂々とした身体つきで力強い感じ。二度も渡唐し、度重なる九州左遷にもめげず、70代にして右大臣に上り詰め、80歳を超えるまでしぶとく生きた真備は、単なる青白い学者だったとは思えないから、このイメージはなかなか的を得ていると思います。

産湯の井戸といわれる井戸も一応再確認。今回、井戸を覆う竹簾がずれているのを見てふと思いつき、竹簾をちょっとのけて中を覗いてみました。外は四角く切り石を組んでいますが、中は丸く石を積んだ構造でした。それほど深い井戸ではないものの、澄んだきれいな水をたたえています。四角い枠は公園ができた後に整備した形で、元々は地面にぽっかり丸い口を開けただけの素朴な井戸だったと、地元の人が教えてくれたのを思い出しました。外側だけ見ると、切り石の枠と竹簾が整然としすぎて何だか庭園の新しい飾り井戸みたいだけど、こうして中を見るといかにも古井戸って感じで雰囲気あります。

11時になったので「館址亭」に戻り、一番乗りで注文しました。きつねうどん(小)で350円。普段、外食でうどんを食べることがない私には(蕎麦派なので)これが高いのか安いのかは分かりませんが・・・。麺は手打ちだそうで、少し柔らかめ。讃岐うどんのもちもちしこしこしたハード感が苦手な私には美味しくいただけました。
と、そういううちにも後からお客さんが、開店を待っていたかのように次々やって来る。常連さんなのか、店の人と「おめでとう!」と新年の挨拶を交わす人も。まち興し用に自治体が無理やり作った施設ってあんまり成功しない例が多いけど、ここは順調なようです。今や吉備真備は吹っ飛んでただのうどん屋になっているところが御愛嬌ですが。店を切り盛りしているのは地元の女性たちだそうで、ここの売上で「吉備大臣宮」の社殿改修ができた、と以前訪ねた時、店のおばちゃんが誇らしげに語っていました。
ただし、吉備真備公園でなんで「うどん」かというと、ちゃんとした能書きはあるのです。国政を担った真備が、凶作時の備えとして麦作を奨励したという記録がその根拠です。麦作→小麦粉→うどん、ってかなり飛躍ですが、堅いことは言いますまい。古くから伝わる小麦粉のお菓子を、真備伝来の菓子として売り出している店も京都にあるくらいですから(→前ブログ)。奨励した小麦食が、約1250年後に先祖に地のささやかなまち興しに役立っていると知ったら、真備さんも喜んでくれるでしょう!
さて、矢掛町側の真備スポットを満喫したあとは、真備町(倉敷市)側へ。以前の訪問では、対岸の琴弾岩経由で移動しましたが、それだと遠回りで歩く距離も多くなってしまうので、今回は小田川北岸のこちら側をずっとたどって向かうことにしました。以前なら井笠バスの矢掛~倉敷線がそこそこ使えたのに、昨年11月に突然廃止になってしまい、ガッカリ。が、よくよく調べたら、吉備真備公園から東に600mほど進めば、真備町のコミュニティバスのバス停があると判りました。バスが来る頃合いも良さそうです。
このあたりの旧山陽道(国道486号線)は初めて歩きますが、歩道も無くなって超危険な感じ。すぐわきをトラックや乗用車がビュンビュン通り過ぎて行きます。この道、果たして人が歩いていい所なのか・・・。でもまあ、そんな長い距離じゃないので、すぐにバス停が見えてきました。ふと見ると、その手前の山際に「吉備公琴弾遺迹在南」と刻まれた石碑が立っています。道路を渡って土手の上から対岸を眺めてみました。あるある!琴弾岩が。ちょうど正面に、小さくではあるけれど、草木に隠れることなくいい具合に見えます。
↓ 小田川対岸から眺めた「琴弾岩」

コミュニティバス、というかワゴン型タクシー車両は時間通りにやって来ました。以前はミニバスでしたが、昨秋、委託されていた井笠バスが廃業し、別のタクシー会社が引き継いだのを機にこうなったようです。タクシー型でも予約制ではなく定時運行なのはありがたい!お客は私一人で貸切状態でした。このままずっと乗っていけば「まきび公園」まで行けますが、もうひとつ寄りたい所があったので、井原鉄道「備中呉妹」駅と熊野神社の中間あたりの地点(倉敷市真備町尾崎の石田集落)で降ろしてもらいました。ここを山のほうに入ったところにある「石槌山石造毘沙門天立像」を見るためです。
この毘沙門天の磨崖仏は、倉敷市の文化財案内などにもよく載っているもので、以前から見たいと思っていました。が、けっこう険しい山の上にあるとのこと。このあたりを通るたびに、あの山だろうと見当をつけて眺めるのですが、見た目かなり高い山に見えます。聞くところだと、10~15分くらいで登れるそうですが・・・。ホントかな?
今回は時間の余裕をもって訪れたし、靴も鞄もしっかりウォーキング仕様。意を決して向かいました。すごく大雑把な位置しか分からずに来ましたが、あちこちに倉敷市教育委員会が立てた道案内の立て札があるので助かりました。山際の民家の裏から山道に入ります。その民家の脇に案内板が立っていて、こんな文章が…。「頂上近くにはロープが張ってあり、ロープにつかまって登ります。軍手があると便利ですので、お持ちでない方はどうぞお使いください。ご使用後は、左のボックスにお返しください。」見ると、蓋つきのケースに入れられた軍手が用意されていました。杖も何本か置いてある。親切なのには感動しましたが、それにしてもちょっとビビる内容だな~。よほどスゴイ山道なのか?
・・・のわりには、山道はそれほどきつくなく、ほっとしたのもつかの間、登山で言うと8合目あたりからそのロープが登場し、一気に気が引き締まりました。ロープはせいぜい1~2か所くらいだろうとタカをくくっていたのに反し、立て続けに6~7か所はあったでしょうか。ロッククライミングというほどは切り立っていませんが、滑りやすい砂地様の土質ということもあり、手掛かりがなくてはとても怖くて登れません。
そしてついに最終地点の岩場が見えてきました。実際、山道に入って10分少々の道のり。案外短かったけれど、そのわりにけっこうな高さに来たという印象です。


この毘沙門天磨崖仏がいつ誰の手で何の目的で彫られたのかは、正確には判っていません。室町時代後期の作ではないかとされているようです。毘沙門天は武運長久の守護神なので、群雄割拠の時代にこの地の武将(毛利氏系?)が造らせたものかも、というのが有力な説だそうです。岡山の備中エリアには多くの優れた毘沙門天磨崖仏が残っていますが、その中でもこの毘沙門天像は、知名度はやや低めなものの、出来はトップクラスだとか。帰りに、軍手&杖のスポットをもう一度よく見てみたら、新聞記事のコピー等を綴じた手作りの資料(持ち帰り可)も用意されていました。本当に何から何までお世話くださり、ありがたいことです。地元の方がしてくれているらしい。
ここから真備町箭田の「まきび公園」までは1kmほどなので、途中、熊野神社の古墳跡を見学したりしながらのんびり歩きました。「まきび公園」や隣接する「吉備公墳」(神社のような形で祀られている)には、まだ新年松の内のせいか、そこそこ来訪者・参拝者がいましたが、矢掛町の「吉備真備公園」&「吉備大臣宮」と違って、お休み処は閉まっているし、神社も無人で素っ気なかった・・・。1月13日の井原鉄道ワンコインデーに合わせて合格祈願祭や物産市などの大イベントをするそうなので、今は力を温存しているのかな。
訪れたタイミングのせいか、いまいち印象薄かった真備町側の真備スポットではありましたが、ここでちょっと気付いたことが・・・。吉備公墳というのは、昔から真備の墓と言い伝えられている墳墓で、上に古い石塔(宝篋印塔)が立っています。この石塔が見慣れぬ新ピカの切り石の台座に乗っていて、その前方両脇の石灯籠の火袋部分(笠の下の石)も新品の石に、さらに玉垣が立つ神域の縁石も新しくなっているではありませんか。脇にあった記念碑によると、平成24年5月に石材店などの協力で改修したらしい。
↓ 真備公墳の石塔の現状。以前の写真(下)と見比べてください。


by machiarukinote
| 2013-01-07 13:29
| 街歩きレポート
|
Comments(3)
真備は藤原氏の謀略で滅ぼされたように思います。775年には藤原氏に対抗する多くの人が死んでいる、殺されている。倭国以来の残存勢力がほとんど殲滅された時のように見えるのですが。吉備国残存勢力の最後という感じでしょうか。次を紹介します。
安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。 宜しくお願いします。
安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。 宜しくお願いします。
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井上皇后と他戸親王のナゾの同時死(たぶん暗殺)が真っ先に浮かびますね。親聖武天皇(天武系)派の先鋒・真備が死の床に着くか何かして、もう口出さないと見て、乱暴な手段に出たのでしょうか。真備が御霊神社の祭神に加えられているのも、この線からの後ろめたさ(藤原氏や桓武天皇にとっての…)からかなぁ、と感じます。
「日本大文典」に関するご教示もありがとうございます。一アマチュアに過ぎない私には難し過ぎる課題のような…。
「日本大文典」に関するご教示もありがとうございます。一アマチュアに過ぎない私には難し過ぎる課題のような…。
コメントいただきありがとうございます。多分ここのところは、淀君が秀頼とともに滅びた時と同じようなことではないかと、吉備真備の下道吉備も滅ぼされたものでしょう。これには和気清麻呂が敵方として、百川、山部の陣に加わっていました。つまり徳川方ですね。勝利した和気氏はその後平安遷都を進めます。もう一つは長屋です。木簡から長屋は親王で天皇の子供、高市天皇が父でしょう。長屋には吉備内親王がいます、この人は備中で育てられたのかなと思います。それは、藤原京の実在が確認されましたから、藤原不比等は架空、実在せず、ということになりますから。こうすると巨大な前方後円墳を持ち古墳時代を進めた吉備国の歴史がやっとわかるようになると思うのですが。

