今度は天平歴史マンガ 『光の回廊』 |
清原なつの作『光の回廊』(小学館文庫、2009年)。作品自体の発表年は1988年と、かなり古い。180ページ余りの中編で、上記の文庫版は、他の短編と合わせた作品集になっています。
私はあまりマンガに詳しくないので、清原氏の作品は初めて知りましたが、何と言うか、とても不思議な作風。『光の回廊』は光明皇后(=安宿媛、光明子)の生涯を描いていて、光明子の異母姉であり姑である(つまり聖武天皇の生母である)藤原宮子、光明子の娘である阿倍内親王(後の孝謙・称徳女帝)がそこに絡むという筋立てになっています。つまりれっきとした歴史物。なのにパロディ風のコミカルな味付けあり、少女マンガらしいリリカルな情緒的表現あり…で、しかもそれらが混然一体となっていい味出してる。…って分かります?
作者はかなりの歴史ツウのようです。その上で敢えて換骨奪胎、歴史のエッセンスを取り出してテンポよくストーリーを紡いでいきます。キザで自信過剰のセレブ長屋王が、ワイングラスと薔薇を片手に「僕は頭も良いが、運も良い」なんてうそぶいたり、藤原四兄弟がバレエ『白鳥の湖』四羽の白鳥ダンサーよろしく踊りながら謀議したり、行基さんがツルハシ・ヘルメット姿で土木作業していたり、…と、ブッ飛びシーン続出で、歴史ファンならニヤニヤしっぱなしなこと請け合い。澄ました顔で宮中を闊歩する藤原仲麻呂の背中に「私が殺りました」「ぜーんぶ私しわざです」なんて貼り紙があるシーンもウケたね~。
こんな風に書いていくと、どこが感動なんだ!って思われてしまいそうだけど、テーマはいたって真面目です。藤原氏の娘として生まれたことで、政争の具としての人生、最高権力者としての人生を歩まざるをえない光明子が、人間らしい生き方や心の拠り所を探し求めて苦悩する姿が描かれていきます。胡人(ペルシャ系異民族)の美青年との秘めたる恋とその残酷な幕切れ、その遺児との出会いなどがリリカルに綴られるのです(もちろんフィクション)。光明皇后が東大寺の美僧・実忠の裸体を盗み見て愛欲を懺悔する、というあの奇妙な伝説(→前ブログ)が、うまくストーリーに取り入れられていたのは驚きでした。苦しみと迷いの末の、許しと救済の物語になっているところも、現代版の宗教説話みたいで胸に迫りました。
苦悩する主人公・光明子に対し、対比的なキャラクターとして登場する藤原宮子と阿倍内親王の描かれ方も(かなり戯画化されてはいますが)興味深い。宮子は政争の具として翻弄される自分の立場に嫌気がさして、自分だけの世界に引きこもってしまいます。ご乱心と周囲は見ていますが、それは意識的にやっているようでもあり、一種の仮病とも言える。身を守るための本能的な手立てなのです。歴史上では、宮子は聖武天皇を生んだ後、精神に異常をきたし、30数年後に玄肪が“治療”するまで廃人同様の状態で幽閉されていたと言われますが、もしかしたら、そういうことだったのかも…、と思わせる巧みな解釈です。
一方、阿倍内親王(後の孝謙・称徳女帝)は、苦悩する母や逃避する祖母とは対照的に、あっけらかんと権力への道をまい進する“現代”っ娘。気の強い、自信満々の若きやり手女経営者と言う感じです。仲麻呂を顎で使い、センチになる母を叱責しさえする。この調子で行けば、将来、意のままに道鏡を侍らせて政界に一大波乱を巻き起こすのも納得、と思えてきます。一般的には、強い母・光明皇后の陰で忍従を強いられ、神経衰弱気味な女性として描かれることの多い称徳女帝ですが、こういう解釈も面白いですね。
このマンガを初めて読んだのは2~3ヶ月前なのですが、何度読み返しても切ない気持にさせられてグッときてしまいます。フワッとした不思議な読後感…。悪女的な女傑のイメージが強い光明皇后を、もっと寄り添った視線で丁寧に描いてくれる作家はいないものかなぁ、などと以前このブログで書きましたが、いたんですね!小説ではなくマンガだったけど。
『道鏡』のような真面目な歴史小説では(わくわく楽しめるけど)あまり“感動”はしないのに、マンガ『光の回廊』やファンタジー小説『天平冥所図会』のような自由な創作部分が多い歴史ものでは、大いに感動させられ心揺さぶられるのは、どうしてなんだろう?