2011年 06月 28日
大阪 ~葛の葉伝説の地を訪ねて~(その1) |
友人と3人で、大阪に日帰り旅行することになりました。中心街の南船場あたりでお洒落な雑貨ショップ巡りをする計画だったのですが、たまたま読み返していた『安倍晴明伝説』(諏訪春雄・著、ちくま新書)に、大阪近辺の陰陽師ゆかりの地についての記述があったのに触発され、結局、一人別行動で“伝説と歴史を訪ねる街歩き”を敢行してしまいました。
向かったのは、和泉市のJR阪和線「北信太」駅の周辺と、大阪市阿倍野区の阪境電軌上町線「東天下茶屋」駅周辺。この二つの地は、「葛の葉」伝説あるいは「信太(しのだ)妻」伝説と呼ばれる安倍晴明出生譚で知られています。この伝説は、晴明が人間の男と女狐の間に生まれたとするもので、民間の下層陰陽師たちが語り始め、江戸時代以降に人形浄瑠璃や歌舞伎に取り入れられて大評判になりました。伝説を掲げる地は全国にありますが、ここ大阪~泉州は、茨城県の猫島と共に最も有力な伝説の中心地とされています。
JR阪和線も阪境電軌上町線も天王寺から出ていますが、まずは遠い方の阪和線「北信太」から訪ねてみました。ここでは、駅から5分くらいの阪和線線路西側にある「信太森葛葉稲荷」と、駅から南東に1キロ余り行った所にある「聖神社」の二か所が見どころです。

まずは近いほうの「葛葉稲荷」↑ に行ってみました。ここは葛の葉伝説と安倍晴明を思いっきりアピールしています。葛の葉とは晴明の母狐の名前。伝説のあらましは次の通りです。信太の森で白狐を助けたことのある安倍保名(やすな)は、葛の葉と名乗る美しい女性に出会い、結婚して一児をもうけます。この子が5~6歳になった時、葛の葉はうっかり狐の正体を我が子に見られてしまい、「恋しくば、訪ね来て見よ、和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」という和歌を書き残して姿を消します。信太の森を訪ねた父子は、出会った狐の葛の葉から真相を知らされます。恩を受けたので貴方に嫁したが、正体を見られては人間界にはもういられない。せめて我が子には超能力をさずけよう、と。その子が長じて大陰陽師・安倍晴明になった、というもの。
いかにも近世~近代の庶民に受けそうなメロドラマチックなお話です。歌舞伎や講談にありがちの典型的なお涙頂戴ストーリー。しかも、実在の人物としての陰陽師・晴明からは限りなく離れて、彼を超人化・神格化しようとする意図ありありです。そういう点で、葛の葉伝説ははじめ、私にとって最も関心の薄い晴明伝説でした(吉備真備とは何の関係もないし)。
ところが、前述の諏訪氏の本などを読んでいるうちに、目からウロコが落ちました。それらよると、遣唐留学生や留学僧がオフィシャルに中国から伝えた陰陽道を朝廷が管理して体系化していったのが、官僚陰陽師たる安倍晴明らが行なった陰陽道ですが、それとは別に、もう一つの陰陽道の流れがある。大陸からの渡来人たちが日本の地で各々に実践しているうちに民間に広まっていったのが、そのもう一つの陰陽道だというのです。渡来人の系統とみられる民間陰陽師(唱門師、声聞師と呼ばれた)は、もともと寺社に隷属する雑役夫集団で、大変低い身分とされていましたが、暦を作って売ったり、万歳などの祝福芸を見せたりして、一般庶民の生活にはむしろなじみ深い存在だったようです。そして、その彼らが広めたものこそ葛の葉伝説だというのです。
宮廷の陰陽師たちは、このような民間陰陽道をはじめは異端視していたようですが、やがて宮廷での陰陽道の役割が低下してくると、生き残りのためにこれら民間陰陽師たちの取り込みに転じます。つまり認定料を取って民間陰陽師を“認定”し指導する(装束や祈祷のスタイルなどを規定する)といったいわば家元制度を敷き始めるのです。江戸時代はじめの話です。この頃には、上流陰陽師としては安倍晴明の子孫「土御門家」しか生き残っておらず、この土御門家が陰陽道家元として以後明治維新まで君臨するのです。
民間の陰陽師たちも、陰陽道のスーパーヒーロー安倍晴明を尊敬し、自分たちの権威付けに利用していたと思われますが、土御門家の支配下にはいって、いよいよ大手を振ってその喧伝につとめたのでしょう。江戸時代になると、葛の葉伝説のような、民間系の晴明伝説が主流になってきます。平安京の貴族や帝を験力で救う話より、狐の子晴明のお話の方が庶民にはずっと身近で魅力的に感じられたでしょうから。母子生き別れの悲劇には、いわれなき差別を受け、何かと人間関係でつらい思いをすることの多かった下級陰陽師たちの思いが仮託されているとの見方もあるようです。
奈良で、吉備塚などの伝説を語り伝えたのも、同じような民間の下級陰陽師だったそうですし、京都の上・下御霊神社の近くに住んで、吉備聖霊の伝承に何らかの役割を演じたとみられるのも、同じく民間下級陰陽師集団だということです。現代の晴明ブームではもっぱらヒーロー晴明個人にズポットライトが当てられていますが、このたびの私の中の陰陽師マイブームは、主眼は「なんでこんな面白い伝説(吉備真備や安倍晴明にまつわる)が生まれたんだろう?」というところにあり、伝説の主たる担い手であったという民間陰陽師におのずと目が向いてしまう・・・。その流れでの街歩きが今回の訪問というわけです。
長々と余談を展開してしまいました。訪問レポートに戻ります。「信太森葛葉稲荷」は、それなりの広さの境内を持ち木々に包まれた、なかなか風情ある神社です。
最近建て替えられたらしい社殿も立派だし、その脇にある楠のご神木も見ごたえあります。境内には伝説ゆかりの井戸やら石やらがやたらあって、それぞれににいちいち説明板が立っている。境内案内図も完備で、至れり尽くせりです。社務所には「お土産に葛餅あります」みたいな立て看板があるし、各種お守り・縁起もの類多数がずらっと並んでいるし、窓口の中をのぞくと有名人(漫画家・岡野玲子氏ら)のサイン色紙が掲げてあるし…。う~ん、なかなかの攻め姿勢。
でも、こういうの決して嫌じゃありません。大企業の商業主義だと興醒めですが、ここは中小企業の手作り感いっぱいで、頑張ってるな~って印象。こっちもはるばる観光客気分で来たのだから、お土産の一つも欲しいしね。昔の寺社詣でだって、門前の名物やら花見やらが庶民の楽しみだったわけだから。そういう意味では、来た甲斐がある気分にさせてくれるありがたい神社です。しかし、晴明ブームも一段落してしまったのか、比較的年配の参拝者がぽつりぽつりいる程度で、境内は閑散としています。社務所も留守のようだったので、また後で寄ることにして、次の「聖神社」に向かいました。
「聖神社」は高台の上にあり、カンカン照りの暑い日だったこともあり、結構な道のりでした。途中、「旧府(ふるふ)神社」というお宮で「白狐化石(ばけいし)」という伝説の岩を見ました。
現地にあった説明によると、猟師に追われた白狐(葛の葉)が逃れるために化けた(あるいは隠れた)とされる大石で、元々近くの熊野街道沿いにあったのを、昭和22年にここに移したものだとか。
さて、やっと「聖神社」に到着しました。高台一帯を覆う森が神域のようです。この森がいわゆる「信太の森」だと言われています。森の入口の大きな石鳥居とその脇に控える完全に風化した狛犬が何とも言えないたたずまい。
しばらく進むと広々とした境内が現れ、堂々たる桧皮葺のとんでもなく立派な社殿が…! 国指定重要文化財だとは聞いていましたが、想像以上の素晴らしさです。豊臣秀頼が慶長9年(1604年)に再建した桃山様式の建物だとか。
「聖神社」そのものは、天武天皇の時代(7世紀後半)創建と伝えられる由緒ある古社で、「信太明神」の別称でも知られています。かつては、このあたり信太山丘陵の大半を占める、百万坪もの広大な境内地を誇っていたそうです。主神は聖神(ひじりがみ)というあまり聞き馴れない神様。渡来系の神ではないかと言われています。また、「ひじり」は「日知り」にも通じ、陰陽道とも関係あるのでは、とも。実際、この近くには渡来系の民間陰陽師コミュニティがあり、聖神社を篤く信仰していたそうです。聖神信仰とからめた“信太の森の葛の葉伝説”を作り上げ、広めていったのは彼らであろう、と推定されています。
社務所で宮司さんに、葛の葉伝説と聖神社の関係をお尋ねしてみました。すると、伝説は後世のこじつけで当社とは関係ない、と至極ドライなご返答。古い文書は焼失してしまって、詳しい歴史は分からないとのこと。ついでに、先ほど訪ねた「信太森葛葉稲荷」との関係を問うと、これまたきっぱりと関係ない、と言い切る。あちらは元々個人の邸内社だったもので、その土地の郷士が転出する際に別の人にその社地を売って、今のような神社になったとのこと。その際、ウチの稲荷を分霊したけどね、曾祖父の時だから明治時代だね、と。芝居の人気に便乗した、あるいは現代の晴明ブームを当て込んだ流行り神的神社と、由緒ある当社とを一緒にしないでくれ!とでも言いたげです。ウチの稲荷とは、本殿脇にあるお社(通称「信太稲荷」)↓ だと教えてくれました。元々はもっと離れた場所に建っていたものを、神域が大幅に縮小された明治初期にここに移築したものだそうです。これまた立派な桧皮葺の建物で、本殿と同じく桃山時代建造の国指定重要文化財。確かに格が違うわ!
この宮司さん(70歳くらいかな?)、気位の高い難しい人と思いきや、歴史はわからんから説明することなどないと言いながら、結構長々と興味深いお話をいろいろ聞かせてくださいました。例えば、後白河法皇ご親筆と伝わる扁額にまつわるお話。熊野街道沿いの参道入口の鳥居に掲げられていましたが、参勤交代でここを通る近在の藩主たちから、いちいちここで籠から降り拝礼するのは面倒だから降ろしてくれとの声が上がり、神社内で保管するようになった、と言います。私が聞いているのは、まぶしくて困ると漁師から言われ降ろした、という話ですが…?、と返すと、まあ、伝説なんてそんなもんだよ、と澄まし顔。そりゃまあ、帝からのありがたい賜り品がかえって迷惑だなんて、当時は口が裂けても言えなかっただろうからね。恐れ多すぎるという話の方がぜったい都合いいよね。
ただ、漁師の話は全くのデタラメというわけではなく、こんな話もある、とも。信太山丘陵の前に広がる海(泉州灘)は、古くから「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれる良い漁場で、漁業が盛んでした。そこで漁をする漁師が夕方に信太の丘を見上げると、夕陽が聖神社本殿の千木(屋根の上の飾り)に反射してまぶしく見えたとのこと。この神社は漁師たちの信仰も集めていたそうです。しかし、関西空港ができるなどして、海の環境が変わってしまったため、漁業はめっきり廃れてしまって、今もお参りしてくれる漁師さんはたった2人になってしまったということです。
信者と言えば、この近くには被差別部落があり、そこの人たちも熱心にお参りしてくれる、と宮司さんは話を続けました。毎朝決まって参拝に訪れる人が50人いるとすると、その40人は部落の人かな、と。彼らこそ、本に書いてあった民間陰陽師の末裔ですね!今でも聖神社との深い縁が続いていることを知り、内心感動しました。宮司さんのお話によると、その地域内には彼ら自前のお宮もあって信仰されているが、そこを「小宮」と呼ぶのに対し、こちらは「大宮」と呼ばれ、より大きな敬意が払われているとか。秋の大祭の際も、他の一般の氏子と同様に、そのコミュニティからも神輿(だんじり?)が出るそうです。
自分が小学生の頃は、同和教育なんてなかったが、クラスの4分の1くらいはいた部落の子とも、特に意識することもなく、普通に接していたなぁ、とも。しかし、そのような級友も、大人になって他の地域に就職した際に、そこでひどい差別を受けた、というような実例を具体的に語ってくれました。昨今の肩肘張った同和運動や同和教育には少々異議ありという風な口振りでしたが、このような問題も臆することなく語る宮司さんに、シニカルでドライな物言いとは裏腹な、宗教家としての矜持のようなものを感じました。

さて、これは聖神社の東隣にある「鏡池」。隣といっても、高台を下りてぐるっと回らないとたどり着きません。池の向こうに見える小高い茂みが、聖神社を取り巻く森になります。この池は今は神社の敷地外ですが、昔は境内に当たっており、まさに信太の森の伝説の池。晴明の父、保名が白狐を助けたのもここ、父子が訪ね来て葛の葉狐と再会したのもこことされています。池の名が「鏡」なのは、この池の水面に姿を映して白狐が葛の葉に変身したから。神社からこの池のほとりに下りる「鼠坂」とよばれる小道も現存するそうですが、聖神社の境内をいくら見回しても、「この先立ち入り禁止」の札と共にロープが張り巡らされているのみで、それらしい小道は見当たりませんでした。宮司さんによれば、伝説スポット「鏡池」も「鼠坂」もこじつけの嘘っぱち。まあ、信じる人のロマンをとやかくは言わないけどね、とのこと。
鼠坂は、ここを逃げる白狐を保名がかくまった所ということになっています。それらしい小道は現にあったのかもしれないけれど、酔狂な見学者が入り込むと危険なので封鎖してしまったのかも。実際、神社境内を取り囲む森はかなり密に生い茂っていて、しかも先は急斜面になっているようです(高台なので)。ちなみに、宮司さんによると、今はガランとしている境内中心域も、昔は松林で木漏れ日の境内という感じだったそうです。桧皮葺の社殿の屋根に、松葉がびっしり積もって掃除が大変だったくらいだとか。松喰い虫にやられて以来、松が育たなくなってしまい、周囲の森も今は雑木だらけの価値のない森になってしまった、と嘆いておられました。
しかし、こじつけと言われてみれば、そんな気も…。鼠坂という名は江戸=東京では、細い坂道によく付けられたありふれた坂名です。ここも伝説とは関係なく元々あった一般的な「鼠坂」だったのでは。狐伝説なのに狐坂じゃないのがそもそも怪しいよね。伝説では、鼠かと思って袖の中にかくまったら狐だった、と苦しい説明をしていますが、鼠と狐を見間違えるかい!
「鏡池」は、以前はもっとワイルドなたたずまいだったそうですが、この地域一帯が団地として大開発されるのに伴って、10年くらい前に史跡公園として整備され、現在のような形になったそうです。ほとりには「信太の森ふるさと館」という郷土資料館兼コミュニティハウスのような小さな施設が建っています。こじんまりとはしていますが、展示はなかなか勉強になりました。開発以前の鏡池の写真もありました。鼠坂の写真も。聖神社の摂社「平岡神社」(これは確かにあった!)の右奥に下り口あるとか。もしまた行く機会があったら見てみなきゃ。ここでは、『信太聞耳散歩・改2』という郷土史小冊子を購入しました。とっても詳しそう。
あまりのんびりもしていられないので、暑い中をまたせっせと歩いて、最初の「葛葉稲荷神社」に向かいました。途中、熊野街道を意識的に眺めながら通過。それほど広くない道幅と緩やかにうねった道筋がいかにも旧道らしい風情です。一見平凡な田舎の街路ですが、所々に古い民家も残っている。昔からの道はやはり歩いていて気持ちいい!
葛葉稲荷神社に戻ると、今度は社務所に神社の人(たぶん女性宮司さん)がいました。いくつかお土産を買ってから、ここでもあの質問を。「聖神社のほうも信太の森と言われていますが、この神社と聖神社は何か関係あるんですか?」 すると間髪いれず「関係ありません。」ときっぱり。「昔はこのあたり一帯、ここも森…信太の森だったのです。」とのこと。何だかそれ以上突っ込みにくくなって聞けませんでした。
神社の由緒書きの印刷物をくださったので、ざっと目を通してみましたが、葛の葉伝説一色で、歴史的なことはほとんど書かれていません。やはりここは伝説のロマンを楽しむ場所で、無粋な突っ込みは慎むべきなのか…?などと考えながら、信太の地を後にしました。が、帰宅後、「信太の森ふるさと館」で購入した小冊子で確かめてみたら、結構ここもそれなりに深い歴史がありそうです。
それによると、このお宮が元々個人の邸内社であったことはその通りなのですが、その個人というのがただの一般人ではない…かつてこの地で絶大な力を誇っていた大庄屋なのです。古来、信太の地の中心は丘の上の「聖神社」でしたが、江戸時代になると、行政的にも経済的にも、この庄屋の住まう平地(現在の「北信太」駅周辺)が中心地となっていました。そんなわけで、芝居で信太の森の葛の葉伝説が評判になった時、真っ先に人々の注目を浴びたのは大庄屋の屋敷の稲荷のほうだったのです。大庄屋の屋敷は2千坪もある大邸宅で、ちょっとした森のような様相だったとか。現在「姿見の井」↓ とされている井戸(聖神社の「鏡池」の役割を担っている)も、楠のご神木(信太の森の象徴)も当時からあり、人々の注目を集めました。あっという間に名所となり、参詣者が押し寄せ、茶店や屋台なども並んだそうです。そんな華やかな状況が昭和30年代ぐらいまで続いたとか。しかも、明治時代にこの地域のほとんどの村社がここに合祀されたため、以後、葛葉稲荷は信太の地の氏神さま的存在になったそうです。名実ともに地域の宗教的中心に躍り出たのですね。その後、この大庄屋の家系が没落し転出してしまったので、往時の隆盛は失われてしまったということですが。
聖神社で聞いた話とは、多少時系列に相違はあるものの、大体のところは把握できました。つまり、江戸時代の芝居人気で突然盛り上がった“流行り神”的な面は確かにあるけれど、その状態で既に300年近く続いているわけで、こうなればもはや一過性の流行りモノとは言えないでしょう。そもそも実態のない伝説なのですから、この地が正解!なんてもんはないのだし。江戸時代の葛の葉伝説の盛り上がりという歴史的社会現象から見れば、ここ「葛葉稲荷」こそがその歴史の現場と言えそうです。
安倍晴明が生きた時代という物語の設定から言えば、また、陰陽師との関係から言えば、「聖神社」こそ信太の森ということになるでしょうが、由緒正しき古社としては、物見遊山の観光地になることに抵抗があったのだろうし、一方、経済感覚に優れた庄屋さんにしてみれば、これぞ絶好の村興しと積極的だったのではないでしょうか。“二つの信太の森問題”の謎が解決(?)してスッキリしました!
ここまでで、えらく長い文章になってしまいました。続きは次回に…。
向かったのは、和泉市のJR阪和線「北信太」駅の周辺と、大阪市阿倍野区の阪境電軌上町線「東天下茶屋」駅周辺。この二つの地は、「葛の葉」伝説あるいは「信太(しのだ)妻」伝説と呼ばれる安倍晴明出生譚で知られています。この伝説は、晴明が人間の男と女狐の間に生まれたとするもので、民間の下層陰陽師たちが語り始め、江戸時代以降に人形浄瑠璃や歌舞伎に取り入れられて大評判になりました。伝説を掲げる地は全国にありますが、ここ大阪~泉州は、茨城県の猫島と共に最も有力な伝説の中心地とされています。
JR阪和線も阪境電軌上町線も天王寺から出ていますが、まずは遠い方の阪和線「北信太」から訪ねてみました。ここでは、駅から5分くらいの阪和線線路西側にある「信太森葛葉稲荷」と、駅から南東に1キロ余り行った所にある「聖神社」の二か所が見どころです。

いかにも近世~近代の庶民に受けそうなメロドラマチックなお話です。歌舞伎や講談にありがちの典型的なお涙頂戴ストーリー。しかも、実在の人物としての陰陽師・晴明からは限りなく離れて、彼を超人化・神格化しようとする意図ありありです。そういう点で、葛の葉伝説ははじめ、私にとって最も関心の薄い晴明伝説でした(吉備真備とは何の関係もないし)。
ところが、前述の諏訪氏の本などを読んでいるうちに、目からウロコが落ちました。それらよると、遣唐留学生や留学僧がオフィシャルに中国から伝えた陰陽道を朝廷が管理して体系化していったのが、官僚陰陽師たる安倍晴明らが行なった陰陽道ですが、それとは別に、もう一つの陰陽道の流れがある。大陸からの渡来人たちが日本の地で各々に実践しているうちに民間に広まっていったのが、そのもう一つの陰陽道だというのです。渡来人の系統とみられる民間陰陽師(唱門師、声聞師と呼ばれた)は、もともと寺社に隷属する雑役夫集団で、大変低い身分とされていましたが、暦を作って売ったり、万歳などの祝福芸を見せたりして、一般庶民の生活にはむしろなじみ深い存在だったようです。そして、その彼らが広めたものこそ葛の葉伝説だというのです。
宮廷の陰陽師たちは、このような民間陰陽道をはじめは異端視していたようですが、やがて宮廷での陰陽道の役割が低下してくると、生き残りのためにこれら民間陰陽師たちの取り込みに転じます。つまり認定料を取って民間陰陽師を“認定”し指導する(装束や祈祷のスタイルなどを規定する)といったいわば家元制度を敷き始めるのです。江戸時代はじめの話です。この頃には、上流陰陽師としては安倍晴明の子孫「土御門家」しか生き残っておらず、この土御門家が陰陽道家元として以後明治維新まで君臨するのです。
民間の陰陽師たちも、陰陽道のスーパーヒーロー安倍晴明を尊敬し、自分たちの権威付けに利用していたと思われますが、土御門家の支配下にはいって、いよいよ大手を振ってその喧伝につとめたのでしょう。江戸時代になると、葛の葉伝説のような、民間系の晴明伝説が主流になってきます。平安京の貴族や帝を験力で救う話より、狐の子晴明のお話の方が庶民にはずっと身近で魅力的に感じられたでしょうから。母子生き別れの悲劇には、いわれなき差別を受け、何かと人間関係でつらい思いをすることの多かった下級陰陽師たちの思いが仮託されているとの見方もあるようです。
奈良で、吉備塚などの伝説を語り伝えたのも、同じような民間の下級陰陽師だったそうですし、京都の上・下御霊神社の近くに住んで、吉備聖霊の伝承に何らかの役割を演じたとみられるのも、同じく民間下級陰陽師集団だということです。現代の晴明ブームではもっぱらヒーロー晴明個人にズポットライトが当てられていますが、このたびの私の中の陰陽師マイブームは、主眼は「なんでこんな面白い伝説(吉備真備や安倍晴明にまつわる)が生まれたんだろう?」というところにあり、伝説の主たる担い手であったという民間陰陽師におのずと目が向いてしまう・・・。その流れでの街歩きが今回の訪問というわけです。
長々と余談を展開してしまいました。訪問レポートに戻ります。「信太森葛葉稲荷」は、それなりの広さの境内を持ち木々に包まれた、なかなか風情ある神社です。

でも、こういうの決して嫌じゃありません。大企業の商業主義だと興醒めですが、ここは中小企業の手作り感いっぱいで、頑張ってるな~って印象。こっちもはるばる観光客気分で来たのだから、お土産の一つも欲しいしね。昔の寺社詣でだって、門前の名物やら花見やらが庶民の楽しみだったわけだから。そういう意味では、来た甲斐がある気分にさせてくれるありがたい神社です。しかし、晴明ブームも一段落してしまったのか、比較的年配の参拝者がぽつりぽつりいる程度で、境内は閑散としています。社務所も留守のようだったので、また後で寄ることにして、次の「聖神社」に向かいました。
「聖神社」は高台の上にあり、カンカン照りの暑い日だったこともあり、結構な道のりでした。途中、「旧府(ふるふ)神社」というお宮で「白狐化石(ばけいし)」という伝説の岩を見ました。

さて、やっと「聖神社」に到着しました。高台一帯を覆う森が神域のようです。この森がいわゆる「信太の森」だと言われています。森の入口の大きな石鳥居とその脇に控える完全に風化した狛犬が何とも言えないたたずまい。


社務所で宮司さんに、葛の葉伝説と聖神社の関係をお尋ねしてみました。すると、伝説は後世のこじつけで当社とは関係ない、と至極ドライなご返答。古い文書は焼失してしまって、詳しい歴史は分からないとのこと。ついでに、先ほど訪ねた「信太森葛葉稲荷」との関係を問うと、これまたきっぱりと関係ない、と言い切る。あちらは元々個人の邸内社だったもので、その土地の郷士が転出する際に別の人にその社地を売って、今のような神社になったとのこと。その際、ウチの稲荷を分霊したけどね、曾祖父の時だから明治時代だね、と。芝居の人気に便乗した、あるいは現代の晴明ブームを当て込んだ流行り神的神社と、由緒ある当社とを一緒にしないでくれ!とでも言いたげです。ウチの稲荷とは、本殿脇にあるお社(通称「信太稲荷」)↓ だと教えてくれました。元々はもっと離れた場所に建っていたものを、神域が大幅に縮小された明治初期にここに移築したものだそうです。これまた立派な桧皮葺の建物で、本殿と同じく桃山時代建造の国指定重要文化財。確かに格が違うわ!

この宮司さん(70歳くらいかな?)、気位の高い難しい人と思いきや、歴史はわからんから説明することなどないと言いながら、結構長々と興味深いお話をいろいろ聞かせてくださいました。例えば、後白河法皇ご親筆と伝わる扁額にまつわるお話。熊野街道沿いの参道入口の鳥居に掲げられていましたが、参勤交代でここを通る近在の藩主たちから、いちいちここで籠から降り拝礼するのは面倒だから降ろしてくれとの声が上がり、神社内で保管するようになった、と言います。私が聞いているのは、まぶしくて困ると漁師から言われ降ろした、という話ですが…?、と返すと、まあ、伝説なんてそんなもんだよ、と澄まし顔。そりゃまあ、帝からのありがたい賜り品がかえって迷惑だなんて、当時は口が裂けても言えなかっただろうからね。恐れ多すぎるという話の方がぜったい都合いいよね。
ただ、漁師の話は全くのデタラメというわけではなく、こんな話もある、とも。信太山丘陵の前に広がる海(泉州灘)は、古くから「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれる良い漁場で、漁業が盛んでした。そこで漁をする漁師が夕方に信太の丘を見上げると、夕陽が聖神社本殿の千木(屋根の上の飾り)に反射してまぶしく見えたとのこと。この神社は漁師たちの信仰も集めていたそうです。しかし、関西空港ができるなどして、海の環境が変わってしまったため、漁業はめっきり廃れてしまって、今もお参りしてくれる漁師さんはたった2人になってしまったということです。
信者と言えば、この近くには被差別部落があり、そこの人たちも熱心にお参りしてくれる、と宮司さんは話を続けました。毎朝決まって参拝に訪れる人が50人いるとすると、その40人は部落の人かな、と。彼らこそ、本に書いてあった民間陰陽師の末裔ですね!今でも聖神社との深い縁が続いていることを知り、内心感動しました。宮司さんのお話によると、その地域内には彼ら自前のお宮もあって信仰されているが、そこを「小宮」と呼ぶのに対し、こちらは「大宮」と呼ばれ、より大きな敬意が払われているとか。秋の大祭の際も、他の一般の氏子と同様に、そのコミュニティからも神輿(だんじり?)が出るそうです。
自分が小学生の頃は、同和教育なんてなかったが、クラスの4分の1くらいはいた部落の子とも、特に意識することもなく、普通に接していたなぁ、とも。しかし、そのような級友も、大人になって他の地域に就職した際に、そこでひどい差別を受けた、というような実例を具体的に語ってくれました。昨今の肩肘張った同和運動や同和教育には少々異議ありという風な口振りでしたが、このような問題も臆することなく語る宮司さんに、シニカルでドライな物言いとは裏腹な、宗教家としての矜持のようなものを感じました。

鼠坂は、ここを逃げる白狐を保名がかくまった所ということになっています。それらしい小道は現にあったのかもしれないけれど、酔狂な見学者が入り込むと危険なので封鎖してしまったのかも。実際、神社境内を取り囲む森はかなり密に生い茂っていて、しかも先は急斜面になっているようです(高台なので)。ちなみに、宮司さんによると、今はガランとしている境内中心域も、昔は松林で木漏れ日の境内という感じだったそうです。桧皮葺の社殿の屋根に、松葉がびっしり積もって掃除が大変だったくらいだとか。松喰い虫にやられて以来、松が育たなくなってしまい、周囲の森も今は雑木だらけの価値のない森になってしまった、と嘆いておられました。
しかし、こじつけと言われてみれば、そんな気も…。鼠坂という名は江戸=東京では、細い坂道によく付けられたありふれた坂名です。ここも伝説とは関係なく元々あった一般的な「鼠坂」だったのでは。狐伝説なのに狐坂じゃないのがそもそも怪しいよね。伝説では、鼠かと思って袖の中にかくまったら狐だった、と苦しい説明をしていますが、鼠と狐を見間違えるかい!
「鏡池」は、以前はもっとワイルドなたたずまいだったそうですが、この地域一帯が団地として大開発されるのに伴って、10年くらい前に史跡公園として整備され、現在のような形になったそうです。ほとりには「信太の森ふるさと館」という郷土資料館兼コミュニティハウスのような小さな施設が建っています。こじんまりとはしていますが、展示はなかなか勉強になりました。開発以前の鏡池の写真もありました。鼠坂の写真も。聖神社の摂社「平岡神社」(これは確かにあった!)の右奥に下り口あるとか。もしまた行く機会があったら見てみなきゃ。ここでは、『信太聞耳散歩・改2』という郷土史小冊子を購入しました。とっても詳しそう。
あまりのんびりもしていられないので、暑い中をまたせっせと歩いて、最初の「葛葉稲荷神社」に向かいました。途中、熊野街道を意識的に眺めながら通過。それほど広くない道幅と緩やかにうねった道筋がいかにも旧道らしい風情です。一見平凡な田舎の街路ですが、所々に古い民家も残っている。昔からの道はやはり歩いていて気持ちいい!

葛葉稲荷神社に戻ると、今度は社務所に神社の人(たぶん女性宮司さん)がいました。いくつかお土産を買ってから、ここでもあの質問を。「聖神社のほうも信太の森と言われていますが、この神社と聖神社は何か関係あるんですか?」 すると間髪いれず「関係ありません。」ときっぱり。「昔はこのあたり一帯、ここも森…信太の森だったのです。」とのこと。何だかそれ以上突っ込みにくくなって聞けませんでした。
神社の由緒書きの印刷物をくださったので、ざっと目を通してみましたが、葛の葉伝説一色で、歴史的なことはほとんど書かれていません。やはりここは伝説のロマンを楽しむ場所で、無粋な突っ込みは慎むべきなのか…?などと考えながら、信太の地を後にしました。が、帰宅後、「信太の森ふるさと館」で購入した小冊子で確かめてみたら、結構ここもそれなりに深い歴史がありそうです。
それによると、このお宮が元々個人の邸内社であったことはその通りなのですが、その個人というのがただの一般人ではない…かつてこの地で絶大な力を誇っていた大庄屋なのです。古来、信太の地の中心は丘の上の「聖神社」でしたが、江戸時代になると、行政的にも経済的にも、この庄屋の住まう平地(現在の「北信太」駅周辺)が中心地となっていました。そんなわけで、芝居で信太の森の葛の葉伝説が評判になった時、真っ先に人々の注目を浴びたのは大庄屋の屋敷の稲荷のほうだったのです。大庄屋の屋敷は2千坪もある大邸宅で、ちょっとした森のような様相だったとか。現在「姿見の井」↓ とされている井戸(聖神社の「鏡池」の役割を担っている)も、楠のご神木(信太の森の象徴)も当時からあり、人々の注目を集めました。あっという間に名所となり、参詣者が押し寄せ、茶店や屋台なども並んだそうです。そんな華やかな状況が昭和30年代ぐらいまで続いたとか。しかも、明治時代にこの地域のほとんどの村社がここに合祀されたため、以後、葛葉稲荷は信太の地の氏神さま的存在になったそうです。名実ともに地域の宗教的中心に躍り出たのですね。その後、この大庄屋の家系が没落し転出してしまったので、往時の隆盛は失われてしまったということですが。

安倍晴明が生きた時代という物語の設定から言えば、また、陰陽師との関係から言えば、「聖神社」こそ信太の森ということになるでしょうが、由緒正しき古社としては、物見遊山の観光地になることに抵抗があったのだろうし、一方、経済感覚に優れた庄屋さんにしてみれば、これぞ絶好の村興しと積極的だったのではないでしょうか。“二つの信太の森問題”の謎が解決(?)してスッキリしました!
ここまでで、えらく長い文章になってしまいました。続きは次回に…。
by machiarukinote
| 2011-06-28 11:39
| 街歩きレポート
|
Comments(4)
お~! やはり文章となったものを読むと、よくわかりますな。
結構短い時間だったともいえるのに、よくぞここまで取材を!
あっぱれでございますな。考察もお見事、さすがでございます。
結構短い時間だったともいえるのに、よくぞここまで取材を!
あっぱれでございますな。考察もお見事、さすがでございます。
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こんな長ったらしい文章を早速読んでくれて、ありがとう!
まだ、続きがあります。またまた長くなりそうですが…。
大阪行きの話がなかったら、大阪の伝説にこれほど興味を向けることもなかったと思います。思った以上に充実した街歩きができました。
本当に感謝しています。
まだ、続きがあります。またまた長くなりそうですが…。
大阪行きの話がなかったら、大阪の伝説にこれほど興味を向けることもなかったと思います。思った以上に充実した街歩きができました。
本当に感謝しています。
鼠坂は枚岡神社の横から降りていく道ですよ❗狭い山道ですが鏡池まで20秒ぐらいで着くと思います‼枚岡神社の横には重軽石ってあってスライムみたいな石があって、叩けば重くなり、撫でたら軽くなる石があります‼
ずいぶん昔のブログにたどり着いてコメント下さり、ありがとうございます。
この情報を知ったら、また行きたくなりました。こういうローカルな言い伝えって大好きです。非科学的とか史実じゃないとか関係なく・・・。このところ大阪方面にはしばらく御無沙汰していましたが、そのうちぜひ!
この情報を知ったら、また行きたくなりました。こういうローカルな言い伝えって大好きです。非科学的とか史実じゃないとか関係なく・・・。このところ大阪方面にはしばらく御無沙汰していましたが、そのうちぜひ!

