西舞鶴 まち歩き |
西日本の日本海側へはほとんど行ったことがなく(数年前に鳥取の賀露神社へホーエンヤ祭を見に行ったくらい)、舞鶴など京都府北部も初めての訪問です。新大阪から福知山を経由しての鉄道の旅も、車窓の眺めがいちいち新鮮でした。
銭湯シンポジウムで聴いた話でによると、西舞鶴では「KOKIN」という一種の町興しグループが、国登録有形文化財への申請サポートやグッズ作成で地元の銭湯「若の湯」を盛り上げたり、町屋を改装してゲストハウスや飲食店兼イベントスペースを運営したり、といろいろ活躍されているそう(→「KOKIN」HP)。シンポジウム会場で販売されていた万願寺唐辛子(舞鶴の名物野菜、シシトウの一種で辛くない)の天ぷらも美味しかったし、KOKINスタッフが着用していたオリジナルTシャツも素敵で、とても印象的でした。Tシャツは「若の湯」創業当時の立面図をもとにしたデザインで、現地で販売しているとのこと。郵送もしますよ、と話しておられましたが、やはりここは現地に行くしかないでしょう! 国登録有形文化財の若の湯にも実際入ってみたいし・・・。
というわけで、レトロ銭湯めぐりなら大阪・京都・兵庫に名銭湯がわんさとあるにもかかわらず、ひょんな行きがかりで超ローカルな方向へ向かってしまいました。
泊まるのはもちろんKOKINが運営するゲストハウス「宰嘉庵」。商店兼住居だった古い町屋を改装した宿で、ゲストハウスでありながらドミトリーではなく個室をあてがってくれます。まあ、京都や奈良のように観光客が大勢押しかけるような地域ではないから、これでも充分回るのでしょうね。一人で個室に泊まるとかなり割高になるのが普通ですが、ここはそれほどでもなく、むしろ一般的なドミトリー料金に+アルファくらいで6畳のきれいな和室を独占できて大名気分でした(いつもケチケチ旅行の私基準では・・・)。
KOKINが運営するレンタルスペースのほうでは、銭湯シンポジウムで発表されていたKIKON銭湯部長・徳永さんや、同じくシンポジウムのお手伝いに来られていた坂本さん(Tシャツの柄のデザインをされた方)にもお会いできました。もちろんTシャツは即購入。ローカルな街の良さを楽しむ、というKOKINの皆さんの視点には大いに共感しました。
↓ 「若の湯」Tシャツの柄。これなら普段でもお洒落に着れますね。
さて、西舞鶴の街ですが、観光的に特に大きな有名スポットがあるわけではありません。旧海軍の赤レンガ倉庫群がある「赤れんがパーク」があるのは東舞鶴のほうです。西舞鶴と東舞鶴は隣同士の街ですが、山を隔てて独立した別々の街で、歴史も全く違います(西舞鶴は城下町、東舞鶴は明治以降の軍港)。今回は1泊だけでしたので、東舞鶴には敢えて行かずに、地味な西舞鶴をじっくり見ることにしました。
さすが城下町由来の街だけあって、古めかしい商家もちらほら。看板建築の商店や洋風レトロな銀行建築なども。派手さはないけれど、かつて栄えたローカルな街には付き物の味わいある街並みが楽しめます。
↓ このような古い造りの商家が町のあちこちに見られる。
自宅がこんな素敵な建物なんて羨ましい!
↓ 手前が江戸時代の石橋「農人橋」、奥が昭和初期のレトロモダンな「竹屋橋」。
絶妙な取り合わせの風景。
↓ 突き当りに風流な佇まいの和風旅館、左手前の角には看板建築が印象的な青果店。
↓ 海に近い水路沿いには、いかにも港町らしい年季の入った古い倉庫も。
そして、街の西はずれ、桂林寺前から朝代神社前までの南北300mほどの道沿いに、かつて「朝代遊郭」があったそう。下調べした感じでは、当時の建物はあまり残っていないらしいのですが、一応行ってみました。
まず、一筋東の道沿いに大きな現役の旅館がありました。「霞月楼」なる妓楼だった建物だとか。外観はかなり改装されているのか、さほど目を引くものではありませんが、ネット検索すると、遊郭跡愛好者による建物内部のレポートがありました。装飾性の高い凝った内装はやはり・・・という感じ。
そのすぐそば(裏手)には、写真(↓)のような木造3階建も。古そうな建物ですが、遊郭と関係あるのかは分かりません。
遊郭メインストリートはいまや静かな住宅街と化していて(空き地も目立つ)、見るからにいかにも遊郭そのものという建物はほとんど見当たりません。下の写真は数少ない、いかにもな建物。元遊郭の建物を改装して少し前まで飲食店として使われていたものだそう(現在は店はやめて住宅として使われているようです)。入り口脇の瓢箪型の窓やアール状に張り出す窓格子がお洒落です。
また、メインストリート半ばにある小さな神社「千代宮神社」の玉垣には、当時の遊郭関係者の名が多数見られます。「昭和三十年九月再建」と記されているので、遊郭ももう最後の頃ですね(昭和33年に全国的に廃止されたので)。それでも、「朝代貸席組合」「朝代芸妓一同」といった文字のほか、個々の妓楼や御茶屋らしき屋号、芸妓の源氏名らしき名前も見られ、当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
道筋には他にも、格子窓や高欄風の手摺のある木造建物はそこそこ目に付きますが、必ずしもこういう造りだからと言って、すべてが遊郭建築とは限りません。ちょっと微妙。そこで、地元の人に聞いてみることに・・・。たまたま現代的な民家の前で掃除をしていた年配の男性を見かけたので、声を掛けてみました。遊郭について触れられるのを嫌う人もいるので、こういう時は少々気を使いますが・・・。すると男性は「ウチも建て替えてしまったけど、元は『桔梗家』という御茶屋だった」とのこと。この道筋は、ちょうど京都祇園の花街のような風情ある街並みだった、とおっしゃいます。軒並み建て替えたり改装してしまって、すっかり面影がなくなってしまったけれど、残しておいたら西舞鶴のちょっとした名所になっていたかも、と残念がっておられました。遊郭を恥ずべき場所ととらえる時代もあったけれど、今はむしろ風情ある街並みと好意的に受け取ってくれる人が多いので・・・と。
遊郭の建物はたいてい間口が狭くて奥に深いウナギの寝床状で、桔梗家も30坪程度の敷地とはいえ、当時は四畳半・六畳くらいの小部屋がたくさんあって、表通りに面した部屋が一番上等という造りだった、とのこと。階段が二ヶ所あって、そこから御膳を次々に運び上げたそう。また、一年に一度町内の慰安旅行があったのだけど、宿泊先の宴会ではそれぞれの店専属の「たいこもち」たちが本格的な芸を披露するので、宿ではいつもたいへん珍しがられた、なんていう思い出話も聞かせてくれました。
また、今はなき朝代遊郭の交番の場所も教えてくれました。どうもレトロな建物としてしばらくは残っていたようなのですが、だいぶ前に撤去したらしく、あれも残しておけばなぁ、と。当時は酔客たちの喧嘩もしょっちゅうで、警官が何人も常駐していたそうです。検番(芸妓のマネジメント事務所)もなかなか立派だったようですよ。
偶然でしたが、良い方に出会え貴重なお話を聞けてラッキーでした。
↓ 朝代遊郭の交番があった所。倉敷・川西遊郭の交番みたいな感じだったのかな。
↓ お話を伺った男性宅の向かいの家。ここも遊郭だった建物で、
2階に当時の面影が残っているという。
レポートがだいぶ長くなったので、ここで区切ります。銭湯訪問はパート2にて。