京都旅④ 嵐電沿線~あの世の入り口~ |
まずは、嵐電・西院駅近くの「高山寺」。山門わきに「淳和院跡」との石碑が建っていますが、この辺りにあった平安時代初期の帝・淳和天皇の離宮を指しています。淳和院は淳和天皇の即位前の邸宅であり、退位後も皇后・正子内親王と共にここで暮らしたそうです。別名を西院といい、現在の地名・駅名の語源となりました。淳和天皇は桓武天皇の皇子で平城天皇・嵯峨天皇の弟ですが、権力闘争に翻弄され、生涯気苦労の絶えなかった気の毒な、影の薄い帝です。また、死に際しては、葬式も墓も要らないから散骨するように、と強く遺言し、その通りに実行された人でもあります。
↓ 西院駅近くの「高山寺」。門の脇に「淳和院跡」の碑が立つ。
離宮・淳和院は上皇の死後、皇后・正子内親王によって寺とされ、その後、浮沈・断絶等もあったようですが、江戸時代には賽の河原のお地蔵さまの寺として崇敬を集めるようになりました。賽の河原とは、三途の川の河原のこと。幼くして死んだ子どもは親不孝の罪のために、ここで地獄の鬼にさいなまれる(親の供養のために積み石をすると、すぐさま鬼に崩される、を繰り返す)のですが、最終的には地蔵菩薩によって救済される、と信じられていました。西院は「さい」とも発音されることから、この地が「賽の河原」とみなされ、高山寺の地蔵こそ、子供たちの守り神であるとして大いに信仰されたということです。
本尊の子安地蔵は本堂に安置されているとのことですが、本堂前の屋外にも石造の大きな地蔵が立ち、それを取り巻くように古い磨滅した石仏がたくさん並んでいます。付近にあった御土居(豊臣秀吉が築かせた都防衛の土塁)から掘り出されたものだそうです。
↓ 高山寺境内の大きな石造地蔵菩薩(江戸時代の作)と石仏群
往時の淳和院は天皇の離宮だけあって広大な敷地を占めており、高山寺の位置を東南隅として、西は現在の佐井通りまであったそうです。佐井通りは前回レポートした西院春日神社が面している通りで、平安京の時代には「道祖(さい)大路」という重要道路でした(南北方向の大路)。またその大路に沿って、佐井川という川も流れていたそうです。この佐井川が南流して京域外に出る辺りは、「佐井河原」と呼ばれ葬送の地だったとか。この「佐井河原」と淳和院別名の「西院」が重なり合って、ここが「賽の河原」とされ、幼い死者を供養する地蔵信仰の中心地となった、と考えられています。
西院は葬送の地だったとする説明を時々見掛けますが、現在の西院エリアは平安京の域内ですので、そんなことはあり得ません。葬送の地は京域外に設ける決まりでした。例えば、平安京の描写によくある鴨川の河原に遺体累々というのはあり得る光景です。当時の鴨川はぎりぎり京域外だったので。
次の「あの世」スポットは、西院駅から6つ先の帷子ノ辻駅。嵐電の支線・北野線との乗換駅でもあります。「帷子ノ辻」(または帷子ヶ辻)という地名がいかにも、ですよね。帷子(かたびら)=経帷子とは、死者に着せる着物、死装束のことです。
伝説によると、平安初期、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)の葬送の行列がここを通りかかった時に、棺を覆っていた経帷子が風にさらわれて舞い降りたので、その地を帷子ノ辻と呼ぶようになった、とのこと。また別の伝説もあります。檀林皇后は大変な美貌の持ち主で人々の憧れの的でしたが、人々の煩悩を断ち切るために、自分が死んだら路傍に打ち棄てるように遺言し、朽ち行く遺体を衆目にさらして世の無常を知らしめた、その場所が帷子ヶ辻だ、というもの。そして、この様子を描いたのが「九相図」であるとされます。九相図とは、美女の遺体が醜く腐り朽ちていく段階をリアルに描いた仏教絵画。その美女を具体的な実在の人物、檀林皇后や小野小町に設定した作品もわりとあるのです。
しかし、後者の伝説はいくらなんでも盛り過ぎでしょう。皇后の遺体をそこらに放ったらかしにするはずないし、そもそも檀林皇后は当時としては長生きしたので、亡くなった時は結構なお婆ちゃん。煩悩云々の対象とするにはかなりの無理がありますから。
↓ 現在の「帷子ノ辻」。交差点名に表記されているくらいで、普通の街。
その帷子ノ辻の現状ですが、太秦の撮影所にも近い庶民的な繁華街で、それらしい雰囲気は皆無。往時は、ここは平安京から域外へと少し出た所に当たり、「化野(あだしの)」へ向かう道沿いの寂しい場所だったようです。何本かの道が交わる辻で、化野への入り口とみなされたらしい。化野は、鳥辺野、蓮台野と並ぶ京の代表的な葬送の地。奥嵯峨とも呼ばれ、化野念仏寺などがある嵐山の西北部です。帷子ノ辻付近も葬送の地だったかどうかは不明ですが、檀林皇后の伝説が有名だったこともあり、この辻を通ると女性の腐乱死体の幻が見えるといった怪談じみた話も広まって、葬送にまつわる特別な地とみなされるようになった模様です。
とはいえ、現在の帷子ノ辻は駅前の活気ある普通の街。この先、嵐山まで行ってしまうと観光客相手の店しかないだろうと考え、ここで昼食をとりました。中華屋さん、美味しかった! 諸行無常より食い気です。
さて次の目的地は、終着駅の嵐電嵐山駅から直線距離で1キロほど北にある、もう一つの辻です。京都バスのフリー乗車も含む一日乗車券を買っていたので、行きは路線バスに乗って向かいました。
実はここに「六道の辻」があるのです。六道の辻といえば、以前訪ねた六道珍皇寺付近がその場所として有名です。京の東の葬送地・鳥辺野への入り口ですね。平安時代初期の官僚・文人である小野篁(たかむら)は、伝説によると、六道珍皇寺にある井戸から毎夜冥界へ通って閻魔大王の補佐官を務め、朝になると井戸を伝ってこの世に戻り、何食わぬ顔で朝廷へ出勤したとか。しかし井戸は一方通行だったようで、行きと帰りは別々の井戸と考えられていました。そこで六道珍皇寺では、有名な「冥土通いの井戸」の他に、最近発見された井戸を「黄泉がえりの井戸」に設定しています。
↓ こちらは以前訪ねた六道珍皇寺の「冥土通いの井戸」(2013年9月撮影)
しかし、より一般的な伝説によれば、帰りの井戸は嵯峨化野にあり、その地は「生の六道」と呼ばれた、ということです。昔はここに福生寺という寺があり、小野篁作と伝えられる生六道地蔵菩薩像が祀られていましたが、明治初め頃に寺は廃絶したとのこと。その後、昭和戦後にこの辺りが宅地開発される際に、福生寺跡と思われる場所から7基の井戸と複数の石地蔵が掘り出されたそうです。これがあの世から戻る伝説の井戸と推定されましたが、残念ながら宅地化により失われました。観光に生かそうという発想がなかった時代だったのですね。
現在では、そこに程近い辻(交差点)に小公園が設けられ、「六道の辻」の石碑が建てられています。まだ出来たばかりのようで、少々重みに欠ける殺風景な公園ですが。
↓ 嵯峨・大覚寺近くの交差点わき小公園内に立つ「六道の辻」の石碑。
↓ 同小公園内には井戸と地蔵も一応再現(?)されているが、即席感は否めない。
実際に井戸が7つまとまって出土した辺りという場所(石碑から北西へ約100m)へも行ってみましたが、ただの住宅街でどうということもなかった・・・。井戸枠の石の一つも保存しておけば、小公園に移設するなどして、少しは見栄えする史跡にできたろうに、もったいないことをしましたね。
ある本に、石碑近くの祠に祀られている2体の石地蔵は、井戸と共に出土した地蔵の一部だと書いてあったので、探してみました。「嵯峨大覚寺門前六道町」との町名標識が掲げられた祠とのことで、ありました! 2体の石仏が安置されています。他に近辺にはそれらしい祠はなかったのでこのことでしょう。石仏は、京都のお地蔵さんによくある化粧地蔵(ペインティングされた石地蔵)になっていて、ちょっと古さは伝わってきませんでしたが。
↓ 生の六道の辻近くに建つ、町名標識のある祠。
福生寺にあった篁ゆかりの生六道地蔵菩薩像ほかいくつかの仏像は、明治初年に廃寺になる際、近くの薬師寺というお寺に移されたそうです。その薬師寺とは現在、有名な清凉寺(嵯峨釈迦堂)の境内塔頭となっているお寺。清凉寺境内の西端にあります。ここからもそう遠くないので寄ってみました。薬師寺は観光対応はしていないため、通常内部拝観不可ですが、外観は自由に見ることができます。
ここ薬師寺では、毎年8月24日の一日だけは、地蔵盆の行事のために本堂を一般公開し、生六道地蔵菩薩像や小野篁像などを誰でも無料で拝ませてくれるそうです。行ってみたい気はしますが、京都に住んでいるのならともかく、なかなかその日1日を目指して旅行するのは難しそう。嵯峨薬師寺のHPには、これらの像が写真でしっかり紹介されているので、興味のある方はどうぞ。
↓ 嵯峨薬師寺の本堂と「生の六道」の碑
小野篁の伝説が盛んに語られ、それにちなんだ信仰行動や行事が庶民の間で活発に行われるようになったのは、そう古い時代のことではなく、たぶん江戸時代以降と思われますが、興味深いことに、篁ゆかりの伝説の地はすべて、古くからの京の代表的葬送地の近くに設定されています。鳥辺野の六道珍皇寺、蓮台野の千本ゑんま堂、そしてここ化野の「生の六道」。先祖近親の冥福を祈るには、うってつけの場所だったわけですね。初めて伝説を知った時には、あの世への入口が珍皇寺で出口が嵯峨とはずいぶん遠くて、非現実的設定だな、篁さんも毎朝家に帰るの面倒くさかったろう、なんて思いましたが、そういう問題じゃなかったんだ。
ところで、今回のテーマを「あの世の入り口」と書きましたが、生の六道は、正確にはあの世からの出口ですね。でも、あの世から出る人は普通いないので(篁さん以外は)、入り口で統一しました。葬送地への入り口ということで。
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嵐電沿線のあの世関係の史跡巡りはこれにて終了ですが、最後に一つ、「月読神社」も紹介したいと思います。あの世とは無関係ですが、神秘的な月の神様の聖地ですので。
この月読神社は、嵐電嵐山駅周辺の中心観光地からかなり南、渡月橋を渡ってさらに行った先にあります。だいぶ離れているので、京都バスを使いました。今回、京都バスの嵐山エリアも使える嵐電一日乗車券(普通の一日乗車券より200円高い)を選んだのは、ここへ行きたかったからです。
このエリアでは松尾大社がわりと有名ですが、月読神社はその松尾大社よりさらに400mほど南です。こちらはさほど知られていないせいか、松尾大社から流れてきた観光客が三々五々訪れる程度。松尾大社には帰りに寄ってみましたが、名物のヤマブキがちょうど満開で見頃を迎えていたため、すごい人出でした。ここが特に何もない時だったら、月読神社ももっとひっそりしていたかも。
↓ 月読神社
山裾の一段高くなった所に鎮座する月読神社は、なかなか立派な構えで、境内に上がれば、きらびやかさはないものの、きれいに整備されています。「穢解(かいわい)の水」という山からの湧き水があって、昏々と水が流れ出ていました。豊かな水と木々の緑とで、とても清々しい落ち着いた印象。あまりに静かなので、社務所も無人かと思いきや、ちゃんと人はおられました。神職が常駐ではないようで、御朱印は書置きでしたが、丁寧な対応でした。モノトーン系のお守りもスタイリッシュで素敵です。
↓ 月読神社境内の「穢解(かいわい)の水」。
こんな堂々たる神社なのに、月読神社は現在、松尾大社の境外摂社という扱いです。しかし、江戸時代頃までは独立した別の神社だったとのこと。平安京造営以前に壱岐(長崎県の島)の月読神社から勧請されたと伝えられる、格式高い古社だそうです。月読(ツクヨミ)は日本神話(記紀神話)に登場する月の神で、アマテラスやスサノオの兄弟にあたる重要な神様。そのわりには具体的な神話は少なく、謎の多い神でもありますが。壱岐のツクヨミ神は、海の民に崇敬された潮の干満を支配する神と考えられているそうです。潮の干満には月の満ち欠けが関係していますからね。
しかし、ここの月読神社は現在、主に安産の神様として信仰されているようです。境内には「月延(つきのべ)石」という安産のご利益がある霊石も祀られています。これは古代の伝説的な女傑・神功皇后ゆかりの石とされていて、妊娠中の神功皇后が朝鮮半島に出兵した際、出産を遅らせるために腹にあてがっていたものと言われています。伝説はともかく、月の満ち欠けは実際、出産にも影響するそうなので、月の神が出産を司るのもまた理にかなっているわけです。
↓ 月読神社境内の「月延石」。安産のご利益があるという。
幼い頃、アニメ映画『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年作)を見て以来、ツクヨミのファン(?)になりましたが、ツクヨミ神は重要な神様のわりには、なぜか主役として祀られている例が少ないんですよね。今回、国内有数の由緒あるツクヨミの神社にお参りできて良かったです。
松尾大社の神像館には、月読神社のものも含む神像が収蔵されているそうで、こちらも拝観したかったのですが、あまり時間がなかったのと、すごい人出に気圧されて、今回はパスしました。
嵐電沿線全体から言っても、見逃した所、廻りきれなかった所がたくさん。例えば、神秘系神社なら「蚕の社」、広隆寺や清凉寺の仏像も一度は見ておきたいし、百人一首方面では「時雨亭」関連史跡や大覚寺の「名古曽の滝」、マイナー系では街なかミニ景勝地「鳴滝」などなど。せめてもう一回は、嵐電一日乗車券で廻らねばなりませんね。