また京都 ③聚楽第の痕跡 |
もともと何か謂われのある井戸とか泉に、無性に惹き付けられてしまうところがあります。地中から清らかな水がコンコンと湧くというだけでも神秘的なのに、それに何らかのストーリーが付随していたら、もう堪りません。これまでも、吉備真備、小野篁、小野小町らゆかりの井戸、城跡の井戸、寺社の井戸など様々な井戸を見てきました。刀鍛冶や怪談にまつわる井戸というのもあったな。
この「梅雨の井」なるものを知ったのは、入江敦彦氏のエッセー集『怖いこわい京都』『秘密の京都』という本を読んで・・・。西陣の住宅街の真ん中にぽっかりと荒地があり、そこに「梅雨の井」という古井戸の成れの果てがある。昔、そこには神社があったが、バブル期の地上げにより取り壊され、聚楽第の遺構と伝わるその井戸だけは地元住民たちの抵抗でかろうじて破壊を免れた・・・という内容でした。廃墟的なものも好きな私としては、興味津々。その後、『京の水案内』(京都新聞出版センター、2013年)、さらに『聚楽第・梅雨の井物語』(中西宏次・著、阿吽社、1999年)で詳しく知り、いよいよ思いが募って見に行くことに決めたのです。
場所は見当がついていました。今回の宿からも近い。前述の銭湯「長者湯」から南へ50~60m進んで、左手(東)の細い路地に入り、すぐにまた左(北)に入る路地を進むと、荒れ果てた空き地に出ます。その空き地の手前側、つまり西南隅にある錆びついた手押しポンプが「梅雨の井」です。
井戸に隣接して建っていた「八雲神社」は建物も御神木も地上げで撤去されてしまいましたが、地上げによる開発は実現しなかったようで、跡地は草木ぼうぼうの荒地のまま。表通りからは見えない民家に囲まれた奥まった場所にこんな光景が広がっていることに驚かされます。その片隅にひっそりと佇む錆びついた手押しポンプ・・・何とも言えない寥々たるうらぶれっぷりです。
梅雨の井は、聚楽第の城内にあった井戸だと長い間言い伝えられてきました。聚楽第というのは、関白・豊臣秀吉が天正15年(1587年)に建てた城郭構えの政庁兼邸宅。いわば豊臣政権の京都公邸です。秀吉のあとには、秀吉から関白の座を譲られた甥の秀次があるじとなりましたが、秀次失脚後は秀吉自身の命令で直ちに建物も堀も徹底的に破却されました。たった8年しか存在しなかった施設であるため謎も多く、正確な位置さえ判明していません。一応ざっくりした位置としては、西は千本通の少し東、東は大宮通、北は一条通の少し北、南は下立売通に囲まれたエリアと推定されています。そしてその外側周囲には、黒田如水(官兵衛)、上杉景勝、豊臣秀長、宇喜多秀家ら、重臣たちの武家屋敷が建ち並んでいたとか。
この界隈は、現在はけっこう庶民的な普通の住宅街なので、往時の栄華は想像もつきません。すっかり市街地化しているため発掘もままならず、建物の建て替え時などに部分的にポイントで発掘調査が行われているくらいのようです。しかし、それでも重要な発見が近年相次ぎ、次第に聚楽第の概容が明らかになりつつあるとのこと。
早い時期に姿を消した施設であるため、聚楽第にちなんだ史跡のようなものもあまり伝わっておらず、梅雨の井はその数少ない、というかほとんど唯一の聚楽第遺構と考えられてきました。この井戸は聚楽第の構内にあったもので、太閤秀吉も茶の湯にこの水を使った、との伝承が伝えられています。しかし、発掘調査の進展により、梅雨の井のある場所は聚楽第本丸の東堀にかかる――つまり堀の中に当たるのではないかと推定されるようになり、たとえぎりぎり聚楽第構内にあったとしても、堀に面した敷地際という井戸としては不自然な立地になってしまうため、近年は聚楽第時代からの遺構という説は否定される傾向にあるようです。
しかし、秀吉公も使った井戸がここにあるという伝承は、江戸時代初期の寛文5年(1665年)の地誌にも記録されているそうなので、そう新しいでっち上げ伝説ではさなそう。建物も撤去され堀も埋められた聚楽第は、あっという間に荒れ野となったそうですが、寛永期(1624~1644年)頃から徐々に町場化していったとのこと。恐らくそこに住むようになった人たちにより新たに掘られた井戸が、この梅雨の井なのではないでしょうか。当時は一帯が聚楽第跡地であることは認識されていただろうから、太閤様も使っただろう同じ水を自分たちも使っているんだという自負も込めて、聚楽第由来の井戸と称したのかもしれません。
史実的に否定されてしまったガッカリ史跡と言えなくもないけれど(それを言ったら、琴弾岩や小野小町姿見の井戸も同類だけど)、それでもなお、井戸の存在が体現するロマンは変わらないと私は思っています。何度も言っていますが、伝説だって年月を重ねた人々の“歴史”なのだから。
路地を通りかかった地元の人に聞いてみましたが、最近は何の動きもないそう。神社があった頃は少しは史跡っぽい感じだったんだけどねぇ、とも言っておられました。
その八雲神社は、『聚楽第・梅雨の井物語』によると、井戸とは直接関係なく、明治になって創建された新しい神社だそうです。ただし、御神木としていたモチノキは聚楽第時代から生えていると言い伝えられていたとのこと。地元では井戸とモチノキはセットで聚楽第遺祉とみなされ、それらを顕彰する目的も兼ねて、近代になってから当地の地主によってささやかな神社が建てられた、ということのようです。
ところで、なぜ「梅雨の井」と呼ばれているのかというと、普段は釣瓶で汲み上げる普通の水位の井戸なのに、梅雨の時季の数日間だけ、井筒からコンコンと水が溢れ出すという不思議な現象が起こるからだそうです。降水量が増えれば水位も上がるというのは自明の理ですが、地面からの高さ70cmもあったという井筒を超えて水が自噴するというのは尋常じゃない。結構な水量だったようで、路地伝いに外の通りまで流れ出る様が名物だったとか。
『聚楽第・梅雨の井物語』の著者はこの地で生まれ育った人で、著者が子供の頃(昭和30年代前半)にはまだこの現象は見られたそうです。当時はすでに井戸崩落後の手押しポンプの時代でしたが、もちろん普段でもポンプを押せば水は出る状態で、梅雨の季節になると、井戸の周辺各所から水が湧き出していたとのこと。噴出口によっては数センチの高さに水が自噴していたそうです。路地伝いに流れ出る水に葉っぱの舟を浮かべて遊んだ、という思い出話も記しています。
高度成長期ただ中の昭和40年代に入る頃には、このような湧水もなくなっていたのではないかとのこと。手押しポンプの井戸としても長らく使われていない様子なので、とっくに涸れてしまっているのでしょう。でも、ほんの数十メートルの所にある「長者湯」では毎日の風呂の湯に井戸水を使っています。梅雨の井も掘り直せば水は出るんじゃないかな。梅雨の時季の自噴は無理にしても・・・。聚楽第のロマンを伝えるためにも、ぜひ復興させてほしいものです。
さて、もう一ヶ所、聚楽第の痕跡と伝わる史跡に行ってきました。梅雨の井からもすぐ。松屋町通をさらに南へ100m余り行った所にある「松永稲荷神社」(上京区南清水町)です。ここは、聚楽第南二ノ丸南堀に架かっていた「鵲(かささぎ)橋」があった所と伝えられていて、「聚楽城鵲橋乃旧蹟」と彫られた石碑(昭和7年)も立っています。
神社のすぐ南側に、奥に細長く続く空間があり、堀の痕跡と考えられる細い水路が通っていた所と聞いていたので、写真を撮ろうとしたら、その男性が「小川の跡だよ」と言って、フェンスをどかしてくれました。その小川の痕跡は、道路を挟んだ向こう側にも続いているようでしたが、そっちは個人宅に敷地内っぽかったので写真は遠慮しました。この小川が道を横切る地点に、かつて鵲橋と呼ばれる小さな石橋が架かっていたらしい。昭和36年(1961年)の下水道工事の際に、ここから石の欄干や擬宝珠が出土したそうですから。聚楽第の堀の橋と聞くと、堂々たる大きな橋をイメージしますが、どうも実際は、聚楽第なき後の時代に、堀の後身である小川に架けられた小橋が「鵲橋」の正体のように思えてきました。「梅雨の井」と同じですね。
男性は通りかかった知り合いらしき高齢女性にも声を掛け、二人で、どこそこにも井戸があった、などとしばし井戸談義。井戸は上物を撤去しても、完全に埋めたりせず、大抵は塞いでキープしてあるそうです。何やらそうする決まりらしい。そして、わざわさすぐ近くの工事したばかりの井戸跡まで案内してくれました。神社のすぐ北の路地を入った所にあり、裏店の共同井戸だったのではないかと思われました。こういうのがあちこちにあったわけですね。
またお二人とも、松永稲荷神社にはかつて道を覆うばかりの巨樹が生えていた、と話していました。だいぶ前、30年は昔のことのようですが。明かりが灯る夜の風情もいいよ、とのこと。そして、聚楽第や史跡に興味があるなら、ぜひ「京都市考古学資料館」へ行くといい、いろんなマップも用意されているから、と熱心に勧めてくれました。時間があったら行こうかな、とは考えていましたが、この言葉を聞いて、これは絶対行かねば!に変わりましたよ。
伝承を伴う聚楽第関連の史跡は以上ですが、地形などからそれとわかる聚楽第の痕跡は何ヶ所かあります。そのうちの、北ノ丸北堀跡を見てきました。
松永稲荷神社がある松屋町通を北にずーっと進むと(神社から500mくらい)、東西に走る一条通に突き当たります。町名でいうと、鏡石町というところ。この一条通とその1本北の通りとの間に、高さ約2.5m東西の長さ約150mの段差があり、これが堀の痕跡だというのです。しかし家がびっしり立ち並んでいるので、外からはその段差は分かりません。
一条通りから北に向かう路地を見つけ、入ってみました。両脇に民家が立ち並ぶ「裏店(うらだな)」というか、京都で言う「ろうじ」というやつですね。奥は突き当りになっていて、小さな祠が祀られています。祠の背後は壁になっていて、壁のさらに上にブロック塀が立っています。家の1階分くらいの高さのその壁が、どうやら土地の段差らしい。
先ほどの松永稲荷神社で遭遇した男性といい、この女性といい、わりあい若いのに(いわゆる歴史好きのおじいちゃんとかではないのに)さらりと当然のように史跡案内してくれるのには驚きます。聚楽第跡に住んでいるという土地柄ゆえでしょうか。この辺りの人は誰でも案内できるのかな。
さて、さっそくそちらへ向かおうと、路地を引き返した時に、面白いものが目に留まりました。滑車を備えた釣瓶井戸。この「ろうじ」の共同井戸のようです。石組みの水盤の上にいろんな物が載っていたので、使われていないのかとも思いましたが、覆い屋や井戸の鉄蓋などは結構新しそう。防災用とかでキープしているのかもしれません。ろうじ沿いの家々も決して古ぼけた感じではなく、きれいに改修されており、普通に現代の住宅という印象です。「ろうじ」という住居形態が現代にも当たり前のように生きている・・・京都のすごさを痛感しました。