またまた奈良① ~阿倍仲麻呂・安倍晴明編~ |
奈良県桜井市には「吉備」と「安倍」という地名が隣り合わせに存在しています。JRや近鉄の桜井駅に近いほうが安倍で、その西隣が吉備。安倍には観光的にも有名な「安倍文殊院」があります。まずはここからスタート。その日は朝から雨でしたが、じきに上がるという天気予報を信じて霧雨のなか訪問を決行しました。
安倍文殊院は、大和の古代豪族・安倍氏の氏寺「安倍寺」がその前身と伝えられており、快慶作という巨大な文殊菩薩像で知られています。本尊のこの文殊さまはいつでも拝観できますが、晴明&仲麻呂像を祀る「金閣御浮堂」の公開は期間が限られているので、公開中のこの時期(4月~5月)を選んで訪れたというわけです。安倍文殊院は、いかにも観光で商売してるっていう感じの寺だとの話は聞いていましたが、噂にたがわず、かなり俗化した印象…。 ↓ 安倍文殊院 金閣御浮堂
受付の人に言われた通りの作法で、御浮堂を7周廻ってから(けっこう手間!)お堂に入って目的の像を拝観しました。厨子に納められたわりあい小さめの座像で、向かって右側に仲麻呂像、左側に晴明像。どちらも衣冠束帯の公家さんみたいな姿。室町時代の作だそうです。
拝観を終え出てきたところで、池のほとりに境内スタンプラリーのスタンプが設置されているのを発見。説明板を読むと、本堂または御浮堂の拝観者に渡される用紙に、境内五か所すべてのスタンプを押せば当院の縁起物を授与、とある。予想外の拝観料散財に、少しでも取り戻さねば(?)と、受付に戻って用紙を請求しました。この安倍文殊院の境内には古墳が2つも現存しており、これらを見るためには、どうせ境内を歩き廻らねばなりません。それに、天気予報に反してなかなか雨が上がらないので、少しでも時間を稼いで晴れを待ちたいという気分でもありましたし。景品(?)は、数珠風パワーストーン(のプラスチック模造品)ブレスレットでした。一応、御守授与所で500円で売っているものでしたよ。これにも五芒星が付いていました。時流に乗ってか、ここの御守は晴明ものが大半です。
↓ 安倍文殊院内の西古墳(大化の改新の時の左大臣で、安倍寺創建者の阿倍倉梯麻呂の墓と伝えられる。7世紀中頃の横穴式石室)
↓ 安倍文殊院内の東古墳(古墳内に霊泉の湧く井戸がある。7世紀前半の横穴式石室)
副題の阿倍仲麻呂の話がなかなか出て来ませんね。阿倍仲麻呂とは、百人一首の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の和歌で知られる奈良朝の人物です。この歌は、唐の地で月を見上げながら、故郷・奈良の風景を懐かしんで歌った望郷の詩と言われています。仲麻呂は19歳で吉備真備や玄昉と共に遣唐留学生として唐に渡り、生え抜きの秀才として唐の国立最高教育機関に入学、超難関の科挙(官吏登用試験)にも見事合格し、高級官僚の道を歩んで玄宗皇帝の覚えもめでたく出世したという、古代のスゴイ国際派日本人です。
しかしまた、悲劇の人でもあります。真備や玄昉たちが18年の留学を終え帰国する際、仲麻呂は唐の官僚であるという理由から(国家機密を知り得る立場であるという理由から)帰国を許されませんでした。次に日本から遣唐使が来た時には(この時の遣唐副使は吉備真備。真備も仲麻呂も50代後半になっていた)、玄宗皇帝に懇願してやっと帰国を許されましたが、不運なことに、仲麻呂の乗った船は嵐に遭って大陸に吹き戻されてしまったのです。(真備の乗った船や、鑑真の乗った船はダメージを受けながらも何とか日本に漂着。強運な真備の船に一緒に乗れば良かったのにね~。) 漂着した現在のベトナムから唐の長安まで命からがらたどり着いたものの、以降帰国の機会を失い、そのまま異国の地で73歳の生涯を閉じました。
↓ 奈良の三笠山〔=御蓋山〕(右後方)。左に見える建物は藤原広嗣を祀る南都鏡神社。
遣唐使は出発前に御蓋山の麓で航海の安全を祈願する習わしだった。
安倍文殊院では、阿倍仲麻呂も安倍晴明もこの地で生まれたと謳っていますが、これは歴史的には明らかに「?」です。仲麻呂は安倍(阿倍)氏とはいえ、主流の血筋ではないらしい。そもそもはっきりした生まれは不明なようです。しかし、唐の国立教育機関に入学できたのも、彼が名家阿倍氏の一員だったからだと言われています。同じく秀才の誉れ高かった真備は地方豪族出の無名の若者だったため、入学できなかったのだとか。
それはともかく、ここが阿倍仲麻呂と安倍晴明ゆかりの地とされ、彼らが祀られているのは、もっと後の中世~近世の民間信仰の産物かと思われます。この地が阿倍倉梯麻呂ら阿倍氏主流の本拠地だったのは歴史的にその通りなのでしょう。阿倍文殊院のすぐ近くには、倉梯麻呂が建てたと言われる安倍寺跡の遺跡も残っています。安倍氏本流は平安時代になると衰退してしまいますが、平安時代半ばに陰陽師・安倍晴明が現われます。晴明は、安倍氏主流とはほとんど無関係、せいぜいかなりの枝葉と考えられていますが、自己宣伝の巧かった彼は、安倍氏本流から自分へと繋がる家系図を創作し、その中に阿倍仲麻呂も組み入れます。ついでに、自分の陰陽道の師、賀茂氏(陰陽師としては当時、安倍氏よりずっと名門だった)を吉備真備の子孫とする系図も創作。唐で活躍した伝説的な二人の大秀才と、その二人の連携によって我が家系にもたらされた異国伝来の秘法、といった壮大なストーリーまで創り出してしまったようなのです。実在の晴明はただの陰陽寮官僚で、超能力者でも何でもありませんが、プロデューサー(仕掛け人)としては確かに天才だったと思います。正確に言えば、晴明とそれに続く安倍氏=土御門家は…、と言うべきかな。
↓ 安倍文殊院近くの「国史跡 安倍寺跡」(公園になっている)
晴明と仲麻呂生誕地を主張する安倍文殊院も、そのHPの略史を見ると、案外正直にその成り立ちを告白しているように読めます。曰く、飛鳥時代に阿倍倉梯麻呂により安倍寺創建、平安時代末期に安倍寺全山焼失、鎌倉時代に現在地に再興、戦国時代に再び焼失、江戸初期に再建、江戸中期に晴明公750回忌法会開催、江戸後期に晴明堂・葛葉稲荷建立、土御門家から寄進を受ける、云々。やっぱりね~。文殊院が今のような形になったのは江戸時代になってからで、土御門家(晴明の安倍氏の後裔)の息が掛かっている…。鎌倉時代頃からじわじわとすり替えが始まって(文殊院所蔵の晴明像・仲麻呂像は室町時代)、江戸時代には完全に“晴明の安倍氏”の寺にすり替わってしまったのではないでしょうか。
晴明とその一族の主張する伝説では、仲麻呂や真備も広い意味での晴明の祖ですから、晴明伝説と共に、真備・仲麻呂伝説も広く喧伝されたのだと思います。ゆえに、これらの人物の伝説の地はセットになっている場合が多い。岡山県真備町周辺しかり、奈良市高畑町しかり。そして、ここ桜井市も…。
ここまで随分文字を費やしてしまいましたが、というわけで、次回は真備伝説編です。