京都・奈良① ~篁と六道の辻~ |
まずは、京都で六道珍皇寺を訪れました。たまたま京都の観光パンフレットを見ていて、今年の夏(7月~9月)は六道皇珍寺が特別拝観を開催しているのに気付いたのです。ここは小野篁(おののたかむら)ゆかりの寺で、以前から行きたいと思っていたスポットです。篁については、前回の(このすぐ前の)ブログで触れています。篁を主人公にした小説『鬼の橋』を読んだから行きたくなったというより、六道珍皇寺を訪ねることにしたので慌てて小説を読んだというのが本当のところですが(少し前に購入していたけど“積ん読”状態だったので・・・)。
オカルト的伝説を持つ古代文化人、ということで篁には以前から興味を抱いていましたが、より身近に感じるようになったのは『街歩きノオト』第16号で倉敷市酒津界隈を歩いてからです。あのあたりには小野小町伝説があり、その関連でだと思われますが、酒津の「青江神社」には思いがけなく小野篁が祀られていたのです。吉備の地で篁に出会うとは! このミスマッチに俄然“そそられる”ようになりました。岡山、特に備中には吉備真備、安倍晴明伝説のみならず、小野篁の影もちらつくのですね!妖し過ぎだわ~。
さて、京都の六道珍皇寺は、普段は境内を散策できる程度で、本堂や閻魔堂の内部、冥界通いの井戸がある庭などは公開されていません。毎年春と秋に1~2週間ほど特別拝観の期間が設けられ、これらを見せてくれるようですが、今回は約2ヶ月半に渡っての大盤振る舞い。そうそう良いタイミングで京都に行けるとは思えないので、この機会を逃す手はない、と訪問を決めました。
↓ 六道珍皇寺の入り口。「小野篁卿旧跡」と「六道の辻」の碑が立つ。
六道珍皇寺は平安時代初期に小野篁が開いたとも弘法大師空海が開いたとも伝えられていますが、詳しい創建や変遷は不明とのこと。そもそもここから東の一帯「鳥辺野」(現在の清水寺とその南エリア)は平安京の代表的な葬送の地で、そこに至る道沿いには死者を送る役割を担う寺がいくつかあったといい、その一つが六道珍皇寺なのだそうです。「六道の辻」とはあの世とこの世の分岐点・境界を意味する名称。この辺りがまさにその六道の辻なんだとか。
また、この寺には篁が冥界に通うのに使ったという井戸があるのでも有名です。ここは入口専用のようで、出口の井戸は嵯峨野の清涼寺の近くにあった(現存せず)ともいいますが、六道珍皇寺では、近年(2011年)隣接民有地(旧境内)から新たに発見された井戸を、言い伝えにあったという出口専用の井戸、名付けて「黄泉がえりの井戸」として整備・宣伝しています。
↓ 「小野篁 冥土通いの井戸」 本堂北東側の小さな庭にある。
傍らに立つ尖った葉の木が「高野槇」。篁はこの枝を伝って井戸を降りたという。
↓ 新たに発見された「小野篁 黄泉がえりの井戸」
上記の井戸のさらに奥、通路状の長細い敷地の先にある。
本堂内には寺宝の地獄絵の数々がこれでもかというほど展示されていて、「メメント・モリ(死を想え)」ムードたっぷり。さらに、本堂手前にある閻魔/篁堂には閻魔大王と小野篁の堂々たる木像が・・・。普段は格子越しにしか拝めないそうですが、特別公開中はお堂の前面が開け放たれ、しっかり見えるようになっています。閻魔坐像は平安時代の作(篁自作との伝承あり)、篁立像は江戸時代初期の作だとか。どちらもなかなかの迫力。像の撮影は禁止と言われたけど、お堂などの全体像を撮るのならO.K.とのこと。以前の興福寺北円堂無著像の時の要領で、遠くからお堂を写すふりをしてズームで撮ったのがコレ(↓)です。
↓ 閻魔/篁堂に安置されている篁立像。
袖の先が翻っているのは、井戸を下降中の姿を現しているからだそう。
閻魔像は口をカッと開けた怖い顔のよくあるタイプの坐像で、写真をクリアファイルにしたものも売られていましたが、なぜか篁像(上掲の彫像)のほうは絵葉書も写真を使ったグッズもなし(掛け軸の絵画作品をクリアファイルにしたものならあったけど)。篁を売りにしているお寺なのに、ちょっと残念。この彫像は江戸時代というはるかに下った時代の作ではありますが、不遜な表情や威圧的な体格など篁のイメージ像として良くできていると思うので、むしろこちらをグッズ化して欲しいものです。
ちなみに、篁のフィギュアが付いたストラップは販売していました。畏れ多いからグッズ化には消極的というわけではなさそう。しかし、これはオリジナルの造形なのか、彫像にはあまり似ていない・・・。どうせなら、あの像をそのままミニチュア化したものにすればよかったのに。やはり袖は翻っていなくちゃね。まあ、せっかくなので話のネタに購入しましたが。
京都にはお盆の時期に「六道まいり」という風習があるそうで、その期間(8月7日~10日)には、この六道珍皇寺は大変な人出で賑わうそうです。精霊が宿るという高野槇の枝を買い求め、水塔婆に先祖の戒名を書いてもらって納め、迎え鐘を撞いて先祖の霊を迎えるのだそうです。この時期には、今回公開されている仏像や寺宝の数々も公開されるということですが、大混雑の中拝観するのは大変そう。
その「六道まいり」の時に人々が列をなして撞くという迎え鐘が、このお堂(↓)。
↓ 六道珍皇寺「迎え鐘」(左)。 右の小堂は「閻魔/篁堂」。
また、六道珍皇寺では、春・秋の公開期間と夏の「六道まいり」の期間にだけ、特別な御朱印を授与しています。色紙に金泥で書いたもので、色紙は春:若草色(濃い抹茶色)、夏:紺、秋:もみじ色(えんじ色)というカッコいい配色。御朱印好きには評判の隠れたヒット商品(?)らしい。今回は特別な長期公開ということで、すべての色が揃って用意されていましたが、やはり紺が基本かなと判断して、紺に「小野篁卿」の文字のバージョンをいただきました。(「閻魔大王」や本尊「薬師如来」などいくつかのバージョンがある。)
もう一つこのお寺で特筆すべきは、国重文の木造薬師如来坐像(通常非公開)。旧本尊ですが、本堂ではなく防火設備の整った収蔵庫に安置されています(本堂には別の新しい薬師如来像が本尊として安置されている)。平安時代の作というだけで詳しい解説はなし。本格的な学術調査は未実施のようです。ややエキゾチックな厳かなお顔から、平安時代も初期のものではないかな、と推測しました。京都の観光情報サイトによると、頭部は古いが他は後補だとか。古そうで立派なわりには、国宝ではなく重文どまりなのはそのせいかな。なかなか私好みの仏像で、嬉しい出会いでした。
六道珍皇寺を出て、前の道(松原通り)を東へ150mほど歩くと、そこにも「六道の辻」の石碑が立っています。この碑が立つ角にあるのが「西福寺」。嵯峨天皇の后、壇林皇后ゆかりの寺です。
↓ もう一つの「六道の辻」の碑と、西福寺
嵯峨天皇は小野篁と同時代の人。その正妃、壇林皇后(本名・橘嘉智子)はすごい美人だったと言われています。熱心な仏教徒でもあった彼女は、自分の死に際して、遺体を鳥獣に与え、また、朽ちて行く姿をさらすことで諸行無常を人々に示すため、遺体を埋葬せずに放置するよう指示した、という伝説が伝えられています(史実ではないようですが)。
西福寺に所蔵されている「壇林皇后九相観」という絵画は、その壇林皇后の遺体が朽ちていく様子を段階別に描いたもの。実物は未見ですが、写真で見るとすさまじい内容のビフォーアフターです。十二単の平安美人が、やがて青黒く膨張し、ウジがわき、膿み崩れて最後には白骨になる・・・。毎年「六道まいり」の時期(8月7日~10日)にだけ公開されるそうです。
普段の西福寺を覗いてみましたが、門をくぐったらすぐに本堂がきつきつに建っているような、本当にこじんまりしたお寺で、狭い境内には石のお不動さんやお地蔵さんやらお供え物が所狭しと並んでいて、本堂奥では信徒のおばちゃんたちが集って何やら作業している・・・。なんかとっても庶民的な、ご近所のお寺という雰囲気でした。
この西福寺の向かい側に、こんな看板(↑)を掲げたお店があります。「幽霊子育て飴」というご当地名物お土産です。その由来がスゴイ。今から400年余り前(慶長年間)のある夜、この店にいわくありげな女性客が現れ飴を買っていった。その後数日、毎晩飴を買っていくのだが、ふと見ると受け取ったお金がすべて木の葉に変わっている。不審に思った飴屋の主人がある晩、女の後をつけて行くと、鳥辺野の墓地で姿が消えた。そういえば最近妊婦が亡くなって埋葬された、という話を耳にした主人は、僧侶と共に墓地を再訪。かすかに聞こえる赤ん坊の泣き声を手掛かりに墓を掘り返すと、そこには死女の胸で飴をしゃぶる赤子がいた。死んだ母親が幽霊となって飴を買い求め、墓の中で生まれた我が子に与えて命をつないでいたのだという。赤ん坊は飴屋に引き取られて成長し、後に立派な僧侶となって天寿をまっとうしたとか。以来、この店の飴が命の飴として評判となり、この地の名物となったそうです。
心温まる人情話というか、気味の悪い怪談というか・・・なんとも言えないお話ですなぁ。名物土産の名前が「幽霊○○」だなんて、縁起良いのか悪いのか。いかにも「メメント・モリ(死を想え)」エリアらしい名物です。死と生は表裏一体。六道まいりの風習と共に、死を想いつつ、精一杯たくましく生きる都の庶民の思いが伝わってくるような・・・。
ちなみに、飴は昔ながらのべっ甲飴を一口大にかち割った状態ものでした。店頭で試食させてくれます。素朴で美味しい。店の女主人が、幽霊が買いに来た当時の飴は水飴状で、棒に巻き付けて売る形だった、と説明してくれました。お店は以前、この通りのもっと東のほうにあったそうですが、立ち退きになってここに移転したとのこと(旧地は現在、京都市の自転車置き場になっているそう)。ちょうど「六道の辻」碑まん前だし、町名も轆轤町だし、かえって良かった、と話しておられました。轆轤(ろくろ)町は髑髏(どくろ)町がなまってできた町名だそうです。かつて葬送の地だったこのあたりは、ちょっと掘り返すと人骨がゴロゴロ出てきたからだとか。
とにかく、初めから終わりまで徹底して「メメント・モリ」色いっぱい。それを敢えて売りにしているエリアなのが面白く楽しめました。 (続きの奈良編は次回ブログで・・・)
↓ 今回の戦利品。左から、六道珍皇寺の金泥御朱印、篁フィギュアストラップ、
幽霊子育て飴とその中身。