奈良訪問ふたたび(その2) |
まず朝一に訪ねたのは「白毫寺」。これは、今回テーマの妖し伝説とは無関係ですが、せっかくこちら方面に来たので寄ってみました。名木「五色椿」などの花のお寺として知られる、けっこう有名な観光スポットです。奈良市東部の山並みを少し登った高台にあり、評判通り、木々に囲まれたしっとり美しいお寺でした。五色椿をはじめ椿の花もちょうど見ごろの季節。どこを切り取っても画になる境内です。
白毫寺でもうひとつ有名なのは、所蔵の閻魔大王像。収蔵庫には閻魔王のほか、同じく冥界十王のひとり太山王、冥界の役人である司命・司録の像も並んでいます。どれも怖い顔をしていてかなりの迫力。特に閻魔王の右にいた人(司命か司録か忘れた)が白塗りの不気味顔でコワかった~!拝観者は他にも何人かいたけど、たまたまこの収蔵庫に入った時は私一人で、しかも見終わったら自分で電灯を消して出るというシステムなので、余計ゾゾッとしました。なぜかやっぱりホラーなところに行ってしまう我が旅です。
白毫寺からは新薬師寺に向かって歩きました。このあたり鄙びた家並みや路傍のお地蔵さんなどがいい雰囲気の界隈です。
めざすは新薬師寺の隣の「鏡神社」。新薬師寺は超有名なお寺で、観光客が次々に吸い込まれて行きますが、すぐ脇の鏡神社はガラ空きです。しかし、ここはぜひ来たかった。というのも、吉備真備や玄昉、それに報恩大師に関係のある神社だから。
ここに祀られているのは藤原広嗣という奈良時代の人物。この人は藤原氏の御曹司でしたが、九州大宰府に左遷させられたのを逆恨みし、打倒!玄昉&真備を掲げて反乱を起こします。橘諸兄政権のもとで、唐帰りの真備や玄昉が新しい政策を進めていくのが面白くなかったらしい。が、間もなく朝廷軍に鎮圧され、広嗣は九州の地で処刑されてしまいます。しばらくして玄昉が失脚し、九州大宰府の観世音寺に左遷させられます。そして、華々しい寺の落慶法要の真っ最中に、玄昉は広嗣の怨霊に取り殺されてしまうのです。何者かに掴み上げられたかの如く空に引き上げられ、体が木っ端みじんになったとか。その首が飛んで落ちた所が「頭塔」(『街歩きノオト』第11号参照)と言われています。
その後、真備が九州肥前に左遷させられた際、唐仕込みの陰陽術で広嗣の怨霊をなだめて封じ込め、鏡神社に祀ったのだそうです。そして、この九州の鏡神社の分霊を奈良の地に勧請したのが玄昉の弟子、報恩。備前四十八ヶ寺で有名な報恩大師のことです。師の首を頭塔に葬った報恩は、頭塔に近い清水寺(のちの福智院)境内に鏡神社を丁重に祀ったと伝えられています。清水寺はその後一旦荒廃し、鏡神社もいつしか現在地に移りました。この地は広嗣の邸宅跡とする言い伝えもあるそうです。
もちろん広嗣の怨霊云々は伝説に過ぎません。真備や報恩の働きも史実の裏付けがあるわけじゃないし。しかし、藤原氏勢力(広嗣)と非藤原氏勢力(真備・玄昉)の複雑な政治的攻防を象徴的に物語る興味深い説話であることは確か。昔の人の想像力ってスゴイ。政治の話が怪談になってしまうのだから。
さて、鏡神社からほど近い奈良教育大学キャンパス内に「吉備塚」というこれまた妖しい伝説スポットがあります。吉備真備の墓と伝えられ、触れると祟りがあるとか。さっそく大学の正門に直行。守衛さんに見学の許しを請うと、あっさり道順を教えてくれました。見に来る人は結構いるのかな。
吉備塚はキャンパスの北辺にありました。クヌギ(?)の大木が何本か生えているちょっとこんもりした部分です。どうということない風景だけど、なぜか一段と雲が垂れこめ、風も強くなってきて雰囲気たっぷり。土曜日なんでキャンパスも閑散としているし。
教育大キャンパスはその昔、陸軍駐屯地でしたが、その際、吉備塚を崩そうとした工事人が病気になったとか、草を刈っただけで死んだ人がいるとか・・・。また、この地は真備の邸宅があった所だとも。しかし、近年発掘調査がなされ、木棺2基と6世紀前半の太刀や銅鏡が出土したそうです。つまり、実際は真備の生きた時代よりかなり前の古墳というわけです。やっぱりだだの伝説なんだ・・・。でも、近くに玄昉の「頭塔」、広嗣の「鏡神社」、真備の「吉備塚」。因縁の主人公たちの妖し伝説スポットがこうも集中して存在するなんて・・・、気になります!
もうひとつ、これらの伝説に関係するモノが近くにあるというので行ってみました。頭塔の近くに「破石(わりいし)町」バス停というのがありますが、この町名の由来となった「破石」という伝説の石です。この石は、藤原氏・吉備氏・安倍氏の境界線を表しているとされ、これに触れると祟りがあると信じられているそうな。そんな恐ろしい石ですが、現在は「えびす屋」という観光人力車の事務所兼オーナー宅にあると聞き、住所を調べて訪ねました。バス停からもそう遠くない場所です。見学に来る人はよくいるそうで、ご主人は快く裏庭に案内してくれました。
意外や結構きれいな庭石として収まっています。ご主人がこの土地を買った時は雑草の中に埋もれていたそうですが、見に来る人もいるのできれいにレイアウトしたのだとか。さわっちゃっていいの~って感じですが、土地の人じゃないようなので気にしてない様子。まあ、伝説だからね。石に刻まれた十字の線が妖しいといえば妖しい。
石が表す境界の藤原氏・吉備氏は分かるとして、唐突に出てくる阿部氏って誰?・・・多分、阿倍仲麻呂のことだと思う。「吉備大臣入唐絵巻」の伝説では、真備の相棒として活躍する妖術キャラですね。史実でも、真備や玄昉と一緒に遣唐留学生として渡航した同期生です。そして伝説では、彼の子孫が陰陽師・安倍晴明ということになっている。
そう、この陰陽師というのがミソ。実はこれまでたどってきた妖し伝説は、すべて陰陽師たちが仕掛けたものだという説があるのです。昔、このあたり高畑町や奈良町には陰陽師が大勢住んでいて、占いなどで生計を立てていたそうです。陰陽師の世界では、吉備真備や阿倍仲麻呂が我が国の陰陽道の祖ということになっている。実際にはそんな事実はないのですが、舶来の最先端学問・技術(昔の人には妖術に見えたかも!)を習得したいにしえの秀才たちは、彼らのヒーローにうってつけだったのでしょうね。陰陽道の祖の権威や威力を高めるため、また祟りや怨霊の恐ろしさを強調するために、陰陽師たちは妖しの伝説をせっせと振りまいたのか・・・。
ともあれ、高畑町には「閼伽井庵」、奈良町には「鎮宅霊符神社」という、いずれも陰陽師と関わりがあるとされる小さな寺社が今も残っています。鎮宅霊符神社周辺には「陰陽町」という町名も。奈良町の真ん中に「御霊神社」という怨霊たちを祀った神社があるのも、何か関係あるのかもしれません。